◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その6
桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その六回目。
(3)「「君が代」伴奏拒否訴訟最高裁判決批判」(『世界』2007.5)
西原は、最高裁判決があった直後に『世界』2007年5月号〔59〕に判決批判の文章を掲載している。「最高裁判決批判」とは言いながら、その半分近くは前年9月21日東京地裁判決(予防訴訟原告勝訴)への批判である。この論文は関係者の間で多くの議論を呼んだ〔60〕。ここで西原はY氏の事例(第1章で前述)を使いながら、予防訴訟原告も東京地裁判決も<子どもの心の自由を置き去りにした教師中心主義>だと批判している。後半になってようやく<ピアノ裁判>最高裁判決の論評に入る。
① 法廷意見に対して
西原は激しく非難する。
「最高裁判決は、予防訴訟判決を意識して軌道修正を試みるものだった。ただ、教師の思想・良心の自由に基づく主張に対して、子どもの権利を守るためのコントロール枠組を組み込むという課題は、簡単なものではなかった-残念ながら、第三小法廷の多くの裁判官たちの能力を越えていたということなのだろう。〔61〕」
しかし、「子どもの権利を守るためのコントロール枠組を組み込む」ことは、原告側では本裁判において訴訟構造上説得的な位置づけができなかったのであって、裁判官の能力だけの問題ではない。
西原による法廷意見の要約は以下である(下線は引用者)。
「この事案に対して判決多数意見は、思想・良心の自由に対する侵害は存在しないとした。理由は三点。①ピアノ伴奏は「一般的には」上告人の歴史観・世界観と不可分に結びつくものでなく、ピアノ伴奏を求める職務命令は上告人の歴史観・世界観それ自体を否定するもの、ではない、②「客観的に見て」入学式の国歌斉唱時のピアノ伴奏が音楽専科の教諭等に通常想定され、期待されるものであって、特定の思想を有することを外部に表明する行為とは評価できない、③本件職務命令が内容において不合理でない、という三点である。〔62〕」
下線部は不正確であって、判決の当該部分は「上告人にとっては,上記の歴史観ないし世界観に基づく一つの選択ではあろうが,一般的には,これと不可分に結び付くものということはできず」であって、「上告人の」の挿入は文意を変えてしまう。すなわち判決は、<一般的にはピアノ伴奏は歴史観・世界観に不可分に結びつくものではないがゆえに、上告人の歴史観・世界観それ自体を否定するものではない。>といっている。
西原の法廷意見批判は以下である。
「 この法的推論は、那須裁判官補足意見、藤田裁判官反対意見が指摘するように、憲法一九条(思想及び良心の自由)論の体をなしていない。思想・良心の自由は、一般的な評価や「客観的」な見方と合致した信条のみを保護するものではない。ところが多数意見は、思想・良心のあり方が個人によって多様であるという出発点を無視する。基本的人権が保障されることの意義を無に帰せしめる暴論である。〔63〕」
ここでも、判決の不正確な理解がある。藤田反対意見は、多数意見について原告の個別的思想・良心評価の不在を批判したのではなく、原告Fの思想・良心について、法廷意見が行った<歴史観ないし世界観及びこれにに由来する社会生活上の信念等>という構造把握からは抜け落ちてしまった重要な内容があることを指摘したのである。
西原は2011年9月の論文では、同年に相次いで出された不起立等にかんする最高裁判決で出現した<間接的制約>論は、<ピアノ裁判>最高裁判決法廷意見を事実上修正して間接的ではあっても制約を認めるものであったとしている〔64〕。しかし、<間接的制約>論は不起立行為についてのもので、不伴奏行為についてのものではない。2012年1月にでた不伴奏者を含む最高裁判決では<間接的制約>論は不起立行為に対して、不伴奏行為については本<ピアノ判決>というように区別して援用している〔65〕〔66〕。
② 那須弘平補足意見に対して
以下のように、西原は、那須弘平裁判官補足意見については、法廷意見より若干高く評価している。
「 この多数意見に対し、那須裁判官補足意見は、「一般的」「客観的」な評価の問題ではない点を指摘し、伴奏命令が「上告人の立場からすると」心理的な矛盾・葛藤を引き起こし、精神的苦痛を与える点を出発点にする。当然の枠組である。
ただこの補足意見は,他方で校長の職務命令を適法視し、思想・良心の自由に対する制約を甘受しなければならないと述べることで、最終的には多数意見の結論に合流する。(中略)
ただ、地裁・高裁判決は、職務命令が存在することをもって公共性と同視し、全体の奉仕者性と校長の奉仕者性を混同するような推論を踏まえていた点に問題があった。那須裁判官補足意見は、そうした形式的推論に陥る過ちを防ごうと、職務の公共性の内実を可視化しようとする。彼は一方において「多元的な価値の併存を可能とするような運営」が学校の公共性に含まれることを指摘しつつ、他方で校長の裁量権行使に基づいて作り上げられる「学校単位の統一性」の意義を強調し、本件のような学校行事はむしろ「統一性」に関わる領域だと位置づけて、上告人の思想・良心の自由に対する制約を正当化する。(中略)
国歌斉唱は、子どもの思想・良心の自由を考えれば、子どものレヴエルまで「統一性」が及ぼされてはならない課題である。その場合になぜ教師に対してだけ「統一性」が求められるのかは説明不能だろう。実は教師に求められる統一性は子どもを統一的行動に誘導しようとする手段なのではないか、といった疑念が生じる。〔67〕」
那須が原告の思想・良心の固有性をその主観的葛藤でしか把握していない点の指摘はそのとおりだが、西原自身、原告の思想・良心の構造を説得力あるものとして提示し得ているわけではない。また、西原による<教師の抗命義務>説は、職務上の義務であることを強調するが故に、<教師の思想・良心の自由は、それが職務上のものである場合、個人としてのものである場合より強い制約を受けるのが当然>というのが那須の考え方(第1章(3)③で前述)に対しては、十分に対抗できない。
那須が、学校儀式における<公共性>を、「学校単位の統一性」として理解していた点を西原は批判する。那須は、生徒も集団的行動によって一致して起立斉唱をすべきこと、教師の校長への服従による「学校単位の統一性」はそのためのものであること、これらのことをある程度明確に述べているのだ〔68〕。この点は、法廷意見が述べていないいわばmissing linkである。言い換えれば、那須はここで、教師個人の思想・良心の自由圧殺こそが生徒に対する国旗国家儀礼強制のかなめであることを指摘している。この点においては那須は「疑念が生じ」ただけの西原より適確であった〔69〕。【以下、次回】
注〔58〕法廷意見を文字通り補足する内容の那須弘平補足意見もあわせ考えればなおさら言える。
注〔59〕前出「「君が代」伴奏拒否訴訟最高裁判決批判 「子どもの心の自由」を中心に」
注〔60〕西原に対する批判としては例えば以下。
・水口洋介「「世界」5月号 西原博史「『君が代』伴奏拒否訴訟最高裁判決批判」論文を批判する」(夜明け前の独り言 弁護士 水口洋介 2007年4月14日 (土) http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2007/04/post_c33a.html)
・宮村博「現場教員の違和感―『世界』5月号西原論文を読んで―」(『教育』2007年9月号)
・永井栄俊「西原博史は誰に味方するのか 『世界』五月号「君が代伴奏拒否訴訟最高裁判決批判を評す」(『つぶて』56 2007秋)
注〔61〕『世界』2007年5月号p140 予防訴訟東京地裁判決は2006年9月。
注〔62〕同上p141
注〔63〕同上p141
注〔64〕「現実的な評価としては、ここには実質的な判例変更が生じていることを認めざるを得ないだろう。基準を示さず一応の合理性を確認することと、憲法上の権利制約を正当化できるだけの「必要性・合理性」があることを示すことでは、求められるものが異なるからである。そして、こうした評価構造の変化を帰結させる「間接的制約」というカテゴリーの承認についても、実質的な判例変更として捉えることが適切だろう。」
(「「君が代」不起立訴訟最高裁判決をどうみるか 良心の自由の「間接的制約」と「必要性・合理性」をめぐって」(『世界』2011.9)p120
注〔65〕2012年1月16日判決。この点の詳しい分析は森口千弘「平成24年1月16日判決における「思想・良心の自由」の意義」中の「2 裁量論における間接的制約の有無」(『Law &Pravtice NO.7』2013)。なお、2011年6月21日最高裁判決でも、起立斉唱行為には敬意表明の要素を認めるが、ピアノ伴奏行為にはそれが希薄だと判断している。
注〔66〕藤田宙靖は後年以下のように回想している。
「君が代ピアノ伴奏拒否訴訟については,自分の関わった事件ですから,あまり言うべきではないのですが,反対意見ではあっても,本当の黒か白かの反対意見ではないわけです。そのことがその後の君が代・国旗関係の最高裁の判例をご覧になれば分かると思うけれども,あの場合はたまたまピアノ伴奏だったので,ピアノ伴奏などは音楽担当教師が当然やるべきではないか,という比較的素朴な考え方で終わってしまったのです。しかし,例えば起立させて歌わせるということになるとどうかについては,当時からそれはまた違う問題だという意識はみんなにもあった。
私がああいう反対意見を書くことについても,これは非常に重要な意見だからぜひ書いてほしいという小法廷の中での了解はあったわけです。また,その後の判例を見ても,少なくとも懲戒処分の限度みたいなものをめぐって,そのことを強制することが思想信条の自由を間接的に侵す可能性があることについては,もう広く共通の理解が成立しています。私の意見は,音楽の教師においてもピアノを弾くのは当然の義務とは言えないのではないかという限りにおいて,ある意味一番尖鋭なものだったかもしれない。しかし,全く他の人と対立して人生観を懸けて争うというような話ではないわけです。(『法学教室』(NO.400 Jan.2014)p80)
注〔67〕p141-142
注〔68〕「職務命令を受けた教諭の中には,上告人と同様な理由で伴奏することに消極的な信条・信念を持つ者がいることも想定されるところであるが,そうであるからといって思想・良心の自由を理由にして職務命令を拒否することを許していては,職場の秩序が保持できないばかりか,子どもたちが入学式に参加し国歌を斉唱することを通じ新たに始まる学年に向けて気持ちを引き締め,学習意欲を高めるための格好の機会を奪ったり損ねたりすることにもなり,結果的に集団活動を通じ子どもたちが修得すべき教育上の諸利益を害することとなる。」(那須弘平補足意見の「3」)
注〔69〕「疑念が生じる」とはあまりにも控えめな批判である。教師個人の思想・良心の自由を圧殺することによって、生徒に対する同調圧力を強めようとするところにこの職務命令の本質がある。
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