◎フランス革命史を読んで想を練る西園寺公望
上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。
本日は、昨日に引き続いて、第二章「青雲の記」のうちの、「五・一五事件」の節を紹介する(同節の三回目=最後)。
翌日〔一九三二年五月一九日か〕はいよいよ元老西園寺〔公望〕公爵が興津から上京した。特別仕立の列車で、警視庁、神奈川県警察本部は五十メートルに一人の巡査を、沿線に配置するという厳重警戒であった。公爵は秘書と女中頭お綾さん以下の御手伝いを連れて、駿河台下の別邸に入ったのである。
私は、加藤〔伯治郎〕分隊長の命令で、公爵の身辺護衛のため、私服憲兵として斎藤上等兵外三名を伴って、別邸内で公爵の在京期間中の護衛勤務に服することになった。
別邸の門脇〈カドワキ〉には、警視庁の警部補が請願巡査として小宅に起居して、常時警護に服しており、こんどの入邸によって門外には、警察の厳重な警戒が敷かれていたのである。
われわれは、公爵の起居する離れと庭一つへだてた別棟の勝手と女中部屋と納戸〈ナンド〉のある建物の一室に詰めて、警護にあたった。
襖一重の隣室には、お綾さんが連れてきた女中四名が起居する。お綾さんは離れの公爵の部屋の方に付添っているのである。
われわれは背広に、拳銃をつけたまま、交互に仮眠をとるが、いわゆる寝ずの番である。われわれの警戒区域は屋内であり、もちろん公爵の居間を中心に警戒するのであるが、公爵の意向で寝所〈シンジョ〉付近を避けて、一室で警戒することになっていた。
正門付近には警察の警衛本部があり、邸の周囲は警官と制服憲兵が配置されて厳重な警戒網が張られている。
最初到着の夜は、われわれもほとんど仮眠もせず不眠不休の警戒にあたった。
幸い何の異変もなく、翌日〔五月二〇日か〕はいよいよ公爵は参内であった。私は玄関で見送った。
公爵が参内して邸内が不在になると、いく分気も楽になる。
女中さんに招かれて、勝手で食事をする。公爵も女中さんも、われわれの食事もみんな公爵の食事と同じであるという。まっ赤になる程煮えた大根の味噌汁は格別の味であった。公家の生活は質素なものであると感じたのは、食事のことばかりではない。
公爵の不在中、お綾さんが坪庭で洗濯を始めた。公爵の下着はもとより、ガーゼの切れのような物を何枚となく洗っては干していたので、
「女中頭さんがお洗濯ですか、大変でございますね、その布切れは何にお使いになられるのですか?」
と聞いてみた。するとお綾さんも気軽に、
「公爵の身に着けるものは全部妾〈ワタシ〉が洗うのどす、公爵はチリ紙はお使いならしまへん」
とのことであつた。
また前夜公爵の部屋は、午前二時頃まで電灯が輝いていたので、
「昨夜公爵は遅くまで起きていらっしゃったようですが、何をなさっておられたのですか?」と尋ねてみた。
「御読書をなはっていやしたんどす。ずっとフランス革命史をお読みなさっていやはります」
という。この重大な時局に、明日の宮中参内を前にフランス革命史を読んで想を練り、元老として御下問に奉答するのかと、深く感じ入ったものである。
宮中から戻った公爵は、部屋に籠ったままである。秘書の原田〔熊雄〕男爵が入室したほか、訪問客はなかった。
われわれは重大な身辺護衛勤務に服している責任を感じて緊張はしているものの、襖の向うには用車を終えて床につく女中さん連の若い熱気が、こちらの血気盛んな男性の熱気と対峙し、女中さん連を刺激するのか、キャッ、キャッとはしゃぎ廻っている。
こちらは使命遂行中である。特に先任として勤務している私は一層緊張して、部下に静粛を強いていた。
翌朝食事のとき、お綾さんが
「上原はん、ゆんベ男はんの声が大きいおましたさかい気つけはってね」
と言われたので、
「女中さん連も大分騒々しいようでしたが」
というと、「公爵は女子はんのお声やったら、いくらそうぞうしうてもかまやしまへんのどっせ」
とのことであった。やがて斎藤〔実〕海軍大将に組閣の大命が降下して、西園寺公爵は再び興津坐漁荘〈ザギョソウ〉に引揚げるとともに、この身辺護衛勤務は終った。【以下略】
上原文雄著『ある憲兵の一生』の紹介は、このあとも続けるが、明日の大晦日、および年明けの当初は、いったん話題を変える。
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