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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『曾文正公家訓』中の手紙は校勘されている(小島祐馬)

2025-04-03 00:11:51 | コラムと名言
◎『曾文正公家訓』中の手紙は校勘されている(小島祐馬)

『回想の河上肇』(世界評論社、1948)から、小島祐馬の「読書人としての河上博士」という文章を紹介している。本日は、その三回目。
 小島は、ここで、曾国藩の書簡を引用している。その際、前後の一行を空けることはしていないが、このブログでは、前後の一行を空けておいた。

 この文面によつて観ると、曾国藩がその子紀澤及び紀鴻に与へた手紙を集めた『曾文正公家訓』の中から、習字に関する注意数項を書抜いて私から博士に送つて上げたものと見える。書中に引用せらるゝ文は同治五年〔1866〕正月十八日紀鴻に与へた手紙の一節であるが、これは青柳氏引用の文を原文とし、私から送つて上げた文によつて一々精密に校勘せられたものである。習字は河上博士に在りても亦た一の末技に過ぎず、而も一旦之を研究するとなれば如此〈カクノゴトク〉周到なる用意を怠らない。書中に引かれてゐる私の曾国藩を評した言葉は、やがて其の侭移して河上博士に対する評語に充てることが出来るのである。「読書骨相人相を変換するの説」といふのは、やはり右の『家訓』中同治元年〔1862〕四月二十四日紀澤紀鴻両人に宛てた手紙の中に在る次の文句のことである。

 人之気質 由於天生 本難改変 惟読書則可変化気質 古之精相法 幷言読書可以変換骨相 欲求変之之法 総須立堅卓之志……古称金丹換骨 余謂立志即丹也

 この文句は余程強く博士の印象に残つてゐたと見え、晩年刑務所を出られて中野に居られた頃、「或人から揮毫を依頼せられたが、いつぞや聞いた曾国藩の読書骨相人相を変換するといふ説が大変面白いので、あれを書いてやりたいから全文を筆写して送つてもらひたい」といふ意味の手翰を受取つたことがあつた。その頃の博士は大学の研究室に閉ぢ籠り、入口に「只今多忙」の札を掲げて読書執筆に専念せられて居り、大概の用件は近所に住んでゐた私などへも多く郵便で言つて来られてゐる。学問上に於いてスミスとマルクスとに傾倒された博士は、研学の態度に於いても此の両者の後を追はんと努力されてゐたもののやうであつた。〈16~19ページ〉【以下、次回】

 曾国藩がその子息に与へた手紙は、「青柳氏」が引用しているものが「原文」であり、『曾文正公家訓』にあるものは、家訓自身の手で「精密に校勘せられたもの」というのが、小島祐馬の見解である。
 小島から、そのことを教えられた河上は、気になっていた疑問が解消できて、さぞ喜んだに違いない。
 ところで、『曾文正公家訓』には、武内義雄による翻訳がある。これによって当該箇所(同治五年正月十八日)を読んでみると、小島が河上に書き送った「家訓」の文章(校勘せられたもの)が、ある程度、復元できる。おそらくそれは、次のようなものだったと思う。

 ……毎日習柳字百個 単日以生紙臨之 双日以油紙摹之 …… 数月之後手愈拙字愈醜 意興愈低 所謂困也 困時切莫間断 …… 再熬再奮 自有亨通精進之日 不特習字 凡事皆有極困極難之時 打得通的便是好漢 ……

 曾国藩(そう・こくはん、1811~1872)は、清代末期の政治家。『曾文正公家訓』の「文正」は、その諡(おくりな)である。『曾文正公家訓』には、武内義雄による翻訳があるが、その紹介は一週間ほどのちに。

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