◎どうだ、海軍部内にもえらい提督がいるだろう(亀川哲也)
石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、同書上巻の「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その四回目。
二・二六予言の「山本建白書」
二月十六日の夕刻、私は亀川〔哲也〕を訪問した。シベリア寒波も退散して、初めて春らしい行楽の日曜であった。ひととおり軍法会詖についての話を終わると、「これを読んでみたまえ」といって部厚い封筒を差し出した。封筒の表には「斎藤実〈マコト〉内府に送るの書」としたためてあって、裏面には「山本英輔」と差し出し人の名が書いてあった。山本英輔〈エイスケ〉といえば海軍航空本部長、横鎮〔横須賀鎮守府〕長官、連合艦隊司令長官、軍事参議官などを歴任した海軍の長老である。しかも現役の大将だ。私は不思議に思って書状を開いてみた。すると長さ七メートル余におよぶ長文の手紙である。その文面は次のような文句で始まっていた。
「拝啓、愈々御勇健にて今回は内侍補弼の重任を拝せられ、謹賀の至不堪候〈イタリニタエズソウロウ〉。よくよく時勢を明察せられ、単に表面にあらはるる現象のみをとらへて皮相の臆断を下さるる事なく、禍根の奈辺に伏在するやを突き止められ、果断以て之を処置せられんことを切望に堪へず候。小生最近に至り始めて突き止め得たるところに依れば、時局不安の禍根の存在するところは帰するところ一点にあり。この点を押へて善処すれば万事直に〈タダチニ〉解決すべく、今日世間が見て非常に憂慮して不安に駆られ、国家の将来はどうなるだらうと戦々兢々〈センセンキョウキョウ〉としてゐるところは、この一点より出発したるに、二、三の枝先きの繁茂せる枝葉の姿を見てをるに外ならず(中略)その根源を押へてしかと握り、統制を図れば自然に消滅すべきものと存候。数年来激化し来れる陸軍部内二大対立、その他 一、二の小派の抗争は一種の勢力争ひ感情の衝突の如く思はれ候故、ある手段を講じて之を握手融和せしむるか、然らざればいづれか方を倒せば之を安定せしめ得べしと考へをりしも、最近小生が熱心に調査研究し得たるところによれば、その根源に対し適切なる方策を講ぜざる間は不可能にして今後も何回となく相沢事件や五・一五事件の如きを発生し、遂には軍隊の手を以て国家改造を断行するといふファッショ革命まで導くものと断定仕候〈ツカマツリソウロウ〉」
これに続いてさらに陸軍部内の統制、皇道両派の動きについて言及、こうも述べていた。
「万一、現〔岡田啓介〕内閣が四月まで続けば、四月ごろ打つ手を参謀本部にて計画中に御座候。これは地方も呼応して声援すと申しをり候。(中略)これは好んで為〈タメ〉にすに非ず。血気少壮の将校を勃発せしめずして、何とか打開策を講ぜんとして板挟みになりをる中堅将校等の窮余の策ならんかとも、小生は憶測し、同情に堪へず候。要は速に新人を引出し、陸軍の希望を容るる策を樹て、その根本問題を解決し、かつ上中下層各派を融和せしめ得る胆力と機略とを有するものに処置せしめざれば、遂には大事件を惹起すべしと存じ候。始めは将官級の力を藉りてその目的を達せんと試みしも容易に解決されず、つひに最後の手段に訴へてまでもと考へる方の系統、ファッショ気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔の手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動なり。之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化されをるも、その終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍の『パンフレット』はその真意を露すものなり。林〔銑十郎〕前陸相、永田〔鉄山〕軍務局長等は、之を知りて為せしか、知らずして乗ぜられてをりしか知らざれども、その最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、総てを国家的に統制せんとするものにして、ソ連邦の如き結果となるものなり。然れども宣伝がうまいのか、世にはこれが穏健なる如く見誤られ、重臣や政府はこの方を援助されたる如く覚ゆ。将官級の他の一方は、わが国体に鑑み皇軍の本質と名誉とを傷けることなきを建前とし、大元帥陛下の御命令に非ざれば動かないといふ主張で、これが荒木〔貞夫〕、真崎〔甚三郎〕の皇道派なり。非常に正当なる次第なるも、為政者が一向に陸軍の要望を満たしてくれざるため、この一派の為すところは意気地がなく思はれ、もはや頼むに足らず、むしろ統制派の方が増しだとてその下〈モト〉を去るものが続出せるは、荒木・真崎派が凋落したるやうに見えたるがその時機なり。これに色々の怪文書が飛び真崎大将等は兇悪の本尊の如く思はれ、民間は皆これを信じて恐怖を感じ嫌悪し、その排斥せらるるを快しとせり(中略)真崎大将は中佐時代ハノーバーにて一年も一緒に交際しをり、親しき間がらなるを以て小生は世問の評判はあたらずと信じをり候。重臣や政府もこれを誤解しあるものと、小生は察しをり候(中略)陸軍の不統制は血を見ざるうち早く治めざるべからず。相沢中佐はこの現状を見てこのまま放任せば将来有望なる多数の青年将校の直接行動となる故上級者として見るにしのびず、佐官級のものが誰か一人犠牲になって、これを救はざるべからずと決心、決行したるが永田事件なり……」(以下略)
私がけげんな顔をしているのを愉快そうに眺めながら、亀川はいった。
「どうだ、海軍部内にもえらい提督がいるだろう。これは山本海軍大将が陸軍部内の対立抗争の激化を憂えて、先輩の海軍大将斎藤実内大臣へ提出した建白書の写しだ。いまこそ補弼【ほひつ】の大任にある内大臣は、活眼を開いて山本大将の忠言に耳を傾けるべきときだと思う。さもないと日本はたいへんな騒ぎになるぞ……」
これがのちに有名な「山本建白書」だ。山本の皇道・統制両派に対する評価の当否については、その後の歴史の示すところだから、あえて触れる必要はあるまい。ただ、山本が二・二六事件の突発を的確に予言して、天皇側近の反省を求めていた点は注目に値いする。
ちなみに山本は、この真崎擁護の建白書が宮中方面の怒りに触れて、事件鎮圧直後の三月、現役から追放されてしまった。【以下、次回】
※都合により、明日は、ブログをお休みします。