◎正義に基づく行動は法律を超越する(相沢三郎)
小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)から、「Ⅱ 相沢事件」の部を紹介している。本日は、その九回目(最後)。
昼食は全く箸も付けず、夕食を軽く済ませた相沢中佐の心境は苛立っていた。私が応接室に這入ると、いきなり、
「曹長! 憲兵はこれから俺を一体どうしようとしているのだ!」
と、憤りに燃えた眼ざしで云った。
「軍法会議に送る事にしています」
「何ッ! 軍法会議? 俺は軍法会議などに送られるような事はしていない、俺の行動は正しい、憲兵にこうして調べられる事が、既に間違っている。話しが判るように説明したいから憲兵司令官を呼んで呉れ。」
これが分別盛りの中佐の階級にある人の言葉とは思えない、精神に異状があると思った。精神病者となれば、亦その取扱も違って来る。
「どんな理由が、あったとしても、人を殺すと云う事は絶対に許す事は出来ません。亦憲兵司令官は非常に忙しく、比処へ呼ぶ事は出来ない!」
と、きっぱり云い切った。相沢中佐は、すさまじい形相になって、呶鳴り付けるように
「俺の行動は、明治大帝の御遺訓に添い奉り、皇軍軍紀の振作にあるのだ、永田を殪さ〈タオサ〉ねば、天皇の軍隊は一体どうなる。正義に基づく行動は法律を超越する、陸軍大臣か憲兵司令官に直接話せば解る事なのだ、俺は憲兵の取調べを受けるなど夢にも考えていなかったぞ」
昂奮状態でここ迄云うと、フト気が付いたように声を落し
「曹長に云った処で仕方がない、併し俺の考えは間違っていない、間違っていない!」
と、一人言のようにつぶやいた。
「貴男の其の正しい考えを、直接行動でなく、なぜ正々堂々と、上司に意見具申をしなかったのです?」
「永田少将には以前に直接会って、辞職を勧告したが、田舎者の一中佐の進言など歯牙にも掛けて呉れない」
一途に思い詰めた、強固な信念が感じられる。結局皇道派の強硬分子の常に口にしている事や、怪文書の内容を鵜呑して、狂信しているとしか思えなかった。この問答に依って、意見書には、精神鑑定の要ありと、書き込む事にした。特高室に帰って、その起草に取り掛った。
犯罪の情状、意見書
被告人の相沢三郎は、一部青年将校の粛軍運動に共鳴、且つ、市井に流布せられたる、所謂『怪文書』の内容を盲信し、皇軍は近時一部不純分子の策謀に依り、漸次私兵化しつつありと盲断し、其元兇をさん除〔芟除〕し軍紀を振作し、皇軍を正道に復帰せしむるの信念の下に、本犯を敢行したるものにして情に於いて、同情に価するも、其原因動機に就いては、極めて抽象的にして、明確に把握するを得ず、精神鑑定の要を認めらる。
然れども、建軍以来未曽有の皇国内外多端の秋〈トキ〉に於いて、我皇軍枢要の地位にある、上官たる軍務局長を殺害するが如きは、自から皇軍の軍紀を破壊するものにして、其罪断じて許す可らざるものあり。
これで送致関係書類は全部完成した。後は相沢中佐の身柄を軍法会議に送るばかりである、どんな少さい〔ママ〕事件でも、証拠品を揃えて、いざ検事局なり、軍法会議なりに送るとなる迄には、早くても二、三日は掛る。この大事件を検挙以来僅か八時間たらずして、片附けたと云う事は、犯罪事件処理上空前絶後の事で、特筆の価があると思う。
代々木の陸軍刑務所に午後八時半に身柄を送ると、云う事に軍法会議との打合せを済ませた。 暗くなって人目に付かないためである。処で問題は如何にして、新聞社の連中の眼を胡魔化すかと云う事であった。結局平野と云う五十才近い小使に軍服を着せ、拍車の附いた長靴〈チョウカ〉を穿かせて、 手錠捕縄を掛けて、顔は見えないように、将校マントを頭から掛けて、表玄関から堂々と連れ出す事にした。記者連中の視聴を之に集中させた隙に、全然方向の違った将校官舎の通路から、相沢中佐を送ると云う事に一決した。
午後八時、軍法会議に押送〈オウソウ〉のため、森〔健太郎〕分隊長始めとして、五、六名の制私服の憲兵が、緊張した面持〈オモモチ〉で、応接室に這入って行った。相沢中佐は、この物々しい光景に、ぬっと立上がると、睨み付けるように無言で眺めていた、森分隊長が
「只今から軍法会議の方へ、行って戴きます」
と、云うと、制服の憲兵が二名相沢中佐の左右に近寄り、両手に手錠をガチャリと下した。更に護送用の太い捕縄を取出し、腰手縄を掛け始めた。相沢中佐の表情はと見ると、びりりッと眉の根を動かし、満面朱をそそいで、憎々しげに捕縄を掛けている両人の憲兵の手元を睨んでいたが、両眼には涙が光っていた。 •
八時十分表玄関は、事更に物々しい警戒陣を布いた。ソレッとばかりに果然各社の記者連中は動き出した。十五・六名の制私服憲兵に取り囲まれた、相沢中佐ならぬ平野小使が軍服姿に手錠を掛けられて、将校マントを頭から、かぶって表玄関から自動車に乗り込んだ。各社のカメラは一斉にラッシュ〔ママ〕を閃めかした、側車附オートを先頭に、竹橋の方向に走り出した。十五、六台の車が其後を追った。
相沢中佐は裏庭で地方ナンバーの自動車に乗せて、将校官舎の通路から、九段下方向に全速で飛ばしたが、流石に新聞社連の眼は高く、五、六台の車が社旗を翻して追走して行った。
ここまでが、「四、訊問」の章で、このあと、「五、相沢公判」の章に続く。ただし、「五、相沢公判」の章の紹介は、割愛する。
しばらく、二・二六事件関係の話が続いたので、明日は話題を変える。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます