礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

線香の火を口で吹き消してはいけない理由

2018-11-26 01:30:12 | コラムと名言

◎線香の火を口で吹き消してはいけない理由

 瀧川政次郎『法史零篇』(五星書林、一九四三)から、「火と法律」という文章を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した文章のあと、改行して次のように続く。

 木花咲耶姫【このはなさくやひめ】が天津神の疑ひを受けられ、ことさらに出入口のない八尋殿【やひろどの】を造つて、それに火を放ち、我が産むところ正しく天孫の子ならば、火も亦損ふことを得ず、我が産むところ国津神【くにつかみ】の子ならば、火もて焼け失せよと誓つて、三人の子を生れたといふ記紀の伝説は、日本の昔に、火による神意裁判のあつたことを物語る神話であるが、火炎による神判が行はれるのは、火が神聖なものであるからである。火炎による神判は、後世には鉄火による神判に進化した。鉄火神判といふのは、カンカンにおこつた炭火の上に鉄棒をのせ、その赤熱するを待つて、鉄棒で原被両告の手をしごき、焼けただれた方を敗訴とするものであつて、焼火箸で手をしごくといふ荒行〈アラギョウ〉は、今でも山伏【やまぶし】の間に残つてゐる。鮪〈マグロ〉の上に焼海苔【やきのり】をのつけたものを鉄火といいふのも、その色合からきたものである。あの事件には「手を焼いた」といふのは、鉄火神判に敗訴した苦い経験をもつてゐる、といふ意味から出た言葉である。女だてらの鉄火肌といふことは、村と村との水争ひに鉄火神判を用ひたことから起つたものではないかと思ふ。江戸時代には村と村との水争ひに、各村から一人宛〈ズツ〉の代表者を出して、神前に焼火箸をしごかした。手を焼くのは、誰も困ることであるから、焼火箸をしごく役には誰もなりたくないのが人情だが、イヤ、村中のためとあれば、わちきがやらかしませうと、その役を買つて出る義侠肌の人間が、即ち鉄火な野郞なんである。
 噴火口を「おはち」といつて崇め、噴煙を御神火【ごじんか】と号しておろがむのも、火を神聖視する考へ方のあらはれであり、竈〈カマド〉の神を三宝荒神〈サンポウコウジン〉として斎き〈イツキ〉祭るのも、火が神聖であるからである。斯やう〈カヨウ〉に、火は神聖なるが故に、火には不浄なものを投げ入れてはならない。火鉢の側で爪を切ることがいけないとされてゐるのは、不浄な爪が火を穢すのを恐れるのである。爪が不浄なものと考へられてゐたことは、素盞鳴尊〈スサノウノミコト〉が天津罪【あまつつみ】国津罪を犯して高天原【たかまがはら】を追はれ給ふときに、まづ爪髮を抜き、千座置戸【ちくらおきど】を負はされて神逐【かんやら】に逐【やら】はれ給ふたことによつても知られる。火の側で爪を切つてはならぬといふ掟【おきて】は、或る地方では、夜爪〈ヨヅメ〉を切つてはならぬといふいましめになつてゐる。夜爪を切れば炉辺〈ロバタ〉に知らず知らずに爪が飛ぶから、それを警戒したものであらう。又今日でも神様にお供へするお燈明〈トウミョウ〉や、仏様にお供へする線香の火を、フツと口で吹き消したりすると叱られる。臭い息を神聖な火に吹き込むことが、不浄と考へられてゐるからである。むかしは神仏にささげる火のみならず、あらゆる火が、そのやうに取扱はれたに相違ないと思ふ。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2018・11・26

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする