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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

その拳銃で西園寺を撃て(三上卓海軍中尉)

2016-12-29 04:53:50 | コラムと名言

◎その拳銃で西園寺を撃て(三上卓海軍中尉)

 上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
 本日は、昨日に引き続いて、第二章「青雲の記」のうちの、「五・一五事件」の節を紹介する(同節の二回目)。

 私が当直控室の臨時監視を解かれたのは深夜十二時過ぎのことであった。
 私は当直控室で監視をしながら、先刻加藤分隊長の〝まだ自決しないか?〟と言われた言葉のように、これ等の士官は一殺多生の任務を果して来たのである。一人や二人の自決者が出てもよいと思っていた。小沼や菱沼のような右翼浪人ならいざしらず、軍人精神をたたきこんだ軍人なら、ここで自決してこそ軍人らしい刺客となり歴史に残ることであろうと思っていたのである
 この時の挿話を一つ記しておく。
 東京毎日新聞の三原信一記者は、京大を卒業するとすぐ入社して、憲兵司令部担当記者として憲兵隊に出入していた。
 この人は近江の寺院の出身というので〝三原坊主〟と愛称されるほど憲兵と親しくなって、いた。
 私が当直室で監視をしているところへ、どこから潜入して来たのか、のっそりと入って来た。各門は警戒の憲兵が固めているのに! あるいは事件勃発前に入っていたのかも知れない。いづれにしてもこんな場所へ入って来て、新聞記者という身分が決起士官に覚られては大変と思い、
「三原君は今日は私服勤務ですか、いつ頃帰って来られましたか?」
 と、さも同僚憲兵らしく話かけてその場をつくろった。三原君は素早く人員などを調べたことであろう。すぐ出ていったが、警戒が厳重で今度は外に出て行くことができないので、翌日の夕刻まで憲兵隊の構内に罐詰されてしまった。この間各所を潜行して事件の大要を入手し、いわゆる特種をあつめて帰社してほめられたらしい。
 三原君が戦後毎日の社会部長に昇進し、伊那市の図書館へ文化講演に来られた際、二十年振りで往時の懐旧談をしたことがある。
 数日後捜査取調べや検証が終って、海軍士官は大津〔浦賀町大津〕の海軍刑務所へ護送することになった、各分隊に分散して取調べをうけていた海軍士官七名は、東京憲兵隊本部に集められて、ここから自動車七台に分乗して、横須賀まで護送するのである。自動車一台に士官一名と護送憲兵二名ずつが同乗した。憲兵は私服である。途中犯人奪還などを考慮して目立たないようにするためであったが、護送憲兵の私服用のモーゼル拳銃が不足なので、十四年式拳銃の大きなやつを、裸で皮帯のところへ差し挟んで所持した。
 私は三上〔卓〕中尉を護送することになった。
 その日〔五月一八日か〕は快晴無風の好天気であった。ハイヤー七台が列をなして京浜国道をばく進する。ただ異様に感じたことは、この日天理教の「ひのきしん」で法被〈ハッピ〉姿の信者がところどころの路側で道路の清掃をしていたことである。
 横浜を過ぎ横須賀街道に入って、いくつかのトンネルを通って、沈黙のまま約二時間、途中何事もなく大津刑務所までの護送を終った。
 大津刑務所に着いて拘置所の独房まで送り最後に別れるとき、
「何か伝言でもありましたなら、内密にお伝えしますが?」
 と、挨拶のつもりでいうと、
「叔父貴によろしく言ってくれ」
 と言うので、
「叔父とはどなたですか?」
 と問い返すと、
「真崎〔甚三郎〕によろしく言ってくれ」
「ほかには何かありませんか?」
「あす西園寺〔公望〕が上京すると聞いているが、その持っている拳銃で西園寺を撃て、それもできまい」
「そればかりはどうも、では御元気で」
 と、こんな会話をして別れた。【以下、次回】

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