-1月17日-
みなさんは今日、この日が何の日かご存知でしょうか。
大きな被害をもたらした「阪神大震災が起こった日」と答える人がほとんどでしょう。
-1971年1月17日-
この日、生を受けたひとりの世界チャンピオンがいます。
「リチャード・バーンズ」
彼はレディングのロイヤル・バークシャー病院で生まれました。
8歳になると家の近くの野原で、父親の古いトライアンフ2000を運転し始めたそうです。
彼は11歳で17歳以下の自動車クラブに加わり、1984年にドライバーとなりました。
1986年に彼の父親はニュートンの近くにあるジャン・チャーチルズ・ウェルシュ・フォレスト・ラリースクールに彼を入校させました。彼はそこでフォード・エスコートを運転しました。その後は故郷レディングのクラヴェン・モータークラブに加入し、デヴィッド・ウィリアムズの支援を受け、イギリス国内選手権に参戦しました。
1990年にデヴィッド・ウィリアムズからプジョー・205GTIを与えられ、彼はプジョー・チャレンジに参戦。見事シリーズチャンピオンに輝き、グレートブリテン・ラリーでWRCデビューを果たしました。
翌年はイギリス・プジョーのワークスドライバーに抜擢。1992年まで同チームに在籍しました。
1993年に彼はスバル・プロドライブに加わり、ボクスホールを駆るアリスター・マクレーとイギリス国内選手権を争い、史上最年少チャンピオンとなりました。
1996年に三菱に移籍。1998年のサファリ・ラリーで悲願のWRC初優勝を達成。
1999年にはスバルに復帰。2001年ニュージーランド・ラリーでの一勝のみであったが、彼は同年の世界チャンピオンとなりました。
そして2002年はプジョーに移籍。
運命の2003年11月。
彼はグレートブリテン・ラリーに参加のため、マルコ・マルティンとともにカーディフに向かう途中の車内で突然失神。検査の結果脳腫瘍が発見されました。
2004年シーズン、スバルへ復帰する予定となっていたが病気治療のため静養。
実質的な引退となっていたが2005年11月25日にこの脳腫瘍のため死去。享年34。
バーンズ選手が病に倒れることが無ければ、今日この日、35歳の誕生日を迎えるはずでした。明日からは当ブログも通常営業に戻りたいと思います。
リチャード!!あなたは偉大な人でした。どうぞ安らかに・・・
みなさんは今日、この日が何の日かご存知でしょうか。
大きな被害をもたらした「阪神大震災が起こった日」と答える人がほとんどでしょう。
-1971年1月17日-
この日、生を受けたひとりの世界チャンピオンがいます。
「リチャード・バーンズ」
彼はレディングのロイヤル・バークシャー病院で生まれました。
8歳になると家の近くの野原で、父親の古いトライアンフ2000を運転し始めたそうです。
彼は11歳で17歳以下の自動車クラブに加わり、1984年にドライバーとなりました。
1986年に彼の父親はニュートンの近くにあるジャン・チャーチルズ・ウェルシュ・フォレスト・ラリースクールに彼を入校させました。彼はそこでフォード・エスコートを運転しました。その後は故郷レディングのクラヴェン・モータークラブに加入し、デヴィッド・ウィリアムズの支援を受け、イギリス国内選手権に参戦しました。
1990年にデヴィッド・ウィリアムズからプジョー・205GTIを与えられ、彼はプジョー・チャレンジに参戦。見事シリーズチャンピオンに輝き、グレートブリテン・ラリーでWRCデビューを果たしました。
翌年はイギリス・プジョーのワークスドライバーに抜擢。1992年まで同チームに在籍しました。
1993年に彼はスバル・プロドライブに加わり、ボクスホールを駆るアリスター・マクレーとイギリス国内選手権を争い、史上最年少チャンピオンとなりました。
1996年に三菱に移籍。1998年のサファリ・ラリーで悲願のWRC初優勝を達成。
1999年にはスバルに復帰。2001年ニュージーランド・ラリーでの一勝のみであったが、彼は同年の世界チャンピオンとなりました。
そして2002年はプジョーに移籍。
運命の2003年11月。
彼はグレートブリテン・ラリーに参加のため、マルコ・マルティンとともにカーディフに向かう途中の車内で突然失神。検査の結果脳腫瘍が発見されました。
2004年シーズン、スバルへ復帰する予定となっていたが病気治療のため静養。
実質的な引退となっていたが2005年11月25日にこの脳腫瘍のため死去。享年34。
バーンズ選手が病に倒れることが無ければ、今日この日、35歳の誕生日を迎えるはずでした。明日からは当ブログも通常営業に戻りたいと思います。
リチャード!!あなたは偉大な人でした。どうぞ安らかに・・・