◎絶対の境地即ち神示である(相沢三郎)
小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)から、「Ⅱ 相沢事件」の部を紹介している。本日は、その六回目。
四、訊 問
愈々取調べ開始である。将校の犯罪は将校が取調べる事になっている。処が実際に事件に突き当ると、永年の経験を持った准士官以下でなければ、仕事にならなかった。当時の憲兵科将校と云えば、優秀な将校は転科して来なかった。病弱で演習に堪えられないとか、将校団のきらわれ者だとか、先ず栄進の望みを失った者が大半を占めていた。従って、重要なポスト、司令官、総務部長と云う処は、陸大出身者が他兵科から転属して来ていた。
取調準備のため、内勤の草間伍長が、筆記具や用紙を応接室に運んで来た。横眼でぢっと 眺めていた、相沢〔三郎〕中佐は背広姿の私に
「君は階級はなんだ」
と、突然質問した。
「私は曹長です!」
「憲兵司令官に直接調べろ! と云え、それ迄は何も言わない!」
すさまじき形相になって云った。下士官位の下級者で、中佐を取調べるなぞとは以っての外だと、云った態度である。
「貴男は中佐と云う階級で、軍隊の組織は良く御存じでせう。一つの事件に対し師団長や連隊長が、いちいち直接処理する事がありますか、私は犯罪事件に関しましては陸軍司法警察官として、天皇陛下の御命令で職権を与えられています」
犯罪と云う言葉の時に、峻しい眼付になって反撥したげな口元をしたが、天皇陛下の御命令で一本取られた形ちであった。
取調べの準備も出来たので、森〔健太郎〕分隊長が立会って、草間伍長が書記となって、訊問の第一矢が放された。
「只今から、今朝陸軍省の軍務局長室に於いて、永田〔鉄山〕少将を殺害した、殺人事件に関し、現行犯として訊問を行います、訊問中敬称は用いません!」
と、厳然と云った。相沢中佐は眼に激しい色を見せ
「永田の如き者を、俺は殺しはせん」
怒りに燃えた口調で、廊下迄響くかと思う程の大声で云った。
「殺さんと云うが、その手の傷と、この軍刀の血糊、局長室に残した貴官の軍帽が、何よりの証拠ではないか?」
語気も鋭く詰寄った、一寸返答に窮した様子であったが
「伊勢神宮の神示に依って、天誅が降ったのだ。俺の知った事ではない!」
真剣な顔をして答える、これは余程頭に来ているなと思った。
「例え伊勢神宮の神示であっても、直接手を下したのは貴官です。それを聞いているのです」
「伊勢の大神が、相沢の身体を一時借りて、天誅を下し給うたので、俺の責任ではない。俺は一日も早く台湾に赴任しなければならない!」
直ぐにでも、台湾に行く積りでいるらしい。余りの馬鹿馬鹿しさに、
「事情の判っきりしない内は、此処から帰す事は出来ません。人を殺せば法律と云うものがあります、その責任は取って貰わなければなりません」
相沢は、きっとした面持で大声を張り上げ、
「曹長は、法律と云うが、その法律を勝手に造る立場にある人達が、御上の袖に隠れ、法律を超越した行為があった場合、一体誰が之を罰するのだ! 神様に依る天誅以外に道がないではないか!」
全く神懸り〈カミガカリ〉の答である。これでは調書にならない。原因、動機を明確にキャッチして記載する事が肝要である。
「伊勢神宮の神示というが、その神示は、何日、何処で、どんな風にあったのか具体的に話して貰いたい」
この問には、流石の相沢中佐も参ったと見え、右手を額〈ヒタイ〉に当てて、暫く瞑想に耽っていたが、 漸く顔を上げ
「一言では云い尽せない。亦、いっても理解が出来ないと思う。皇軍全体を救うためには、永田一人位は物の数ではない。法律も国民全体の利益を計るために出来ている。それを害する者を制裁する。私が決行の決意に到達する迄には熟慮に熟慮を重ね、絶対の境地に立って決行したのである。絶対の境地即ち神示である。
姿勢を正して、訥々とし答えた。どうも問に対し、ピンと響いて来ない。【以下、次回】