◎ネストリユースに関する文書を持っていた者は死刑
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その三回目。
さて此処にありますのが所謂「景教碑」です。是が陝西省西安即ち昔の長安の近所で発掘されたのです。その発掘の年代に付て二つの説があるのであります。天啓三年説と天啓五年説です。即ち西暦一千六百二十三年説と一千六百二十五年説の二つであります。漢名「陽瑪諾」と云へるエマヌエル・デアズ(Emanuel Diaz)といふヂエスイツト会〔イエズス会〕の宣教師の書いた『唐景教碑頌正詮』(明の崇禎甲申歳(一六四四年)出版)と云ふ書物に拠ると、天啓三年即ち一千六百二十三年於て関中官命啓士、于敗墻基下獲之、とあります。それから同じヂエスイツト会の宣教師であつたアタナシウス、キルヘル(Athanasius Kircher)の著書に拠ると一千六百二十五年となつて居ります。私は一六二三年説が正しいと思ひます。 何れにしても、此の一六二三年は我が元和〈ゲンナ〉九年です。而して一千六百二十五年と申すと日本の寛永二年であります。今から三百六年か三百八年程前であります。上野の寛永寺が創まつたのが寛永三年からですから、寛永元年(一六二四年)の前後に当つて支那陝西省の旧都であつた長安若くは長安の郊外で此の碑が掘出されたのであります。而して御承知の通り支那には西暦一千五百五十五年頃から印度洋を経由して来たキリス卜教の宣教師が盛んに活躍したのであつたのです。従つてこの一千六百二十年代に於ては相当沢山の宣教師が居つた訳であります。そこでこの石碑が発掘されたといふことを聞いて漢名を『魯徳照』と申しましたアルバレー・スメドーと云ふ天主教〔カトリック教〕の宣教師が一六二八年には長安で之を見たのであります。そして此の碑の漢文の方は自分で読破したのであるが、このシリヤ文字が読めなかつたのであります。それで当時交趾支那〈コーチシナ〉に居た所の宣教師に此の拓本を送つて、初めて是がシリヤ語であるといふこととそのシリヤ文の意味とが判明したのです。そうですからこの石碑が一千六百二十三年若くは二十五年に於て長安城内か若くは其の郊外で掘出されましてから少なくも五六年して始めて是の石碑が景教の石碑であることが確定したのです。而して其の次に西洋に於て景教とは何ぞやといふ研究が始めて非常に盛んになつて参つたのであります。一寸不思議な様ですが基督教の本場の西洋の基督教宣教師が始めて景教とは何ぞやといふことの斫究をやり出したのが全く此の支那の景教碑発掘の賜〈タマモノ〉であつたのです。換言すれば此の石碑の発見された為に西洋では景教とは何ぞやといふことが始めて斫究せられ出した事実が分り出したといふことになるのです。一寸〈チョット〉考へると西洋の方の学者が「景教」のことをよく知つて居るべき筈の様に考へられるのです。併し実際は西洋の人等〈ヒトラ〉も景教をよく知らなかつたのです。又た今もよく知りませぬ。その西洋の学者が景教を全く知らなかつたのには大に理由があるのであります。御承知の通り儒帝〔Justinianus I〕制定の『羅馬〈ローマ〉法全典』コーパスユリスチビルス(Corpus Juris Civilis)の中にも二十一箇所か二十二箇所に亘つて景教厳罰の取締を記載して居ります。それから儒帝以前の第五世紀のテオドシウス二世〔Theodosius II〕の法典の中にも二三箇所程景教の取締規定があります。是はどういふことを規定して居るかと申しますと、ネストリユースNestorius(景教の開祖)に関する一切の文書を焼棄てよ、と命じ若し焼棄てずして之を持つて居つた者は死刑に処すといふ様な厳重な法律が西暦四百二十八年にも制定せられて居ります。又ヂヤスチニヤン帝〔Justinianus I〕によりて西暦五百五十五年にも同様なものが出来て居ります。それが為に東西ローマ帝国領土内に在つては悉く景教の文書は焼いたのでありますですから西洋の方には景教の材料は種切れになつた訳です。故に此の景教碑文が掘出された時に、欧洲に一大センセーシヨンが起つたのも無理はなかつたのです。又た是が、ネストリユース派の(景教)の物であるといふことが分つてから、西洋の方でも急に景教そのものを内證で研究し出したのです。今日西洋に於ける景教に関する著書が悉皆〈シッカイ〉一千六百二十五年以後のものである事実は何よりの證拠です。而して是の一事は支那に於て掘出されたこの景教碑文といふものが西洋に対して如何に偉大なる刺戟を与へたかといふ一つの證拠であります。而して是の碑文が景教のものである、所謂ネストリヤンのものであるといふことの證拠は何処にあるかと申しますなれば先づ其の證拠は次の通りです。〈附録20~22ページ〉【以下、次回】
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その三回目。
