◎堀真清さんの『二・二六事件を読み直す』を読んだ
堀真清(ほり・まきよ)さんの労作『二・二六事件を読み直す』(みすず書房、二〇二一年二月一六日)を読了した。タイトルの通り、二・二六事件を読み直している本である。基本的な資料を確認しながら、「二・二六事件」という事件を再構成しようとした本である。
読んでいくとわかるが、著者には、著者なりの「二・二六事件」観があって、事件は、その立場から再構成されている。この本は、労作であり、大著であって、二・二六事件の入門書としては、ふさわしくないかもしれない。二・二六事件に関する本を何冊も読んできた人や、二・二六事件について自分なりのイメージを持っている人に向いているだろう。
著者は、本書の二〇一ページで、末松太平の、次の言葉を引いている。末松太平は、著者のいう「西田派青年将校」のひとりとして、二・二六事件に関与した元軍人である。
《澤地、匂坂、中田の作り上げた『雪は汚れていた』『消された真実』で、真崎が事件を利用して組閣をたくらんだという話は、でたらめだ。なぜ、事件の話をゆがめるのか》
この引用の前後で説かれていることは、本書のカナメと言ってよいだろう。澤地久枝さんの『雪は汚れていた』(日本放送出版協会、一九八八)以来、二・二六事件の黒幕は、やはり真崎甚三郎大将だったという説が普及した。特設軍法会議が、真崎を無罪にせざるを得なかったのは、そこに何らかの政治力が働いたからというのが澤地説である。一方、本書の捉えるところによれば、二・二六事件の黒幕は真崎大将ではない、真崎大将を事件の黒幕とし有罪にしようとしたところに、何らかの政治力が働いていたのだという。
そもそも、「西田派青年将校」と真崎大将ほか「皇道派」とを一括りにし、「皇道派青年将校」として理解する構図に誤りがあるというのが、本書の一貫した主張なのである。
つまり本書は、かなり論争的な性格を持っている。そして、その論争的なところにこそ、本書の特徴があり、本書が出版された意義がある。
本書の最後で、著者は、池田純久の、次の言葉を引いている。池田純久は統制派、すなわち「二・二六事件を処理した側」にいた元軍人である。
《青年将校に代わって軍中央部で国家革新を実践しようというのが統制派であったわけである。しかしよく考えて見ると、これも明治大帝の諭されし軍人勅諭に違反するもので、結局は軍を崩壊に導いたのである。われわれの責任は大きい。誠に申し訳ないと思っている。》
この池田の言葉に対して、著者は、「かれらは軍ばかりか国家を崩壊に導いたのである。」とコメントし、そこで擱筆している(三〇二ページ)。
本書を読み終えて、最初に感じたのは、池田と同様の反省は、著者のいう「西田派青年将校」からも、すなわち「二・二六事件を起こした側」からも発せられてしかるべきだということだった。もし、「西田派青年将校」が二・二六事件という「半熟のクーデター」を起こさなければ、統制派が「国家革新」に邁進することはなかっただろう。統制派が軍や国を崩壊させることもなかっただろう。
しかし、本書の著者は、あくまでも「西田派青年将校」に同情的である。「半熟のクーデター」を起こしたことへの反省を、彼らに求めるような論調は、これを本書に見出すことはできない。同様に、本書が多くのページを割いて紹介している西田派青年将校の陳述や遺書の中にも、「半熟のクーデター」を起こしたことへの反省を見出すことはできなかった。ただ、「西田派青年将校」の指導者であった西田税は、この「半熟のクーデター」が軍や国の崩壊に結びつくと予見していたのかもしれない(本書二五五ページにある西田の発言を読んで、そんな気がした)。
この本は、たいへん学ぶところが多く、読み応えのある本である。多くの人におすすめしたいと思うが、個人的には、いくつか注文がある。まず、三六〇〇円という定価は、いかにも高い。これは、「買うのは辞めておこうか」と思わせる値段である。高いと思われた方は、ぜひ、図書館等で閲覧していただきたい。
この定価をつけるのであれば、編集やレイアウトに、もう少し配慮がほしかった。引用文のポイントを落すのは、やむをえなかったのだろうが、少なくとも老人向きではない。注が詳しいのはよいが、これも字が小さすぎた。また、注や索引があって、参考文献がないというのは、いかがなものだろうか。索引について言うと、「事項」索引の部が、あまりに貧弱である。