礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

百済王族については纏った学説を聞かない(中山太郎)

2018-11-23 04:18:47 | コラムと名言

◎百済王族については纏った学説を聞かない(中山太郎)

 雑誌『郷土研究』第二巻一号および二号(一九一四年一月、二月)から、中山太郎の論文「百済王族の郷土と其伝説」を紹介している。
 本日は、その六回目(最後)。昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。
 なお、【 】内は原ルビ。一部に疑問のものもあるが、すべて原文のままである。

▲交野行宮の故趾と百済寺の興廃  西有寺【さいいうじ】の住職鈴木玄透媚々【びゞ】として詳【つまびら】かに語る。曰く交野【かたの】の行宮【こうきう】を百済王神社のあるところと云ふのは旧記に違ふてゐる。行宮は現在の樟葉【くすば】――崇神〈スジン〉の朝に彦国葺【ひこくにふき】が賊を討ちし糞袴【くそばかま】の地――の藤原【ふぢわら】と云ふ場所で、即ち藤原継縄〈フジワラノツグタダ〉卿の別業〔別荘〕を指したものである。然し此の行宮は極めて一時的のものと見え、凌雲集【りよううんしう】に嵯峨天皇の御製で過交野離宮感旧作と題して追想昔時旧館、凄涼涙下忽霑襟、廃村已見人煙断、荒院唯聞烏雀吟、荊棘不知致舞処、薜麗向恋情深、看花故事誰能語、空望浮雲転傷心とあるのを拝しても、久しからざりしことが判明します。現今行宮の礎石【いしずゑいし】と称して社地内にある石は、悉く百済寺の土台石でありまするが、中には光仁帝の郊祀壇【こうしだん】の名残りと云ふ人もありますけれどもそれも間違ひで、郊祀壇は交野の一本杉と云ふところが其の古跡で、網島桜宮線【あみじまさくらのみやせん】の津田駅に近い杉村がそれであります。百済寺は勿論百済王族の冥福を祈るために建立せられたものであらうが、興廃〈コウハイ〉の年時に就いては確【しか】と知れない。日本逸史【にほんいつし】に延暦十二年〔西暦七九三〕銭三十万及長門阿波両国稲各一千束、特施入河内国交野郡百済寺とあるから、此の頃隆盛【りうせい】を極めたものと見れば過ちはあるまい。百済寺は一名を万法蔵院――多少の疑ひはあるが――とも云ふたらしい。百済王族の勢力退転後に破却されて大和国当麻寺に移され、当麻寺は百済寺の名残りと元亨釈書【げんこうしやくしよ】に記してある。而して其の廃寺の跡へ今の百済王神社を斎祀したのである。河内名所図会【かはちめいしよづゑ】に中宮百済王神社今存す、古〈イニシエ〉は伽藍【がらん】ありしが後廃して礎【いしづゑ】を残すのみとあるが実際に適したものと思ふ。又百済寺の本尊仏と伝へられてゐる薬師如来、日光月光【につかわうがつくわう】の両仏、及び十二神將の木像、其他の法具も此寺に預つて居るが、法具から推すと百済寺は真言宗である。全体是等の諸仏体は、百済寺廃せられて後は梅林寺【ばいりんじ】と云ふ寺にあつたのを、其寺の住持【じうぢ】が大酒飲みで遂に寺まで飲潰【のみつぶ】し、愈々廢寺となるに就いて此寺へ持ち込んだのであります。百済寺が当麻寺の先【せん】をなしたものならば、本尊仏が梅林寺に伝はる筈がないから、是は元亨釈書が誤りか本尊が偽ものか其のうちの一つである。ところが、本尊仏は中々立派の作で、百済伝来のものと折紙がついてゐる。御覧あれと案内してくれたので見ると、二尺ばかりの座像、端厳微妙【たんごんみめやう】の相を備へ、判らぬながらも巨宗【きよそう】の作と感じ入つた。殊に驚かされたのは厨子【づし】の精巧麗致を極めてゐることであるが、美術眼を有してゐぬそれがしなどは、唯々感じ入るばかりであつた。
 百済王族に関する伝説、書けばまだ中々にある、王後首の墓碑銘と、某博士の違算問題、自称百済王氏の嫡統三松家の由来など其尤【ゆう】なるものであるが今は擱【お】く。唯終【をはり】に臨んで一寸云ふて置きたいことは、百済王族と云へば其何れの方面から見るも興味ある研究の題目である。河内一国の古代文化は勿論のこと、少しく誇張して云へば、随分大束〈オオタバ〉を申上げても差支がない。がドウ云ふ風の吹き廻しやら是に関する纏つた学者の説を聞いたことがない。――誰だい、隅の方で百済の研究なんかくだらないなんて悪口をたゝくのは。

 民俗学者の中山太郎は、今から百年以上前の一九一四年(大正三)に、百済王族については、「纏つた学者の説を聞いたことがない」と述べた。おそらく、この事情は、今日においても、変わっていないのではなかろうか。

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