礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

相沢三郎「永田ッ! 天誅だッ!」

2021-03-12 04:11:56 | コラムと名言

◎相沢三郎「永田ッ! 天誅だッ!」

 小坂慶助『特高』(啓友社、一九五三)から、「Ⅱ 相沢事件」の部を紹介している。本日は、その二回目。

     二、永田軍務局長斬殺
 相沢事件突発前の軍内情勢はと云うと、真崎〔甚三郎〕、荒木〔貞夫〕両大将を中心とする皇道派、林〔銑十郎〕陸相、永田〔鉄山〕軍務局長を中心とする統制派の相剋が激化して、乱脈を極めていた。怪文書事件で免官となった、村中孝次〈タカジ〉元大尉、磯部浅一〈アサイチ〉元一等主計等が、所謂「粛軍に関する意見書」なる怪文書を全国に配布した事に依って、其の頂点に達した。
 相沢中佐は、明治二十二年〔一八八九〕九月九日、当時仙台地方裁判所書記であった、福島白河藩士族相沢兵之助の長男として生れた。明治四十三年〔一九一〇〕陸士卒業の二十二期、任官後は会津歩兵二十九連隊附から、陸軍戸山学校、士官学校の剣道教官を七年間も勤め、昭和二年〔一九二七〕歩兵少佐、同八年〔一九二八〕中佐に進級、福山歩兵第四十一連隊附になったのである。本来なら少佐進級待命と云う処であるが、剣道と云う特殊技能が、幸いして今日迄助かっていた。
 天皇絶対で凝り固った、剣道家に良くある型の、頑固一徹な武骨者である。士官学校時代から「慷慨居士」の称があり、学生からは「高山彦九郎」のニックネームで呼ばれていた。
 学生に対する教育振りは、厳格を極め、武道の根本精神は、即ち軍人精神であり、軍人精神は明治大帝の大御心である、と、自から防具を身に着け、先頭に立って、学生の一人一人に稽古を付ける、その烈しさは真剣勝負そのものであった。「エイッー」と裂帛〈レッハク〉の気合で、虚空を唸って〈ウナッテ〉振り下す竹刀は、撃一撃、力まかせに撃つ、誰一人として受け切る者もない、相沢教官の直々の稽古には、学生一同慄え〈フルエ〉上っていた程であった。稽古が終ると、さも満足げな面持で
 「朝夕鍛錬すれば、おのずから軍人精神を会得することが出来る」
 と訓示するのが常であった。
 風貌は、六尺近く、剣道で鍛えたがっちりとした骨格、色は浅黒く、顔は面長で、頬骨が目立って高く、眼は顕しく〈イチジルシク〉吊上り、細いが眼光は鋭く、口は非常に大きい。一口に云うと容貌魁異と云う処である。馬子にも衣裳で、中佐の軍服を着ていると堂々たる将校で通るが、若し私服でも着せたら、全く山出しの田舎親爺と云った処である。
 物事を一度こうと信じたら最後、馬車馬的に、突き進むと云った処がある。従って皇道派の青年将校や極右団体から出た、怪文書や、北一輝の書いた、「日本改造法案大綱」並に「粛軍に関する意見書」と云った内容を鵜吞にして之を盲信した。亦、真崎甚三郎大将を皇軍唯一の尽忠至誠の軍人として、信仰的に崇拝していた。八月の定期異動で、真崎大将の勇退は、相沢中佐に取っては、実に晴天の霹靂〈ヘキレキ〉であった。急拠〔ママ〕在地福山から上京し、軍の上層部にその意見を上申したが、問題として取上げて呉れないばかりでなく、此の侭で行くと皇軍は遂に私兵化されると信ずるようになった。軍は天皇機関説運動を抑圧し、純真な青年将校の粛軍活動にも、弾圧を以って望んでいる。これは明治大帝以来、軍統制に関し、大御心〈オオミココロ〉に副ったものではない、皇軍を正道に導き、軍紀を振作する為めには、その元兇である軍務局長永田鉄山少将に、天誅を下さなければならない、と、半年位前から考えていた。八月一日の異動で、福山の連隊附から、台湾歩兵一連隊附で、台北高等商業学校服務に転厲された。
 台湾に赴任して仕舞ったら、機会は得られないと、永田少将斬殺を決意して、聯隊权に無ぽで 八月十日午前八時四十三分福山駅発の列車で上京した。
