礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

火事のとき赤い腰巻を振るのはなぜか

2018-11-27 03:52:11 | コラムと名言

◎火事のとき赤い腰巻を振るのはなぜか

 瀧川政次郎『法史零篇』(五星書林、一九四三)から、「火と法律」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
 昨日、紹介した文章のあと、改行して次のように続く。

 火は神聖なるものなるが故に、清浄そのものである。故に日本においても、蒙古に於けると同様に、火をもつてきよめるといふこともある。たゞ日本では清洌〈セイレツ〉な水がいつでもふんだんに得られるから、日本では「きよめ」、「みそぎ」といへば、殆ど水に限られたやうに考へられてゐるだけである。今日花柳界で、芸者が「やかた」を出るときに、燧石〈ヒウチイシ〉で切り火を行つてゐるが、あれは門を出て不吉不浄に会はない為めの、きよめの印り火であつて、力士が取組にあたつて土俵に塩を撒くのと同じである。塩は「浪の華」であつて、水の精である。故に塩できよめること即ち水できよめることである。同様に、火できよめるかはりに、煙できよめるといふことも可能である。法会〈ホウエ〉を営むにあたつて、導師が手にせる珠数を、くゆる香煙の上に翳して〈カザシテ〉きよめる如き、即ちそれである。
 火は清浄なるが故に不浄を嫌ふ、といふ性質を逆用して、不浄を以て清浄の火を避けようとする、科学的な考へ方のやうで科学的でない迷信が、中世の頃から流行し出した。それは、女のゆもじ〔腰巻〕を振り廻して、火事の火の手の燃えひろがるのを防ぎ止めようとする行為である。女のゆもじは不浄なものであるから、それを振り廻してさへゐれば、その方へは火の手が来ないといふ考へである。誰がそんなことを初めて考へ出したのかと思ふと、微笑ましく〈ホホエマシク〉なる。この迷信は、相当ひろく日本に拡つてゐる迷信らしい。筆者は幼時大阪で近火に遭つたとき、近所の下宿屋の二階で、女中が真赤なゆもじを一生懸命に打ち振るのを目撃した。火事のときに打ち振るゆもじは、汚れてゐるほど効果的であるとされてゐるが、いかにもそれは理由のあることである。何となれば、火は不浄を忌むからである。火事に女のゆもじを振るのは、女のゆもじにはへのこ(火の子)止まるのしやれだといふ説もあるが、それは昔の人のマジカルな物の考へ方を忘れた、近代人の誤つた解釈である。汚れたゆもじで思ひ出したが、佐賀県地方には、汚れたゆもじで、夜ともし火をめがけて室内に飛び込んでくる金ブンを捕へると、大へん有福になるといふ迷信がある。その何の故であるかを知らないが、兎も角〈トモカク〉女のゆもじに或る種の魔力のあることは認められる。これに比べると男のふもだし〔褌〕には、さういふ魔力は何一つないが、それは女の幽霊に凄味があつて、男の幽霊に凄味がないのと同じである。
 話は飛んだところへ火の子が散つたが、火を神聖なるものとして、これを穢涜する行為を罰するれ成吉思汗の法律は、一種の神法であつて、日本古法と睛犀一点相通ずるものがある。水火自然を神のあらはれと眺めて、これを敬虔な態度で取扱ふ原始人の考へ方は、極めて尊い。これを未開だとか野蛮だとかいふのは、人為則文明と観る一種の「からごころ」ではなからうか。大東亜の法理は、大東亜に共通するひろい心を基〈モト〉としなければならない。春秋以来殆ど行詰つてゐるやうな支那思想をもつて、北方アジア民族の習俗を評価してはならない。蒙古人の間に、今もなほ火を神聖視する習慣があるかどうか、私はよく知らないが、あれば保存してやつていい習慣ではないか。支那人の苦力【クリー】が、穢い〈キタナイ〉靴で煙草火を踏みにぢつてゐる光景など、私はどうしても好感が持てない。私の心の隅には、まだどこかに火を大切にした古代日本人の物の感じ方が残存してゐるらしい。煙草の吹殻だけは、足で踏まずにチヤンと灰皿の中に入れて消してもらひたい。火を粗末にすることは、決して文明人の誇りではないと思ふ。

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