◎佐々木惣一博士の反論に再反論できなかった
鵜飼信成『司法審査と人権の法理』(有斐閣、一九八四年七月)から、その「あとがき」を紹介している。本日は、その二回目。本日、紹介するのは、「あとがき」の「Ⅳ」の前半である(四〇五~四〇七ページ)。
Ⅳ
「佐々木惣一博士の『日本国憲法論』について」以下四編は、いずれもいわゆる伝統的憲法学の貢献を評価すると共にその問題点を指摘したものであるが、一方で若い清新な学者たちの反対を免れないと同時に、問題点の指摘が不十分であるという批判を受けたものである。時代が変わり、学説が進歩すると共に、旧時代の学説がこのような運命を辿ることは自然の結末で、いつの時代でもこれは避けがたい過程である。しかし、筆者は、筆者の立っている立場を軽々に変えることはないであろう。これはこれで日本憲法学史上の一時期の表明であると信じている。
これら四編のうち、第一の佐々木博士に対する拙ない書評に対しては、先生自らこれに対する反批判を加えられたことは、後学にとっての極めて喜ばしい反応であった。私はそれを熟読玩味し、大いに教えられるところがあった。先生の好意ある反論には感謝の外はない。しかしそれに対し再度反批判をすることは私にはできなかった。それはそれでよかったと私は思っている。しかし美濃部〔達吉〕先生とその一門対佐々木先生とその一門との間に、学問的には、一方で穂積〔八束〕=上杉〔慎吉〕=井上〔孚麿〕学派と対立する共通の姿勢がありながら、他方、その学問的方法には大きな違いがあることを知り得た。しかしこれら両派の間には感情的なしこりや反感が全然なく、全く友好的な関係で互いの学問的研究を理解し合っていることは、すばらしいと思う。
「美濃部博士の思想と学説――その歴史的意義」は、傍題として書き添えられている「謹んで先生の霊に捧ぐ」という言葉が示すように、昭和二三年(一九四八年)、先生の逝去直後に書かれたものである。戦後の先生の活動については、いろいろの批判もあるが(例えば、昭和二〇年秋、新聞紙上に発表された憲法改正無用論についての主張に対する批判など)、私は先生の言動が首尾一貫したものであることを固く信じて疑わない。その一例をあげれば、新しい行政機関の一つに全国選挙管理会委員長という職があった。先生の理論の一つの重大な要点に、国民代表機関としての国会の重要性、とくに議員の選任過程としての選挙管理の意義という論点があった。総司令部もこれを理解していて、すべての中央官庁のうちただ一つ内務省だけに解体を命じ、その権限を新設の、つまり旧憲法下には存在しなかった、独立性をもった、合議制官庁である行政委員会に分け与えてしまったのである。何れも重要な意味をもった制度改革であったが、中でも全国議管理会は警察の権限と切り離されることによって、従来のように内務省による選挙干渉などの行われる余地をなくしたことは、美濃部先生の理想を実施したものといえよう。【以下、次回】