◎八月革命説と丸山眞男
最近、「八月革命説」に関心を持っている。以前、知人某氏から聞いた話では、八月革命説を最初に口にしたのは、政治学者の丸山眞男で、そのアイデアを論文の形にしたのが憲法学者の宮沢俊義だったという。ただし、その知人の話も受け売りで、根拠までは知らないとのことだった。
いろいろ調べた結果、ようやく、「出典」がわかった。憲法学者の鵜飼信成〈ウカイ・ノブシゲ〉が、『ジュリスト』第八〇七号(一九八四年二月一五日)に発表した、「宮沢憲法学管見」というエッセイである。全三ページの比較的に短い文章で、「一」と「二」に分かれているが、八月革命説に触れているのは、「二」のほうである。本日は、その「二」を紹介してみたい。
宮沢憲法学管見 鵜 飼 信 成
一 【略】
二
宮沢教授のもう一つの功績は八月革命の説である。一九四六年五月、雑誌「世界文化」に初めて載った「八月革命と国民主権主義」は、学界の注目をひいた。しかしその元の題が「八月革命の憲法史的意味」(『憲法の原理』三七六頁)であったように、その力点は、憲法の基本原理の歴史的変化を分析するところにあった。そしてその当然の結果として、いつ、どこで、どのような手続でその変化が起ったのかが問題であった。教授はそれを一九四五年八月一四日のポツダム宣言受諾の時とし、その瞬間に旧憲法の基本原理は崩壊したとする。ただポツダム宣言そのものの中には、そのことを的確に示すことばは発見しにくい。それがはっきり出ているのは、日本政府が、受諾に先立って、わざわざ念を押してポツダム宣言は「主権的統治者としての天皇の大権を害する要求を含まない」ものと諒解してよいかと尋ねたので、連合国は、(一)天皇の統治権は連合国最高司令官の命令に従わなければならないことと、 (二)日本の最終の政治形体は、ポツダム宣言のいうところにしたがい、日本国民の自由に表明される意志によって定めるべきこと、とを答えた。これは日本政府の問合せに、直接的にではないにしても、間接的に見事に答えたものである。
しかし日本側の反応は極めてにぶかった。多くの政党は国民主権主義を明確に認めない憲法案を発表したし、政府の担当官は、総司令部が、これに業をにやして政府につきつけた憲法草案を日本語に翻訳して、国会に提出する時に、「The Emperor shall be the symbol of the State……deriving his position from the sovereign will of the People……」という冒頭の条文を、「この地位は、日本国民の至高の総意に基く」とし、国民主権という文字を意図的に避けた。
この間宮沢教授が国民主権主義に対して、これを支持する態度を堅持していたことは、明白であるが、それをはっきり表明したのは、「一九四六年三月六日に、政府によって、憲法改正草案要網が発表された直後」(『憲法の原理』三七五頁)である。
いわばそれは、論理的には明確でありながら、表現的には曖昧さを残しているポツダム宣言の本質が、旧憲法に代る新憲法の制定によって、国民の前に姿をあらわした時、憲法学者が、それを国民にはっきり説明した論文として重要なのである。それは歴史家が、三月以前【フオア・メルツ】とか三月以後【ナツハ・メルツ】とかいうのによく似ている。三月革命という言葉は、今日では、何人にも明瞭な歴史的概念であるが、八月革命は、これほど明確に一般の理解を得ることが出来ず、憲法学者の間で論議の的となっているのである。
