礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」(1914)

2018-11-18 08:22:28 | コラムと名言

◎中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」(1914)

 先日、雑誌『郷土研究』のバックナンバーを通覧していたところ、その第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)に、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」が掲載されているのを見つけた。
 この論文は、のちに「百済王族の郷土」と改題され、『日本民俗学 随筆篇』(大岡山書店、一九三一)に収録されている。しかし、その際、中山は、文章表現などを大幅に改めている。そのオリジナル版を読んでみるのは意味のあることだろう。本日以降、数回にわたって、この論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介してみたい。
 原文には、ルビが多めに振られていたが、引用にあたっては、必要と思われるもののみを残した。

  百済王族の郷土と其伝説(上)  中 山 太 郎

 三十石とくらわんか船とで有名なる河内国枚方【ひらかた】町の東口で京阪電車を棄て、東北に向つて四五町行くと、在原業平【ありはらのなりひら】が七夕姫【たなばたひめ】に宿借らんと、伊勢物語に詠んだ天の川の辺【ほとり】に出る。水少く、石多く、百草瀬を狭め、雑木淵を埋【うづ】む――天の川どころかい泥の溝とも云ひたいやうな流れを越して、更に爪先登りに三町ばかり歩むと百済王族【くだらわうぞく】の宗廟【そうびやう】なる北河内郡山田村大字中宮【なかみや】、百済王神社の鳥居前に達するのである。
 社殿は桓武帝の交野行宮【かたのゝこうきう】の故地――とは後人の附托した真赤【まつか】な説であるが、兎に角に附近一帯の地に大鏡でお馴染【なじみ】の、惟喬【これたか】のみこの亭榭【ていしや】を設けられし交野鳥立【とたち】の原、然も境内には、年古【ふ】りたる木立の下に光仁帝が置かせられた拝天祭星の郊壇【こうだん】の礎石【いしずゑいし】やら、在りし昔の百済寺【くだらじ】の土台石【どだいいし】やらがゴロゴロしてゐるので、何となく神寂【かみさび】びて見ゆるが、本殿の瓦の花菱【はなびし】の神紋【しんもん】などが麗々しく附けてあるのを拝まされては、折角咽喉【のど】ぎわまで出かけてきた有難味をソツと奥歯で噛み殺してしまひたくなる。宝前に、鵜自物頸根【うじものうなね】突抜き祭神はと仰向【あほの】くと、ぺンキ塗の額に書きも書いたり左方素戔鳴命【すさのをのみこと】、右方百済王神社、これでは相撲の呼び出しのやうだわいと左右を見ると、瀬戸焼【せとやき】の狛【こま】が睨み合をして居る。我れ知らずヤレヤレを千遍ばかり唱へる。なんぼ新羅【しらぎ】のえ蘇尸茂梨【そしもり】まで跡を垂れた遠歩きの好きな素戔鳴命でも、百済王と寄り合ひ世帯【しよたい】とは、奇抜すぎると思ふても見たが相手は神様、凡人【ぼんにん】の非礼を受けやう筈もないと考へ直して社務所に神官【じんくわん】を訪ねると、此の神官が勇将の下【もと】に弱卒なしで、物を識【し】る識らぬの境を超越してござるのだから恐れざるを得ない。何を尋ねても存ぜぬ知らぬ――それでも絵葉書は三枚一組で十五銭だけは知つてゐる代物【しろもの】ゆゑ愈々以て助からない。ナニか古文書か社殿のようなものはありませぬかと開き直ると、神官曰く、先項京都大学の学生さんが来て此の巻物は見せると却【かへつ】て笑はれるから決して見せるなと云ふたゆゑ、縁起はあるが見せられぬと、それでも平【ひら】に頼むと初穂【はつほ】はお志次第と見料【けんれう】の催促が迂廻運動をはじめる。一見に及ぶと成ほど学生さんの云はれた通りの笑はれもの。それでも神官殿は口尖【とが】らして、此の巻物は先代の神官が、木津の阿部はん(此の地方で有名なる系図書きで、大和河内の神社仏閣には、此者の手になる偽縁起【ぎゑんぎ】頗る多し)に頼みやはつて、三十両といふ金を出しはりましたんだつせと例の大阪弁で噛みつくやうにほざく。此方【こちら】も此の神官ではあきまへんと絵葉書頂戴の初穂なげ出しの社務所駈け出しと極【き】めこんで、更に百済寺の本尊が預けてあると云ふ西有寺【さいいうじ】の住職、百済王の侍臣として韓国から来りしと云ふ余氏【よし】の後裔【こうえい】余善与次郎【よぜんよじろう】氏、百済王の嫡統と称して己【おれ】は近いうちに男爵になるのだと鼻うごめかしてゐる三松俊雄【みまつとしを】氏の三氏から聞き得たる百済王族の伝説は、ザツと左の通りでござりまする。【以下、次回】

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