◎永田閣下卒去の時間が不明瞭である(満井佐吉)
ここで、石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の紹介に戻りたい。
今月八日のブログでは、このあと、同書上巻の「十九 二・二六行動計画進む」の章を紹介すると予告した。この予定を変更し、本日以降、「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介したい。
十八 陸軍空前の永田事件軍法会議
「相沢に続け」の法廷闘争
永田事件の被告・相沢三郎を裁く第一師団軍法会議は、〔一九三六年〕一月二十八日、青山の第一師団司令部構内の法廷で開かれた。私たち記者団は、残雪のうずたかく積まれた法廷横の空地に、それぞれテントを張って、そこへ本社デスクとの直通電話を架設した。本社の社会部からは腕ききの遊軍記者数名が応援に駆けつけたほか、オートバイ、自動車数台を司令部衛門前に待機させた。一部には右翼団体が相沢奪還に押し寄せるとのウワサも飛んでいた。そのため赤坂憲兵分隊からは三十数名の武装憲兵が出動して、ものものしい警戒網を張っていた。一般傍聴者は前夜から詰めかけて、午前九時には二百数十名にのぼった。これを抽選で決定し、厳重な身体検査のうえ傍聴を許可した。
法廷内の記者席は左側の最前列にあって、私がなぐり書きした原稿を、応援の記者が一枚々々、窓外の記者へ手渡すこととなっていた。この法廷は五・一五事件の軍法会議以来、私にとってはなじみの深い場所である。
午前九時五十五分、傍聴人の入廷が許された。私の右側には参謀肩章をつった将校がやってきて、ポンと私の肩をたたいた。ふり向くと参謀本部作戦課長の石原莞爾だ。私は廷内を見渡すと、一気に原稿用紙へ鉛筆を走らせた。
「陸軍省を鮮血で彩った空前の不祥事――永田軍務局長殺害事件の公判は二十八日第一師団軍法会議法廷で開かれた。粛軍にからまる出来事というだけで未だにその真相が明らかでなく、従って国民の関心はこの公判に集結されているのだ。残雪未だ消えやらぬ青山第一師団司令部の構内には、早朝から憲兵が佇立〈チョリツ〉、幄舎が数カ所に設けられ係官の来訪も激しい。押しかけた傍聴人は(中略)二十五名だけが許され、このほか特別傍聴人百名が入廷する。五・一五事件陸軍側裁判長西村〔琢摩〕大佐や相沢中佐の同期生牟田口〔廉也〕大佐などもこの中にまじっており、香椎〔浩平〕東京警備司令官、堀〔丈夫〕第一師団長、岡部〔長景〕陸軍政務次官、大山〔文雄〕法務局長などは判士席の後方に着席している。カーテンを深くおろした衛戍〈エイジュ〉刑務所の自動車が、スピードをゆるめて入ってきた。当の相沢中佐である。午前十時、鵜沢〔聡明〕博士と満井〔佐吉〕中佐が傍聴席前の左側に着座した。窓のカーテンに朝陽が照っている。佐藤〔正三郎〕裁判長以下各判士、杉原〔瑝太郎〕主理法務官、島田〔朋三郎〕検察官の顔は緊張の色を示し裁判長の襟元には勲三等の旭日章が輝いている。右側のドアが静かに開かれた。警査に護られて被告相沢三郎中佐が入廷する。陸軍中佐の軍服に軍帽を右手に持って、ゆるやかな歩調で被告席に進む。頭はイガ栗で目はらんらんと輝いている。裁判長席にキチンと敬礼する。判官席も一様に会釈する。いよいよ開廷。時に午前十時五分」
ここで私が不思議に思ったのは被告の同志の青年将校の姿が、ただの一人も見られなかったことだ。ただ被告の関係者席に、亀川哲也のほかに背広と和服の青年二名が腰をおろして、熱心にメモをとっている姿が目に入った。和服の青年は坊主頭。綿服に小倉〈コクラ〉のはかま姿で、精悍【せいかん】そのものといったつら魂。背広の男は小柄で、一見、平凡なサラリーマンといった風采【ふうさい】。軍法会議当局の話では十一月二十日事件の村中孝次〈タカジ〉が来ているとのことだったので、われわれは和服の男こそ、村中だと決めてかかっていた。休憩時間中に〝なぜ青年将校が姿を見せないんだ〟と亀川に問いただしてみたら、〝隊務がいそがしくって、傍聴になどこられるわけがなかろう〟とのことだった。
満井中佐の爆弾動議
開廷とともに、型のごとく相沢への人定尋問から始まった。これが終わると、裁判長は検察官席に顔を向けて、島田法務官に公訴状の朗読を促した。このとき突如特別弁護人の満井が立って、〝裁判長閣下、公判開廷に当たって重大なる提言があります〟と大声で発言を求めた。裁判長がこれを許すと、満井は次のような爆弾動議を提出した。
「第一、予審調書によると、被告の身分ならびに資格が、公人としてであるのか一個人としてであるのか、不明瞭である。
第二、被告のなした行為については非常によく調査してあるが、その行動のよってきたる原因動機については、何らの調査が出来ていない。すなわち畏くも〈カシコクモ〉陛下の皇軍が、軍部以外の不純なる支配的勢力により攪乱されたという事件の原因事実について、何ら調査が出来ていない。被告はこの軍部以外の不純なる支配努力の魔手から陛下の皇軍を救い出すため、やむを得ざる処置として本事件の行動をなしたるものであって、この点をとくに審議しなければ、公判の推移が軍の統御に重大なる悪影響があると考える。
第三、永田閣下卒去の時間が不明瞭である。検察官の主張では『午前九時四十分より数刻を出でずして……』とある。しかるに当日陸軍省の公表によると、永田閣下は午後四時卒去とある。はたしてしからば被告は単に永田閣下に重傷を負わせただけで、検察官のいうごとく殺傷せるものにあらずと思われる。しかるに軍医の検診によれば、検察官のいわれると同様である。従って軍医の検診に誤りあるものとは思われないので時の陸相、首相、宮相が、永田閣下がすでに卒去しているにもかかわらず、偽って陛下をあざむき奉り、位階の奏請をなしたものと考える」
思いもかけぬ爆弾提言に、一瞬、判士席もざわめいた。が、裁判長は満并の発言の終わるのを見すまして、「公判はこのまま続行いたします」と宣言し、検察官に陳述をうながした。しかし、满井はこれを聞き入れない。再び立ち上がるや、
「裁判長閣下! 以上のように本事件をめぐって、陸相、首相、宮相の処置と検祭官との間に重大な食い違いがあることは影響するところ大である。十分考慮されたい。従って、この間の真相を究明するまで、本公判を中止せられるのが至当である」
と申し入れた。これに対して裁判長は、再三、法務官と耳打ちして、
「公訴事実陳述のあとで相談します」
と答え、ようやく検察官の陳述に移った。午前十時三十分、検察官の陳述が終わると、協議のためいったん休憩。同十時五十五分再開。いよいよ相沢被告に対する尋問に移った。【以下、次回】
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