さて此処にありますのが所謂「景教碑」です。是が陝西省西安即ち昔の長安の近所で発掘されたのです。その発掘の年代に付て二つの説があるのであります。天啓三年説と天啓五年説です。即ち西暦一千六百二十三年説と一千六百二十五年説の二つであります。漢名「陽瑪諾」と云へるエマヌエル・デアズ(Emanuel Diaz)といふヂエスイツト会〔イエズス会〕の宣教師の書いた『唐景教碑頌正詮』(明の崇禎甲申歳(一六四四年)出版)と云ふ書物に拠ると、天啓三年即ち一千六百二十三年於て関中官命啓士、于敗墻基下獲之、とあります。それから同じヂエスイツト会の宣教師であつたアタナシウス、キルヘル(Athanasius Kircher)の著書に拠ると一千六百二十五年となつて居ります。私は一六二三年説が正しいと思ひます。 何れにしても、此の一六二三年は我が元和〈ゲンナ〉九年です。而して一千六百二十五年と申すと日本の寛永二年であります。今から三百六年か三百八年程前であります。上野の寛永寺が創まつたのが寛永三年からですから、寛永元年(一六二四年)の前後に当つて支那陝西省の旧都であつた長安若くは長安の郊外で此の碑が掘出されたのであります。而して御承知の通り支那には西暦一千五百五十五年頃から印度洋を経由して来たキリス卜教の宣教師が盛んに活躍したのであつたのです。従つてこの一千六百二十年代に於ては相当沢山の宣教師が居つた訳であります。そこでこの石碑が発掘されたといふことを聞いて漢名を『魯徳照』と申しましたアルバレー・スメドーと云ふ天主教〔カトリック教〕の宣教師が一六二八年には長安で之を見たのであります。そして此の碑の漢文の方は自分で読破したのであるが、このシリヤ文字が読めなかつたのであります。それで当時交趾支那〈コーチシナ〉に居た所の宣教師に此の拓本を送つて、初めて是がシリヤ語であるといふこととそのシリヤ文の意味とが判明したのです。そうですからこの石碑が一千六百二十三年若くは二十五年に於て長安城内か若くは其の郊外で掘出されましてから少なくも五六年して始めて是の石碑が景教の石碑であることが確定したのです。而して其の次に西洋に於て景教とは何ぞやといふ研究が始めて非常に盛んになつて参つたのであります。一寸不思議な様ですが基督教の本場の西洋の基督教宣教師が始めて景教とは何ぞやといふことの斫究をやり出したのが全く此の支那の景教碑発掘の賜〈タマモノ〉であつたのです。換言すれば此の石碑の発見された為に西洋では景教とは何ぞやといふことが始めて斫究せられ出した事実が分り出したといふことになるのです。一寸〈チョット〉考へると西洋の方の学者が「景教」のことをよく知つて居るべき筈の様に考へられるのです。併し実際は西洋の人等〈ヒトラ〉も景教をよく知らなかつたのです。又た今もよく知りませぬ。その西洋の学者が景教を全く知らなかつたのには大に理由があるのであります。御承知の通り儒帝〔Justinianus I〕制定の『羅馬〈ローマ〉法全典』コーパスユリスチビルス(Corpus Juris Civilis)の中にも二十一箇所か二十二箇所に亘つて景教厳罰の取締を記載して居ります。それから儒帝以前の第五世紀のテオドシウス二世〔Theodosius II〕の法典の中にも二三箇所程景教の取締規定があります。是はどういふことを規定して居るかと申しますと、ネストリユースNestorius(景教の開祖)に関する一切の文書を焼棄てよ、と命じ若し焼棄てずして之を持つて居つた者は死刑に処すといふ様な厳重な法律が西暦四百二十八年にも制定せられて居ります。又ヂヤスチニヤン帝〔Justinianus I〕によりて西暦五百五十五年にも同様なものが出来て居ります。それが為に東西ローマ帝国領土内に在つては悉く景教の文書は焼いたのでありますですから西洋の方には景教の材料は種切れになつた訳です。故に此の景教碑文が掘出された時に、欧洲に一大センセーシヨンが起つたのも無理はなかつたのです。又た是が、ネストリユース派の(景教)の物であるといふことが分つてから、西洋の方でも急に景教そのものを内證で研究し出したのです。今日西洋に於ける景教に関する著書が悉皆〈シッカイ〉一千六百二十五年以後のものである事実は何よりの證拠です。而して是の一事は支那に於て掘出されたこの景教碑文といふものが西洋に対して如何に偉大なる刺戟を与へたかといふ一つの證拠であります。而して是の碑文が景教のものである、所謂ネストリヤンのものであるといふことの證拠は何処にあるかと申しますなれば先づ其の證拠は次の通りです。〈附録20~22ページ〉【以下、次回】
*このブログの人気記事 2024・10・3
- 西洋文明と東洋文明の分水嶺は1769年(佐伯好郎)
- 佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(1931)を読む
- 八丈方言は、日本全国にその類型を見ない
- 青ガ島は周囲9キロの火山島で、人口は375名
- クワイはヴェトナム語でkhvaiという(坪井九馬三)
- 青ガ島では、「降る雨」をフロアメという
- 原武史さん、近鉄特急で京都から津まで移動
- 自殺者に見られる三要素(西部邁さんの言葉をヒン...
- 上田躬荘と高山広子(「隆法窟日乗」より)
- 8月6日、呉線の坂駅で原爆の閃光を見る
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます