礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

近衛師団長の橋本虎之助が喚問された(1936・2・12)

2021-03-27 00:42:26 | コラムと名言

◎近衛師団長の橋本虎之助が喚問された(1936・2・12)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その三回目。

 橋本近衛師団長の喚問
 永田事件軍法会議第六回目は、裁判長が開廷を宣すると同時に非公開となった。現職の近衛師団長・橋本虎之助が、証人として喚問されたからである。橋本は真崎〔甚三郎〕教育総監罷免事件、永田軍務局長斬殺事件、十一月二十日事件〔士官学校事件〕当時の陸軍次官で、事件解明のカギを握る重要人物だ。
 この日〔一九三六年二月一二日〕、残雪におおわれた東京も、久しぶりの暖かさ。師団司令部構内の老梅も、ようやくほころびそめていた。
 非公開となると、記者団も退廷しなければならない。テントへ引き上げた私は、すぐ原稿用紙に向かって鉛筆を走らせた。
「永田屯件軍法会議第六日目は十二日午前十時から青山の第一師団軍法会議所法廷で開かれた。この朝、公判廷には前陸軍次官、現近衛師団長橋本虎之助中将出頭の報に、公判廷の内外は色めきわたって、特別傍聴席も一般傍聰席も超満員。古荘〔幹郎〕陸軍次官がはじめて傍聴席に姿を現わしたほか、心労の余り病に倒れた特別弁護人満井〔佐吉〕中佐も病躯〔ビョウク〕を押して出廷。爆発せんばかりの緊張裡に同十時八分裁判長開廷を宣し、型の如く被告氏名の点呼を終る。この時、突如、裁判長は昂奮に顔面を蒼白にしながら正面判士席に起立。『これよりの公判は軍事上の利益を害するおそれあるにつき、弁論の公開を停止し、公判廷整理のため暫時休憩いたします』と厳かに公開の停止を宣告、同十時十分休憩となる。 次いで約五分ののち佐藤裁判長以下各判士、島田検察官、鵜沢、満井両弁護人が着席するや、同十時半、ついに証人として喚問された橋本前陸軍次官が憂愁の色濃く眉をくもらせながら出廷。古荘次官、堀軍法会議長官列席のうえ、いよいよ非公開のまま永田事件の状況に関し、橋本中将への重大なる尋問が行われた。親補職たる近衛師団長の喚問という、陸軍空前の大事件に立ちいたったので佐藤裁判長や杉原法務官、島田検察官らのほおも、ここわずか数日のうちにゲッソリと削りとられて軍法会議が刻一刻、重大性を増していることを物語っていた。残雪に閉ざされた公判廷の外部はピストルを腰にいかめしい憲兵や歩兵連隊から派遣された巡察兵が十重二十重に取り巻いて、法廷の付近には司令部員も近寄れぬ厳戒ぶり。かくて橋本中将の証人尋問を終わってのち、鵜沢弁護人から相沢中佐に寄せられた激励の手紙を裁判長に提出(中略)同十一時五十分閉廷となる。次回は十四日午前十時から開廷のはず」
 もちろん、このニュースは夕刊のトップ記事。「永田事件の軍法会議、遂に公開を停止、『軍事上の利益を害する惧れ』、橋本前次官が出廷」というのがその大見出しだ。永田事件公判は、いよいよやま場にさしかかったのである。
 ところで、橋本の法廷への出頭は、スラスラと実現したものではない。最初、彼は裁判長からの出頭要請に対して、頑強にこれを拒んだ。近衛師団の幕僚たちも、出頭に応じるべきでないとして師団長のしりをたたいた。その理由は「現在、橋本は近衛師団長として宮城守衛という特殊の責務と栄誉を有する将軍である。にもかかわらず、他師団の、しかも階級の低い将校によって構成される法廷へ出頭するのは、累を将来におよぼすおそれがある。もしも裁判長が橋本にたずねたいことがあるとすれば、法務官を差し向ければいいじゃないか」というにあった。反皇道派の杉山元参謀次長も、これと同じ意見であったようだ。
 しかし中立派の川島〔義之〕陸相や古荘幹郎〈フルショウ・モトオ〉次官は、裁判長の強硬方計を支持した。すなわち、「橋本が前陸軍次官として法廷に立つものなら、何ら差しつかえがないではないか。むしろ出廷して事件の真相を明らかにし、永田のために弁護してこそ、粛軍の実をあげ得ることになりはしないか」と主張した。そこで橋本も陸相の勧告に従った。そして、親補職に対する証人喚問という、陸軍空前の事態に立ちいたったわけである。このように橋本の出頭が実現すれば、さらに大物への証人喚問は必至である。次に予想されるのは、前陸軍大臣・林銑十郎と前教育総監・真崎甚三郎の両巨頭だ。われわれ記者団は、かたずをのんでその成り行きを注視した。
 そのころ私は取材のため,時の人へ林と真崎を訪れた。林は風邪をこじらせたとかで、千駄ヶ谷の私邸に引きこもっていた。それでも長時間にわたり、心境をもらしてくれた。その時のくわしい対話の内容は忘れたが、
 ①軍法会議から呼び出しがあれば、進んで出頭するつもりだ。それが世間の疑惑を晴らす道である。
 ②過日、亀川哲也なる人物がやって来て、相沢中佐の公訴を取り下げることは出来ないか、との話があった。そのさい彼が言うにはこのまま公判を続行すると、重臣や大官まで喚問しなければならないことになろう。すると、勢いの赴くところ、いかなる不祥事態が突発するか、はかり知れないものがある。それを防ぐためには、相沢に特赦とか大赦とかの方法をとって、軍法会議を打ち切る以外には策がない、とのことだった。それに対してわが輩はこう答えた。相沢の公訴取り下げといったような問題は、わが輩の干与できることではない。現在の自分は単なる軍事参議官の身分であって、中央の政治に口を出すわけにはいかないのだ。しかし、君の要望については、一応、川島陸相に伝えようといっておいた。
 などであったように記憶する。
〝相沢の公訴取り下げ〟――いかにもブランメーカー、亀川らしい発想だ。林を訪問してから数日後のこと、亀川に相沢の特赦問題について聞いてみた。彼は答えた。
「実は村中君(孝次)ら若い諸君にはかってみたら、〝不同意〟といわれたので中止した。若い将校たちの意見では、公訴取り下げなどということは相沢精神を生かす道ではない、あくまで公判を続行して、中佐の信念を天下に明らかにするのが本当である、というにあった。鵜沢博士も満井中佐も自分の案に賛成してくれたのだが……」
 と残念がっていた。
 真崎の世田谷の私邸には、二、三度出かけたように思う。まだ新築したばかりの家だったが、時めく陸軍大将の住まいとしては質素きわまるものだった。第一回の訪問の日、名刺を出すと副官の藤原元明少佐が出てきた。
「閣下は健康を害しているし、総監を辞められてからは、部外の人には会わんことになっている。とくに君のところの新聞は、総監罷免事件のとき一方的に閣下を悪者扱いにしたではないか。けしからん。また悪口を書きに来たのか。帰ってくれ」
 と名刺を突き返された。そこで私は言った。
「自分は社会部記者で、軍の人事の報道には関係がない。きょうは永田事件の軍法会謓について、大将の意見を聞きに来たのだ。取りついでもらいたい」
 藤原はシブシブ私を応接間に通した。その日、真崎は下痢で苦しんでいるとかで、顔色もさえなかった。そして、小さな火鉢を囲みながら、ボソボソと質問に答えてくれた。
「軍法会議にはお許しがあれば出廷して、何でも話すつもりだ。が、その前には、わしの意見は言いたくない。何かいうと真崎は派閥をつくり、若い将校を扇動すると中傷する向きがあるのでねえ……」
 などと語っていた。私はそれまで彼を傲岸【ごうがん】な〝佐賀っぽ〟であるとみて、敬遠していた。しかし、二時間余り話し合ってみたところでは、〝天下をねらう大伴黒主〈オオトモノクロヌシ〉〟どころか、ぐちっぽい弱々しい人物と感じた。【以下、次回】

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