◎まだ連中、自決しそうに見えぬか(加藤伯治郎)
上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
本日は、第二章「青雲の記」のうちの、「五・一五事件」の節を紹介する。この節もかなり長いので、適宜、区切りながら紹介してゆく。
五・一五事件
五・一五事件が発生したのは、昭和七年〔一九三二〕五月十五日である。
この日私は日曜日で休務していた。
うららかな初夏の日和で、庁者を囲む、土堤〈ドテ〉のからたちの垣も青い芽を伸ばし、和田倉門あたり宮城前の芝生も青々として、堀端の柳も青い枝を垂れて、風もない静かな日であった。
私たちは道場で柔道の稽古をして、汗を流すために構内の風呂に入っていた。
風呂から出て神田方面に散策しようとする午後三時前後のことである。
当直憲兵が血相をかえて入浴場に走ってきて、
「陸相官邸の憲兵からの急報で、首相官邸へ海軍士官が侵入して犬養〔毅〕首相を殺したらしい。すぐ集合せよ」
と怒鳴るように伝えて、詰所の方に駈けて行き呼集をかけていた。
みんな風呂から飛び出して
「裸で殺されてはたまらん」
とばかり半裸で詰所に駈け込んで軍服を着用し、事務所に向おうとすると、西門脇の銀杏の木の下あたりで、一発銃声が聞えた、振り向くと土堤に海軍士官が二人立っていて、宮城前大通りの堀端まで追いかけて来た警官に拳銃を向けて威嚇している。
玄関に走り付けてみると、受付の渡辺上等兵の机の前にも海軍士官が二人立っている。
渡辺上等兵が立って敬礼すると、机の上に拳銃を投げ出して、
「俺達は、今犬養を殺して来たから、憲兵司令官に取次げ」
と言った。私も海軍士官に敬礼して
「とにかくこちらへ」
と、とりあえず当直控室に案内して招じ入れた。
事務室にはもう特務曹長も登庁して来ていた。渡辺上等兵は拳銃を持って、特務曹長に報告している。
続いてまた海軍士官二名が到着した。
「ほかの者はまだ来ないか?」
というので、
「先刻お二人が来て、こちらの部屋におりますから、こちらへ」
と当直控室へ招じ入れた。
こんなわけで私は、当直控室の監視のようなことを引受けてしまった。
次々と海軍士官が現われる。そのうちに陸軍士官学校の学生が十一名と私服の青年が現われて当直控室は一ぱいになってしまった。
分隊長加藤伯治郎〈ハクジロウ〉少佐は急報によっておもむろに登庁して分隊長室に入った。
事務室には、各方面からの電話報告が次々と知らされ、陸相官邸憲兵は直ちに首相官邸に赴き、その状況を知らせてくる。非常呼集によって参集して来る隊員も次々と到着し、隊内はごった返したような混雑となり、靴の音、ベル音で騒然となった。
海軍士官は制服帯剣。こちらは詰所から班けつけたままの丸腰である。士官連中も沈黙していて私語もせず、ある者はイスに腰掛け、ある者は当直用寝台に腰をおろす者もあるが、多くは直立のまま何事か考えている。
間もなく、憲兵司令部構内各門には警戒のため憲兵が配置され、新聞記者から外部いっさいの者の出入が禁止された。
分隊事務室から二階の本部へ、別棟の憲兵司令部への往来がはげしくなり、隊内は緊張し対策が構じられているようであった。
私が監視に就いてから一時間程たった頃と思う、分隊長室から呼出しがあった。
分隊長加藤少佐は、
「どうだ、まだ連中自決しそうに見えぬか?」
と言われた。
「みんな、口をこわばらしていますが、そんな気配は見受けられません」
「もう少しそのままにしておけ」
ということであった。暫らくして八字髭を立てた加藤分隊長が、肩をいからせるように重い足どりで控室に入って来た。
海軍士官の誰れかが、
「敬礼」
と大きな声で合図すると、一斉に立って分隊長に敬礼する。分隊長は眼鏡の奥から光った瞳でギョロッと一同を見廻したまま、無言で立っていたが、やがて控室を出てそのまま二階の本部隊長室の方へ歩いて行った。
憲兵隊全般の動静としては、午後六時頃には東京憲兵隊は隊下全員の非常呼集が行なわれ、午後八時には宇都宮、名古屋両憲兵隊より約五十名の応援が発令され、午後十時には近衛、第一の両師団より百五十名の補助憲兵の出動が下達〈カタツ〉されていた。
憲兵司令部構内はもとより、宮城各門陸海軍両省、官邸、市内重要個所に警戒体制がとられ、憲兵、補助憲兵が配置されたのである。
事件関係者に対する捜査活動も始められて、陸軍士官候補生が先ず牛込分隊に分割移送され、続いて海軍士官が赤坂分隊と渋谷分隊に分割されて、麹町分隊には主謀格三名程が残され取調べが開始された。【以下、次回】
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