礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

征服アメリカ軍将官の態度を知りたい(吉川英治)

2018-11-05 01:55:40 | コラムと名言

◎征服アメリカ軍将官の態度を知りたい(吉川英治)

 山田秀三郎著『罪悪と栄光』改訂版(大日本皇道会、一九七〇)を紹介している。本日は、その四回目。
 本日、紹介するのは、第六編「米将の寛容」の「民主々義の神髄」の章のうち、「日本復興とケーシー少将」の節にある「ケーシー少将と吉川英治氏」と題する項の前半である(三九二~三九五ページ)。

◇民主々義の神髄
   ……日本復興とケーシー少将……

【略】
○…ケーシー少将と吉川英治氏
 また、ケーシー少将について、偶然なことがあった。
――市川市の素封家、中村氏〔二代目中村勝五郎〕は、中山競馬場の馬主であり、千葉地方の、ある勢力家であった。ある晴れた中村氏はアメリカ将軍を招待し、自宅に於て日本料理の饗応することを計画した。当日、筆者〔山田秀三郎〕は、中村家当主の実弟から誘われた。幸に、吉川英治氏が、奥多摩、吉野村から所用で東京に出て、序に筆者の銀座の事務所に立寄ったので、その旨を告げたところが――
〝アメリカ将官の態度を、密に知りたいと思っていた。さしつかいがなければ、その席に顔を出したいが……〟終戦後、間もない当時のことであったので、さすがの吉川さんも、アメリカ軍の将官には、ある恐れを抱いていた。
――それというのは、海軍戦記を書くために、海軍嘱託として、川合玉堂〈カワイ・ギョクドウ〉氏と一緒に、海軍々用機で南方に派遣されたことがあり、そのときに、現地に於て、勝者の権力、敗戦民族を、奴隷の如く扱ったことを、まざまざと見ている。今、日本民族が不幸、その敗戦民族になった。果して征服アメリカ軍将官が、どのような態度に出るか?……文豪吉川英治氏は、観察する興味を抱いたのであった。
まず、念を入れる必要があると思ったので、筆者は、中村氏の紹介で、GHQ本部、第一生命の隣りのビルに本部を置く工兵部に、吉川さんと一緒に、その将官に面会した。それが工兵部長ケーシー少将であった。
一応面識を得たので、市川の中村邸に、吉川さんと一緒に赴こうとしたが、自動車の不自由な当時のこと、車がなくって、案内役の筆者は、弱ってしまった。ビルの前で、吉川さんとマゴツイテいたところへ、ケーシー少将が、副官を伴って、ビルの玄関に、市川へ赴くために姿を現した。玄関の前には、立派な将官用の自動車が待っていた。将官は、車に乗ろうとしたとき、フト、今、面会したばかりの二人の日本人に目を止めた。二世が将官の旨を含んで、近寄ってきて、日本語で言った。
〝ミスターヨシカワは、なに者か?〟
吉川さんは、髪がバサバサと長く額に垂れて、アメリカ紳士の目から見れば、正直な話、人相のよい方ではない。
――それで筆者は誇張して言った。
〝日本の偉大なる文豪である。余はヤマダ、会社の社長である――これから、閣下の後を追って、市川の中村邸に赴くべく、自動車を探しているが、中々つごうがつかないで、マゴマゴしているところである〟
二世は、将官にその旨を伝えた。トタンにケーシー少将は、自動車に乗るのをやめた。そして二世に命じて、二人の日本人に、自分の車に乗って、一緒に行こうと言った。
吉川さんは、ビックリした顔で筆者を見た。
――遠慮しよう、と目つきで判った。
〝ご厚意は、まことに辱【かたじ】けないが、ご窮屈な思いをさせると、恐縮ですから、遠慮します〟
と、二世に言った。
〝閣下は親切なお方です。遠慮すると、かえって、失礼に当る〟
なるほど、それがアメリカ式というものであろう、と思って、吉川さんの顔を見た。吉川さんは、うなずいた。
〝――では、ご厚意に甘えて……〟
二人の日本人は、立派な自動車の前に歩み、
〝どうぞ、お先きに〟と手をさし出した。
意外――
〝ノウ、ノウ……〟
と、ケーシー少将は言った。そして二人の初対面の日本人に、先きに乗るように、と言うのであった。――さすがの吉川さんも、尻ごみして、助手台に乗ろうとしたら、二世が乗るから、困ると言った。
……もう仕方がなかった。将官の立派な車のクッションに、まず吉川さんが納まった。次ぎに筆者が続いた。三番目に将官がったので、アメリカ兵士の運転手が、ドーアをしめた。そして、将官の自動車は、まっしぐらに市川に向って疾走した。もちろん、吉川さんと筆者は、こゝ数年来、こんな据【すわ】り心地のよい新型の外車に乗ったことがなかった。【以下、次回】

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