 途中大阪で下車して、元直属上官であった、第四師団長の東久邇宮〔稔彦王〕殿下に拝謁し、台湾赴任御礼を言上した後、伊勢神宮に参拝して、神前に額き〈ヌカヅキ〉、
 「私の考えに、誤りのない事を照覧し給え」
 と祈願し、十一日午後九時品川駅に着いた。山手線に乗り替えて原宿駅で下車し、明治神宮に参拝して、伊勢神宮と同様の祈願をした。其夜は千駄ガ谷の西田税〈ミツギ〉方に一泊した。西田と種々と意見を交換して、其決意を一層固くして、翌十二日即ち決行の日である。午前九時西田の家を出て、途中「円タク」を拾い、九時二十分頃、三宅坂の陸軍省裏玄関で車を降りた。
 士官学校時代の生徒隊長であった、山岡重厚〈シゲアツ〉中将を整備局長室に訪ねて、転任の挨拶をして雑談中、お茶を運んで来た、給仕に、
 「誠に済まんが! 永田局長閣下が、部屋にお出になるか、見て来て呉んか!」
 と、頼んだ。山岡中将は、
 「お前! 永田に会って、どんな用があるんだ!」
 「別に用事は有りませんが、先日お目に掛っていますので、一寸!」
 と、言葉を濁した。そこえ給仕が帰って来て 
 「永田閣下は、お部屋にお出になります!」
 と、告げた。
 「では! 閣下一寸行って参ります!」
 と、立上ると山岡中将は、
 「お前! 永田と会うのは止めろ! 止めた方がいい」と
 と、頻りと〈シキリト〉止めた。
 「ホンの! 一寸です。亦、帰りにお邪魔します!」
 と、部屋を出た。軍務局長室の入口迄来ると、着ていた、マントを脱ぎ、持っていたトランクを廊下に置くと、その上にマントを丸めて置き、一呼吸して、佩用〈ハイヨウ〉の軍刀二尺四寸を、ギラリと抜き放ち、片手に携げて〈サゲテ〉、無言の侭ドアーを開けて、ヌウーと室内に這入った。
 室内では、局長を中心に、山田〔長三郎〕兵務課長と新見〔英夫〕東京憲兵隊長の三人が、
額〈ヒタイ〉を集めて用談中であった。突然の人の気配に三人が顔を上げた突端〔ママ〕、
 「永田ッ! 天誅だッ!」
 鋭く叫びながら、第一刀を激しく斬り下した。手元が狂って、軍務局長が椅子から立って、避けようと後向になった右肩先から背に掛けて、切尖が軍服と皮膚の表面を浅く斬り開いたに過ぎなかった。併し、新見大佐が、咄嗟に左手を挙げて局長を無意識の裡にかばった為に左上膊部に骨膜に達する重傷を負った。局長は隣室の軍事課長室に、難を避ける積りで、ドアーの処迄逃げたのを追い縋り、第二刀を背中から力強く突き刺した。その切尖〈キッサキ〉は局長の身体を刺通し、ドアーに迄届いていた。此の時流石〈サスガ〉剣道六段の相沢中佐も夢中になったものと見え、左手掌を刀刃〈トウジン〉に添えたため、母指を除く四指の根元に、骨迄達する傷を負うて仕舞った。
 私〔小坂慶助〕が逮捕してから、この傷の手当の際
 「私は戸山学校の剣道の教官として、剣道には絶対自信がある積りでいたが! 不覚だった。自分で自分の手を切るなんて!」
 と嘆息を洩していた。
 永田局長は、これが致命傷となった。一度転倒したが、気丈にも立上り、応接用のテーブル附近迄逃れたが、遂に力が尽きて、仰向けに昏倒した。相沢中佐は更に第三刀を、右顳顬〈コメカミ〉部に斬り付け、其上武道の作法に従って、止どめの一刀を咽喉都に突き刺した。
 同室に居合せた、両大佐は、素早く室外に逃げ出して、相沢中佐の行動を阻止する態度に出なかった。当時囂々〈ゴウゴウ〉たる非難を浴び、新見大佐は、京都に左遷され、山田大佐は永田局長の百カ日の忌日〈キニチ〉に自宅で割腹自決して仕舞った。
 目的を達した、相沢中佐は悠々と刀を鞘に納め、左手の傷口を自分のハンカチで縛った後、廊下に出てマントを著して、右手にトランクを携げ、兇行の時に飛ばした自分の帽子に気づかず、無帽の侭の異様な姿で、医務室を捜すために廊下を歩き廻っていたのである。【以下、次回】

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