礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

箕作麟祥の一代記を簡単にお話し申しませう

2024-08-04 02:47:12 | コラムと名言

◎箕作麟祥の一代記を簡単にお話し申しませう

 必要があって、福島正夫の論文「明治初年における西欧法の継受と日本の法および法学」(1970年5月)を読んだ。学ぶところの多い好論文であった。
この論文で福島は、しばしば、箕作麟祥(みつくり・りんしょう、1846~1897)の「一代記」なるものを引用している。
 註によれば、この「一代記」とは、箕作麟祥が、1887年(明治20)9月15日、明治法律学校の「授業始めの式」でおこなった演説であり、『明治雑誌』の第45号(同年10月15日)に掲載されているという。
 酷暑の折であり、自宅のパソコンで、この「一代記」を閲覧できないものかと知恵を絞った。国立国会図書館のデータを検索したが、『明治雑誌』なる雑誌は見つからなかった。そのうち、『明治雑誌』は、『明法雑誌』の誤記に違いないと気づいたが、その『明法雑誌』も、国立国会図書館には架蔵されていなかった。
 いろいろ調べていくうちに、『箕作麟祥君伝』という本が出ていることがわかった。1907年(明治40)11月20日、丸善株式会社発行。この本は、国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できた。奥付には、「著作者 大槻文彦」とあったが、実際は「編輯者 大槻文彦」といったところ。この本に、箕作麟祥の「一代記」が収録されているのではないか、と思って見てゆくと、予想は的中し、その98ページから110ページにかけて、箕作麟祥が明治法律学校でおこなった演説が、速記録の形で載っていた。演説にはタイトルがない。しかし、本人が、「箕作麟祥の一代記」と言っているので、これが、福島正夫のいう「一代記」であることは間違いない。
 このあと、その「一代記」の全文を紹介する予定だが、本日は、とりあえず、その冒頭部分を紹介してみたい。

只今、岸本君から、私が演説をすると云ふ御披露がありましたが、私のは、別に演説と申すほどのことではなく、たゞ、ホンノ簡単なお話をする積りでございますから、順序も何も立ちませぬ、どうか、悪しからず、御聴取りを願ひます、(謹聴々々)さて、只今、名村先生から、お話の通り、この間、私に、此の明治法律学校の名誉校員になれと云ふお話がございましたが、一旦は、私に取つて、あまり名誉すぎることゝ思ひましたから、お断りをしようと思ひましたが、それでは、失礼と思ひましたから、其席で、お請け〈オウケ〉を致しまして、今日、此席に出ました、因て〈ヨッテ〉、其事につきまして、一旦は、お断りをしようとは思ひましたが、終に〈ツイニ〉承諾を致しましたと云ふ事柄を述べまして、それから、私の一身に取りまして、法律に係りました箕作麟祥の一代記を、簡単にお話し申しませう、(喝采、謹聴々々)〈98~99ページ〉【以下、次回】

 ここで、岸本君とあるのは、明治法律学校の創設者のひとり岸本辰雄(1851~1912)のことである。
 名村先生とあるのは、名村泰蔵(1840~1907)のことである。名村は、オランダ通詞を振り出しに、大審院長心得、貴族院議員となった。幕末の1867年(慶応2)、徳川昭武に随行して、パリ万国博覧会に赴いた。このとき、箕作麟祥も、フランス語を速習し、随行を許されている。箕作は、名村より六歳年少。
 明治法律学校は、明治大学の前身で、創立は1881年(明治14)1月17日。なお、1887年9月の「授業始めの式」(その年度の始業式のことか)の際、名誉校員として紹介されたのは、大木喬任(司法大臣)、鶴田皓(元老院議官)、名村泰蔵(大審院検事長)、箕作麟祥(元老院書記官)、および、ボアソナード(日本政府法律顧問)の五人であったという。カッコ内は、当時の肩書きである。

*このブログの人気記事 2024・8・4(8位になぜか石橋恒喜)

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