私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

あるおひとりさまの最期

2009-11-21 | 雑観
その方を、私は直接存じ上げない。

ただ、友人からその方が純正おひとりさまで、お母様を抱えてひとり懸命に生きていらっしゃる方だと聞かされていた。

お母様を故郷からご自身の生活圏に呼び寄せ、そのお世話は施設に委ねて暮らしていらっしゃると。

ところが、ある日突然、その方が亡くなったという報せが届いたのだという。
「ついこの間、元気な姿で話したばかりだったのに…」と、友人はいぶかった。

時間を都合して葬儀に出席してみると、御親族が斎場にいらしたものの、涙にくれる人が見られる訳でもなく、その設えも、まったく飾り気のないもので、淋しい葬儀であったという。

肺炎が死因。
症状が出て一週間もたって病院を受診された時には、既に重篤な状態だったという。
具体的記述を避けるが、現在、社会を騒がせている例の感染症の結果であった。

最期は、病院からの連絡で、しかるべき御親族に託されたのだろう。

しかし、病院という場を経由することがなければ、あるいは幾日も経って…ということもあったのかもしれない。

残されたお母様は、御親族によって、故郷に近い地域の施設に生活の場を移されるという。
その方の存在は、程なく人々の記憶からも消し去られてしまうのだろう。

しかし、私の中では、楔を打ち込まれたようにその方の死が胸に刻まれ、日を経るに従い、ますます鮮明な記憶となって、焦りのような、怒りのような、何とも不可解な感情の芽生えを誘っている。

人生の最期を、誰にも託せない。
唯一、覚悟して背負っている親には、先に逝くとしてもその意は伝えられない。

親族との関係など、敢えて霞のような状態にしてある。
私の最期をそんな関係の彼・彼女らに託さねばならないとしたら…いかにも歯がゆい。

形式だけで送られ、残ったものを分配され、いつの間にか忘れ去られる。
私の場合は多分そんなところだ。

「何としても生き残ってやる」と、余り美しくない想いを基に意を強くするしかなかった。
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