礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『独学で歴史家になる方法』の書評を紹介する

2019-03-26 03:59:24 | コラムと名言

◎『独学で歴史家になる方法』の書評を紹介する

 畏敬する研究者・野崎美夫さんから、昨日、拙著『独学で歴史家になる方法』に対する書評を頂戴した。ご本人のお許しを得たので、以下に紹介したい。

礫川全次『独学で歴史家になる方法』(実業之日本社2018.11)を読む。    野崎美夫

 ブログ<礫川全次のコラムと名言>を閲覧する度に、著者の博学と旺盛な探求欲には圧倒されている。近著『独学で歴史家になる方法』は、大学等のアカデミズムに属さない<歴史愛好家>がどのようにして<歴史家>になることができるかを教授したものである。同時にブログで触れられたテーマをさらに深めた研究ノートである。そして、礫川自身の歴史家としての自伝でもある。
<忘れ去られようとする者へのまなざし>
 礫川の多くの編著作を一瞥してみて、彼の嗅覚の鋭さにはあらためて敬服する。大学等のアカデミズムが採り上げないテーマを数多く見いだし、資料集に編み、彼自身の研究としてものにしている。本書にはその過程が語られている。その際、慧眼の出版人との出会いも重要である。出会いは偶然によってのみ実現したわけではないが、批評社社長佐藤英之の存在がなかったら、礫川の研究活動はより多くの困難に満ちたものになったであろう。       
 本書には、礫川が古書店や図書館で出会った、決して主流とは言えない歴史家が多く登場する。大学等の歴史研究機関に職を持ち、さらに学界の主流に属する研究者とは異なった来歴・位置の研究者に、著者は自然に目が向いてしまうようである。私にとってこのまなざしはとても好ましい。これこそが本書の隠れた最大の魅力に思える。私は、次から次へと登場する不遇な歴史家のエピソードに浸りきっているうちに、一気にこの書を読み終えてしまった。M.ウェーバーの『プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神』をはじめて翻訳した梶山力の「訳者序文」、『日本婚姻史』『日本巫女史』『日本盲人史』を著した中山太郎の「巻頭小文」の長い紹介に礫川の思い入れはよく現れている。一方、学界の第一人者になった著明な歴史家へのまなざしは厳しい。大塚久雄、宮澤俊義などへの評価がそれである。より本格的な批判的言及は前者については『日本人はいつから働きすぎになったのか』、後者については『「ナチス憲法」一問一答』において行われている。
 本書では、学界とは遠いところにいる初学者が知的生産者としての<歴史家>になるための、基本的な心構え・技術が説かれている。孤独に研究を志す者にとっては極めて有用なアドヴァイスとなって、まさに大学での指導教官に代わるものである。自身の存在の証として、また相応のリスペクトを期待して、本書によって研究を始める、または研究継続のエネルギーを補給される無名の探求者は多いだろう。
<歴史家の思想性、<独>ののりこえ> 
 以下では、浅学を顧みず本書への私なりの注文を記す。紙数の制約等の事情もあったであろうが、褒めるだけではかえって労作には失礼と思い、敢えて書かせていたくことにした。
 「第21章、歴史とイデオロギーは近い関係にある」は、独学者にとって見逃されがちな本質的問題を取り扱っている。
「 歴史という学問が、イデオロギーと近い関係にあるということは、皆さんが歴史を学ばれる場合でも、皆さんが歴史を研究される場合でも、また、研究の成果を発表される場合でも、心得ておくべきことでしょう。」(p233)
 ここで採り上げられている事例は3つある。①瀧川政次郎の指摘する天皇制にまつわる古代史のタブー、②鈴木治『白村江』に読み取れる現代史の投影、③平川新の朝鮮出兵評価論と共鳴しかねない歴史修正主義、これらである。 ①は歴史学が国民国家の核心的アイデンティティと結びつきうること、②は歴史家の問題意識による歴史像構築、③は言説としての歴史研究が現代の思想状況の一コマになるという事情を指摘している。ここは語感上誤解を招きがちな「イデオロギー」という語より「思想性」など他の語を用いて、歴史研究の本質的問題として扱った方が相応しいように思える。また、理論的には歴史学上の構築主義に関わるところである。<避けるべきトラブル>のような印象で読者に受けとめられてしまうのは、決して著者の意図するところではないであろう。
 学会・研究会は情報交換の場であるとともに相互批判の場でもある。独学の研究者が陥りやすいであろう落とし穴の一つは、研究史についての情報不足による<新説>提示であろう。礫川はこのことを十分自覚していると思うが、独学者が大手の学会で渡り合える戦術とミニ研究会を刺激的な知的錬磨の場とする作法について、いま一歩立ち入って語って欲しかった。独学者が深く関わるネット社会との付き合い方についてもより多く触れて欲しかった。紙媒体を経ずにホームページ等に発表する論文の研究業績としての位置づけ(場合によっては利用されたにもかかわらず無視される可能性)、ネットによってのみ供給された情報の価値判断や典拠表示の仕方(ネット上の情報は玉石混淆である上、常に更新されてゆく)、こういった問題である。著者なりの配慮や苦労があったはずだ。
 最後に、歴史民俗研究会の機関誌復刊を願っているのは私だけでないだろう。 2019.3.25

*このブログの人気記事 2019・3・26

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 本日は「このブログの人気記... | トップ | 柳田國男、『土の香』と加賀... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事