礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

上官殺人の現行犯人が平気で歩き廻っている

2021-03-13 03:06:24 | コラムと名言

◎上官殺人の現行犯人が平気で歩き廻っている

 小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)から、「Ⅱ 相沢事件」の部を紹介している。本日は、その三回目。

     三、相沢中佐の逮捕
 此の日麹町憲兵分隊では、隊員全員が裏庭に整列して、恒例の勅諭奉読をやっていた。分隊長 は、金沢出身の森健太郎少佐で、典型的な軍人気質〈カタギ〉の将校であった。
 日直下士官が、裏廊下の窓から顔を出し、
 「分隊長殿! 軍務局の有末〔精三〕中佐殿から電話で、軍務局長閣下が、大尉から斬られたから、直ぐに憲兵を派遣して下さい、との事であります!」
 と、大声で呶嗚った。分隊長は一瞬びくっとしたようであったが、
 「解散! 萩原と小坂は分隊長室に来い!」
 私〔小坂慶助〕は当時は曹長で、特高主任、萩原〔弘司〕曹長は警務主任であった。
 自動車は直に用意された、私服は私と部下の青柳〔利之〕軍曹の二人、警務から主任以下三名が、分隊 長と 共に 自動車に 乗 込み、 三宅坂の陸軍省に向って急行した。
 事件の詳細は判らないが、軍務局長が被害を被った事は間違いない。自動車の内で任務の分担 を決めた。
 警務主任は、現場の保存並に検視、検証其他証拠品の蒐集 
 特高主任は、犯人の逮捕、取調
 陸軍省の裏門前迄来ると、門は閉鎖され、陸軍省派遣憲兵と守衛が立哨して、制服着用の将校以外は、何人〈ナンピト〉と雖も出入を禁止し、事件の重大さを物語っていた。
 裏玄関から、二棟目の二階の右端が取務局長室である。一足踏み入れて見て驚いた。茶色の絨氈〈ジュウタン〉は血の海となり、室内の中央稍々右寄に仰向に倒れている永田〔鉄山〕少将の無惨な斬殺屍体が、窓から射し込む八月の陽を一杯に浴びていた。屍体の傍〈ソバ〉には犯人のものと思われる軍帽が、血に染って落ちている。局長の机の上には、新見〔英夫〕憲兵隊長が報告のため持って来たと思われる、今朝私が報告した、「粛軍に関する意見書」が、拡げた侭になっていた。
 私の任務は犯人の逮捕である。白昼の出来事であり、各室には溢れる程にいる、将校や属官〈ゾッカン〉達一 の手に依って、犯人は既に半殺しか、逮捕されているものと、たかをくくっていた。処が実際に来て見ると、其気配も見えない。驚いて軍務局職員室を覗くと、顔見知りの将校連中が、彼処〈カシコ〉に一団、此処〈ココ〉に一団となって、コソコソ話し合っていた。
 「憲兵ですが、犯人は一体何処〈ドコ〉にいるのですか?」
 誰一人として答える者もない、丁度廊下を通り掛った官房の属官が、
 「医務室の方へ行きましたよ!」
 「医務室? 医務室と云って、何処辺だ?」
 「高等官食堂の直ぐ前です!」
 「有難う! 青柳! 行かう!」
 上官殺人と云う、重大な現行犯人が、堂々と兇行現場附近を、平気で歩き廻っている。こんな馬鹿化た事があるものだろうかと、疑を持たざるを得ない。青柳軍曹を促して、高等官食堂に急いだ、増築に増築した陸軍省の内部は、日常勤務している者でさえも迷う程の複雑そのものであった。漸く表門に面した、二階にある高等官食堂に辿り付く事が出来た。直ぐ前が医務室である。入口は三尺の観音開きの簾戸〈スド〉になっている。深呼吸一番、勢い込んで飛び込んで見たが、室内には人気もなく静まり返っていた。拍子抜けがして再び廊下に出て、扨て〈サテ〉、何処へ行ったものかと、迷って四囲を見廻していると、丁度そこへ芝居の書割〈カキワリ〉にでもある様な、渡廊下を渡って論功行賞室の方からこちらに来る、一人の異様な姿をした将校の姿が眼に止った。長顔で、頬骨が目 だって高く、口は大きく、眼は吊り上り、顔面蒼黒く、容貌魁異な五尺八、九寸もある威丈夫、 無帽でこの暑いのに血に染ったマントを着て、右手に三尺位のトランクを携げ〈サゲ〉、血だらけの左手を胸の辺に上げて、大跨〈オオマタ〉に歩いて来る。【以下、次回】

 文中、「何処辺」の読みが難しい。「どこあたり」、「どこらへん」などが考えられる。

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