しかし八月革命は、本来は、政治学や政治思想史の概念として誕生したものである。敗戦と共に、東京大学法学部では憲法研究会を組織して、憲法の新しい形態について研究を始めた。長老や新進の学者たちが、解放された自由な雰囲気の中で、のびのびと議論を交わし、古い日本の亡び去ったことを身に沁みて感じていた時に、政治思想史の専門家丸山真男教授がこういう発言をした。日本国憲法の基本原理は、八月一四日で崩壊し、代って新しい基本原理が生れたのではないか。歴史的にいえば、これは八月革命と呼ぶのが正しいのではないか、というのである(もっとも筆者はこの研究会のメンバーではなかったので、これは伝聞である)。
宮沢教授は、丸山真男教授の了解を得て、しかし新憲法草案発表後に、八月革命に関する論文を発表されたので、多少問題把握の方法に、原発想者との間にはずれがあるようにも思われるが、それはそれで宮沢教授の八月革命説の本質を示しているものであると思う。そうしてそこに河村又介〈カワムラ・マタスケ〉最高裁判事の提起された批判、日本の最終の政治形態は、日本国民の自由に表明された意志によって定めるべきであるという諒承事項が、物権的に国民主権主義の確立を要請したものだという宮沢説に対して、「それははたしてそういう厳密な法律的意義に解すべきであったろうか」、という疑問や、金森〔徳次郎〕国務大臣の説、降伏によって、国民主権主義という原理は、法律的にはたんに債権的に、日本国家の義務が発生しただけで、それが確立されたのは、日本国憲法の制定によってであるという説、との相違がある。
宮沢教授はたしかに日本国憲法草案提示後に、八月革命説を公表した。しかし八月一四日のその時点で、明治憲法は崩壊し、これに代って国民主権主義の憲法原理が成立したことを確信していたことを忘れるわけにはいかない。占領体制が開始した後でも、国民主権主義の憲法をどこかで曖昧にしようとする法律家、法律学者がいたと同時に、国民主権主義の原理に立って、占領軍の憲法制定に反対し、マッカーサーの憲法草案が、国民主権主義の確立を明示したことに、始めて歓喜の声をあげ、これはすでに八月革命によって論理的には成立していたとみるべきであると唱えた憲法学者もいたのである。美濃部〔達吉〕博士が「要するに改正憲法草案は従来の憲法における君主主権主義を根本的に変革して国民主権主義を国家組織の根底と為さんとするもので……これを以て或る程度にまで君主主義を持続するものの如くに弁明するのは、虚偽を以て国民を欺瞞せんとするものと思はれる」(『新憲法と主権』一頁)という主張を、八月の段階に溯って宣言した宮沢教授の説は、この意味で画期的な意義をもつものであることを私は疑わない。
附記 宮沢憲法学の意義については、最近論争が盛んである。主なものを挙げるだけでも、高見勝利「古い革袋と古い酒」(ジュリスト七九六号(一九八三年八月一日-一五日号))、森田寛二「『宮沢憲法学断章』の周辺」(ジュリスト八〇二号(一九八三年一一月一五日号))、高見勝利「〝法の科学者〟の光と影」(ジュリスト七九七号(一九八三年九月一日号))、森田寛二「宮沢俊義とケルゼン」(長尾龍一ほか編『新ケルゼン研究』)や前掲樋口、菅野等の論争がある。なお宮沢憲法学を体系的に分析した先駆的名著は、芦部信喜「宮沢憲法学の特質」(『憲法制定権力』所収)であろう。なおこれらの文献については東大の渡辺治助教授から貴重な指示を得た。 (うかい・のぶしげ)
ここで、鵜飼信成は、宮沢俊義の八月革命説を宮沢の「功績」として位置づけると同時に、同説を支持している。
しかし、いま問題にしたいのは、八月革命説の「当否」ではなく、その「由来」である。
鵜飼によれば、「八月革命は、本来は、政治学や政治思想史の概念として誕生したもので」、東京大学法学部の「憲法研究会」の議論の中で、「政治思想史の専門家丸山真男教授がこういう発言をした」という。また、宮沢俊義は、一九四六年五月に(新憲法草案発表後)、八月革命に関する論文「八月革命の憲法史的意味」を発表したが、これを発表するにあたって、「丸山真男教授の了解を得て」いるという。――これは、きわめて重要な情報ではないのか。