礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

空海の師・般若法師は、景教僧・景浄の友人

2024-10-04 03:42:04 | コラムと名言
◎空海の師・般若法師は、景教僧・景浄の友人

 佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その四回目。

 第一この彫刻せられたる十字架の形であります。而して今度北京の西南百清里に在る房山で取つて参りました此の十字架の拓本と比較すれば明瞭です。是の房山の十字架は両個共に矢張り景教の形であります。即ち此の唐の景教碑の十字架が景教固有の十字架であるといふことが一つの證拠です。それからもう一つ、此処の所に『時法主僧寧恕知東方之景衆也』といふ一句があります。而して此の漢文に対してシリヤ語で以てカソリカス・パトリヤーコス・ハナンイソー第二世』が其の時の景教の法主であると記しあります。法主僧はカソリカス、パトリヤーコスの訳で「寧恕」はハナン、イソー即ち『イエスの安寧寛恕』の訳である。此のハナン、イソーといふ者は景教が独立してから第二十四代目の法主であるといふことが西洋の方の史料で分つたのであります。そこで此の碑文中の記事、この十字架、それから此処に書いてあるシリヤ文の説明書ともいふやうなもので、是は決して天主教のものではない。これは景教のものであると判定せられるのです。即ちネストリユース派のものであるといふことが決つたものです。併し茲に一大問題が有ります。即ち天主教と景教との区別如何の問題です。換言すればネストリヤニズムと所謂キリスト教とはどこが違ふかといふ問題が起つたのであります。今日に於てもキリスト教と景教とは如何なる点に於て違ふかといふ問題は起るのであります。而して今日只今恐らくは皆さんのお心持にも同様の御疑念が生じて居ることであるだらうと思ひます。例へば景教は新教であるか旧教であるか。又は景教とキリスト教とはどう違ふか。斯ういふ様なお考があると思ふのであります。又た斯の如き疑問は当然のことであります。故に少し余談に亘りますが、先づギリスト教とは何ぞやと云ふ問題を略述します。景教のことを申すにはどうしても順序としてキリスト教のことを申さなければならないのです。又た景教のことを申上げますにつきてはどうしても申上げねばならないのは、此の大秦寺であります。西洋では景教碑偽造説が盛〈サカン〉でした。天主教の坊さんか何んかが勝手に斯様〈カヨウ〉な物を拵へて之を土中に埋めて置いて後の世の人を欺くためにやつたのだといふ様な説も盛んに行はれて居るのであります。唯今から三年程前に蘇蘭土〈スコットランド〉の人でスチユワートといふ人の著はしました書物に於てさへも――この人は印度に三十余年程居つた宣教師でありますが――此の人が景教に関して著述した書物などを読んで見ますと、ウオールト博士の語として此の景教碑文中のシリヤ語の方は本物であるがこの漢文の方は後世の偽作である。何となれば千二百年前の支那の文字が今日その侭読めるといふことは有り得ないからであるといふやうなことを平気で書いて居るのであります。支那や日本で三千年も前の文字をそのまゝ読んで居るといふことは彼等の想像に及ばぬことです。一千九百二十八年の著書にそんな認識不足のことが平気で引用せられて居るのであります。景教といふものが羅馬帝国の法律に依つて禁止せられてから本年は丁度千五百年になるのです。而して今の西洋諸国はキリスト教のドグマで育てられて来たのでありますから、是の支那の景教碑が初めて世の中に報告された時から、西暦一九二八年即ち去今〈キョコン〉四年前までも是が偽物であるといふやうな議論が西洋に行はれて居る様な次第であります。併し、此の『大秦寺の僧景浄』といふ名前を長安、西明寺の僧円照の著書『貞元新定釈教目録』の中に、発見し之を明治二十八九年頃、仏国〔フランス〕の『通報』〔T'oung Pao〕といふ有名なる東洋学専門の雑誌にお出しになったのが我が高楠〔順次郎〕博士であります。この『貞元新定釈教目録』の時代は弘法大師〔空海〕の時代です。弘法大師が長安にお出でになつて、西明寺で梵語を御勉強になりましたことがあります。而してその時の先生が般若法師〔般若三蔵、プラジュナー Prajñā〕でありました。而して其頃に景浄と云ふ景教の僧と般若法師とが六波羅密多経を共訳せんとしたのです。高野山にあります弘法大師の『将来目録』の一番終りの所に書いてあります文句に拠れば我が弘法大師はこの景浄の友人であつた般若法師に就いて梵語をお習ひ仏法を修められたのです。更に前記の『貞定釈教目録』によればその般若法師とこの景浄との二人が協力して六波羅密多経の翻訳をやりかけたのです。而してこの景浄はキリスト教の宣教師でありますから、成るべく六波羅密多経をキリスト教に便利なやうな飜訳を試んとしましたと見へます。併し般若法師は之に讃成しませんでした。それで般若法師と景浄との間にこの翻訳のことに付て大なる争ひを生じまして、終に当時の皇帝であつた徳宗皇帝に勅裁を仰ぐに至つたのであります。さうすると徳宗皇帝は、景浄に向ひお前は彌尸訶【メシヤ】教を説くのぢやないか、又た般若は蘭若〈ランニャ〉教を説くのぢやないか、キリスト教の宣教師と仏教僧とが仏典を訳すのはこれは白いものと黒いものを同じやうにするといふのであるから無理である。両人は別々に翻訳せよ、一緒にやつてはならぬといふ裁決がありました。
 即ち『且夫釈氏伽藍、大泰僧寺、居止既別、行法全乖、景教応伝彌尸訶教、沙門釈氏弘闡仏経、欲使教法区分、人無濫渉、正邪異類、涇渭殊流』と判定せられたのです。〈附録22~24ページ〉【以下、次回】

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