◎傷の手当を口実に血に染った軍刀を押収した
小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)から、「Ⅱ 相沢事件」の部を紹介している。本日は、その五回目。
白昼、軍最高首脳部の一人を斬殺した犯人を、逮捕連行したと云う事で、憲兵司令部を始め東京憲兵隊本部内の空気は、一瞬ピンと緊張し、廊下の往復も慌しくなった。中には犯人の顔を一 目でも見たいと、野次馬的の者もいる。
「青柳!司令部の医務室に行って、軍医さんに直ぐ来て貰って呉れ。」
青柳〔利之〕軍曹と入れ違いに、監視役の黒沢軍曹が、私服で人って来た。
私は先づ相沢の着ていた、マントを取って剣帽掛に掛けた。肩章を見ると中佐である。腰には拳銃嚢〈ケンジュウノウ〉が一寸顔を覗かしていた。相沢中佐は終始、私の行動を睨むように見据えながら、無言で椅子に腰を下した。
「拳銃と軍刀を、お預りします!」
と手を差延べた。
「武士の魂だ! 不浄な憲兵などに渡す事は出来ない!」
と峻拒〈シュンキョ〉した。取調べの直前に感情を害ねるは得策でないと考え、その機会を待つ事にした。
「黒沢! 給仕にお茶を持って来る様に言って呉れ!」
黒沢が立上って部屋から出ようとすると相沢中佐は、
「お茶はいらぬ、水を一杯下さらんか!」
と云った。何とかして、拳銃と軍刀を取上げたいと、そのきっかけを考えていると、急に廊下が騒々しくなって来た。ドアーをノックして、特高内勤の草間伍長が、覗き込むようにして顔を出し、
「班長殿! 一寸!」
草間に監視を命じて、廊下に出た。見ると陸軍省の林桂〈ハヤシ・カツラ〉少将を始め、軍務局課員、参謀本部々員、憲兵司令部等の大中佐級の豪い〈エライ〉連中が、ずらりと顔を揃えているのに驚いた。東京憲兵本部の特高課長が、
「小坂! 取調べの状況はどうか?」
随分非常識な質問であると思った。たった今、着いたばかりである。未だ傷の手当もしていない、それにこれ程の重大な事件が、そんな簡単に取調べ出来るものか! 内心ムッとした。相沢中佐に聞えては工合が悪い、と思い廊下の端迄で行って小声へ〔ママ〕で云った。
「非常に昂奮していますので、未だ何も聞いていません」
「一刻も早く取調べて呉れ、単独犯行か? 連類者がいるのか? 直ぐに手配を講じなければならない。陸軍省でも発表の関係もあるので、相沢中佐の犯行に間違いないのか、それだけでも直ぐ調べて呉れ、林閣下も其のためにわざわざお出になっておられる!」
相沢中佐の犯行と云う事は、今迄の状況判断では絶対に間違いないと確信しているが、調べていないと云った手前、其場で「間違いありません」と答える訳には行かなくなった。
「承知しました、直ぐ調べて報告致します」
と、一礼して応接室に這入った。相沢中佐はと、見ると憲兵隊に連込れた〈ツレコマレタ〉事が、非常に不満らしく、峻しい〈ケワシイ〉表情で私を睨んでいる。そこへ黒沢軍曹が盆の上に、硝子のコップ一つを乗せて這入って来た。相沢中佐は、
「有難う!」
と云うと、さも甘味さう〈ウマソウ〉に一息に吞み干した。傷付いた左手をテープルの上に置き、何か言いたげな口元をしたが、其侭思案顔で軽く眼を閉じた。
「中佐殿! 貴男は、今朝永田局長の部屋で何をしましたか?」
突然の質問に、カッと両眼を見開くと、喰付きさうな鋭い眼付で、語気も鋭く
「何もせん!」
「併し! 其の手の傷はどうしたのですか?」
と、突込んだ。一寸と自分の手に眼を落し顔を上げると、
「憲兵司令官に話す! 司令官に直ぐ来るように伝えて下さい。」
と、ポツンと云って全く取合ないような態度だった。こんな問答を繰返していても無駄だ、私は決心して再び廊下に出た。
「相沢中佐の犯行です!」
と、云い切った。
「取敢ず〈トリアエズ〉傷の手当をした上で、正式の取調べをする積りです!」
豪い連中は満足して引上げて行った。やがて司令部附の三等軍医正が、衛生材料と医療器具を持った上等看護長を伴い、青柳軍曹の案内でやって来た。
医学博士だと云う、この軍医殿誠に頼りない。事件に驚いているのか、手先をぶるぶると慄わせ〈フルワセ〉、傷口の洗滌をしていたが、
「これは縫い合せなければ駄目です。此処では出来ませんから病院の方へ連れて行ってやります」
と、悲鳴を上げた。飛んでもない事である、今更病院などに連れて行かれるものか、早速神田神保町の外科専門医が駈付け、手馴れた手付で、八針程縫って手当は終った。傷の手当を口実に一番気にしていた、拳銃と証第一号となる兇行に使用した、血に染った軍刀を押収する事が出来た。相沢中佐は傷の手当が済んでから
「剣道には自信のある積りだったが、不覚だったよ、自分で自分の手を切るなんて!」
繃帯した自分の手を眺めて、一人つぶやいていた。【以下、次回】
文中、「不浄な憲兵」という表現があることに注意したい。「不浄の縄目」などという言葉があることでもわかるように、古来、日本には、犯罪者の捕縛・処刑にあたる職掌に対する差別意識があり、昭和の軍人にも、その差別意識が残存していたことが覗える。
また、今回の引用部分で、「東京憲兵本部の特高課長」が登場するが、その名前が記されていない。あえて示さなかっただろうが、福本亀治少佐である。
ここまでが、「三、相沢中佐の逮捕」の章で、このあと、「四、訊問」の章に続く。