私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

昔々の写真

2009-04-14 | 7追憶する
大正時代の、古い古い写真を見つけた。
親族の数々の結婚写真や、葬儀写真の一群から、不意に現れた家の歴史。

人間は、自分に都合の良くないことは語りたがらないもので、昔語りをつなぎ合わせても釈然としなかった空白が一気に埋まったような気がした。

女系の強い家だったが、昔の女達には里の意識が非常に強かったようだ。
いわく、自分の里だから…。親の家の為に…。
嫁いで後もずっと、自分の生まれた家を気遣っていた訳だ。

それは、戦後教育を受けた世代からは掘っても出てこない感覚で、「これは誰?この写真は何なの?」と尋ねた昭和二桁世代の親族の口からは、文化が違うとしか思えない解説が紡ぎだされた。

良いとか悪いとか、わかるとかわかっていないとかではなく、もう感覚が異次元なのだ。

戦後教育にどっぷり浸かった私が、明治女たちの気概を感じ取れているような気がしていることの方が、あるいは幻想かもしれないけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NO!といえる私

2009-04-11 | 雑観
華美にならず、わがままを言わず。
ちょっと変わった環境に一人っ子として育った私は、周りの大人たちに都合のいい私であるよう、上手くコントロールされてきたような気がする。

結局のところ、そうそう都合のよい私のままではいなかったのだが、いいおばさんになってもある種の呪縛から逃れられず、冒険ができないし、あと一歩が踏み出せない。

無難な安全圏で、静かに居続ける傾向がある。

自己主張をしない私が、多分本来の気質を発揮するのは、静かに観察し続けた結果、受け入れ難いあるいは同調しかねる事柄に対して「NO!」と言う時である。

限界点を超えて、拒否モードに入った時の私の頑なさは、いつのころからか周知の事実らしく、私の拒否スイッチが入ることを密かに恐れている人がいるのを知った。

私が「NO!」を突きつけると、もうお手上げらしいのだ。

本当は「YES」と言える自分に未だ憧れていたりするのだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田園の女性鍼灸師

2009-04-07 | 14楽しむ
昨春卒業した鍼灸専門学校の同級生で、自宅開業から一年を経た女性鍼灸師の治療院を今日訪問した。

郊外ののどかな田園風景に抱かれた、ゆったり時間が流れてゆく治療院にいると、キリキリとささくれ立つことの多い日常から隔たって心洗われる。

今年は、白でもピンクでもない曖昧な桜に、余り感じ入ることがなくなっていて、私の中の日本的情緒も失われつつあると哀しく思っていたのだが、日本の田園風景で咲き誇る力溢れる桜は、やはり美しいと感じた。

人の流れや利便性も重要だろうけれど、そうした合理性から距離をおいた環境というものも、得難く魅力的だ。

彼女の鍼施術はいつものように穏やかで、無理強いをせず、私はゆったりと穏やかなリズムの中で、優しい気持ちになって帰宅した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

性善説か性悪説か

2009-04-05 | 雑観
性善説に立つのか性悪説に立つのかによって、思考は全く異なった経過をたどるだろう。

生きる時どちらに立つのがより楽かと考えれば、どうかなぁ。

日本の教育では性善説をとっている場合が多いのだろうけれど、年齢を重ねるうちに、小さな悪事を重ねる他者を目撃したりして、結局のところ性悪説に傾いていくことが多いのではないだろうか。

安定した社会にあるときは、一生を性善説に立って終えることのできる人も多いのだろうが、こう乱れてくるとね。

単純に、経済的環境によって善悪が決定される訳でもないところがもどかしい。

私は、お嬢さん学校でならした学校に通うお嬢ちゃんが、いわゆる窃盗に類する犯罪行為に何のためらいもなく走るのを目撃して以来、経済的物差しが善悪の判断基準にはつながらないと悟ったけれど。

昔から子供の童話などには、経済的に豊かな家の意地悪な子が、貧しい家に育つ健気な主人公をいじめる…なんてストーリーはありふれていたけれど、雑多なストレスやコンプレックスが人間をゆがめてゆくものなのだろう。

初め性善説に立っていた人間が、性悪説に転向して行く過程が、一番生きにくくて面白くない。初めっから性悪説で生きていれば、変わってしまった自分の感覚を嘆く必要もないのだろうから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お金の使い方

2009-04-02 | 雑観
私が一番きれいだったころ、某上場会社のある管理職のオジサマがのたまったフレーズを、今日、不意に思い出した。

「どんなふうに、どれだけお金をかけてもらったかで、人はつくられるものだよ」

見所のある若手社員を高級クラブに連れまわし、その領収書を経理に回すに際して出た台詞だった。

仕事に対しても、社内の勢力争いについても、熱い情熱をもつその方は、受験から得た知識と、職場内での情報に偏りがちなエリートの若手を、海千山千の高級クラブのおねーちゃん達と会話させることで、何かしら学びとってほしい…と期待しておられたのだ。

そうした一見無駄な出費や経験が、人の厚みをつくり深みをつくる…という考えからだが、とても頭のよい(学歴ではない!本当に頭の回転がシャープでなお且つ人の心情に敏感)その方の話には、いつも説得力があった。

多分一方では、満開を過ごして葉桜になりかけている私に
「つきあうのなら、しっかりお金をかけて自分を成長させてくれる男とつきあえ」と諭しておられたのだが。

それとても、まったくもって男の論理で、やはり私は、私なりの選択しかできなかったけれど。

そして今日、実家の古屋を片づけていて思い当たったのだ。
お金の使い方、お金のかけられ方という話に。

たいして価値もないのに、きちんと折りたたまれ、しまい込まれた雑多な紙や布、衣類。
良いものなのに、使わないまま棚の奥にしまい込まれた食器や陶器といった道具類。
廉価なものをくたびれるまで使い、新しいものはその存在を忘れられるまで人知れず保存され、時代遅れになっていく。

我が家のこの処し方では、私がこんな風になっているのも道理か。
無理もない…と思った次第。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする