2月20日に・・・ <みんな苦労しているのである。自分一人苦労しているのではない>
心から 日々への感謝 深めたり
【冠 句】 ふと怯む 自我を匿した厚化粧
【冠 句】 雪が舞う 虚しく迷う対抗心
[川 柳] 真っ白な雪に我欲を洗われる
【冠 句】 繰り返す 難病めげぬ友の笑み
「俳 句」 冴え返る稽古の気合入る竹刀
【冠 句】 音ばかり 無心になればいいのかも
『短 歌』 わが息子頼もしく感じこのごろは孫に合わせて「お父さん」と呼ぶ
日々の暮らしの中にある色々な葛藤に、自分の気持ちを上手くコントロール出来ない時が
あります。 色々な事に伴う嫉妬心から、自分自身が一番嫌う仮面をつけては何時までも
悔いを引き、歯がゆく虚しく思いながらも、何度か同じことを繰り返しています。
そうした日に、真っ白に積もった朝の雪を見ると、素直な心が戻ってきて、、、小さなことに
拘った気持ちがす~と消えていき、争いの修復も出来るように思います。
何度も繰り返す病にめげず、いつも笑顔を忘れず前向きに生きているコーラスの友人から
”生きる姿勢” を一杯教えられています。
中々上達しない趣味のギターにも、厚い壁にも決して諦めず、努力!努力!の練習をして
います。 年を積む毎に奥深い難しさを感じる創句にも、無心になって何度も原点に戻って
視野を広げ、新たな感性を磨き、日々勤しんでいます。
こうして趣味を楽しめる事に、いつも家族への感謝の気持ちを忘れてはいけないと、
安住の地にいる今日の幸せを、、、今しみじみと心から、、、深く感じています。
主人と二人の時の会話にも、つい「おじいさん」と呼びかけ苦笑していますが、すくすく育つ
孫達をいつも見守って、暖かい家庭を築いている息子とお嫁さんにも感謝の気持ちを忘れ
ず、いい日々を過ごしていきたいと思っています。
人を心で縛るのである。むしろ人に縛られている方が楽なり (2月12日に・・・)
今日もお立ち寄りいただきありがとうございました。
私の場合、山そして今はスキーが楽しいのですが、ポエムさんの純白の雪を見てと同じように綺麗な風景に接して自然と教えられているとしたら嬉しいですね。
「ふと怯む 自我を匿した厚化粧」 昨日結婚30何年なのかなー、記念日で食事に出かけました。ジーパンではあかんと云うのでちょっとおめかしして。でも妻は出発までに相当時間がかかります。なんかの前で・・・。 「わが息子頼もしく感じこのごろは孫に合わせて「お父さん」と呼ぶ」私の場合孫がまだパパと呼んでいるので「パパ」です。お互いありがたいですね。「繰り返す 難病めげぬ友の笑み」、すごいですね、そうありたいとしみじみ感じ入りました。Kenny
未だにつまらぬ意地を張って夫婦喧嘩を(~_~)
今回は実話の冠句です(笑)
私の周りには前向きな友人が沢山います。人生の先輩でもあり生きる手本にしたい人ばかり、人との縁を大事にしたいと何時も思います。
明日はギター、よろしくお願いします♪
訂正コメントまで頂き有難うございます。
Kennyさんの誠実なお人柄が、文字の中から一杯覗えました。
大雪に日々の生活にも悩まされている地方の人には申し訳ないのですがめったに雪の降らない地に住んでいると一夜にして一面の雪景色は心が洗われる気持ちになります。
今回の句、どの句も好きですが中でも私は
・雪が舞う 虚しく迷う対抗心
・ふと怯む 自我を匿した厚化粧
が好きですね。
私は日頃次の句(川柳)を思いながら生きていますよ。
・幸せになるのは簡単笑うだけ
・身の丈で生きて愚かで敵がない
毎日雪がチラチラ舞い降る日が続き、寒さが堪えます。早く春の声が聞きたいですね。
川柳は、17文字からさらに奥に潜む気持ちがす~と読み取れる句に納得し拝見しました。
私もこういった一句が読めればと思いますが、又冠句とは違う難しさがありますね。
笑顔を忘れず、等身大で生きれば幸せ!そう思います。コメントを有難うございました。
今日はギター発表会前の練習で、AM/PM共かなり力を入れて疲れましたが、楽しいです♪
音ばかり 無心になればいいのかも
の二句の共通するところの「己」への思いに惹かれますね。
どうしようもない「我」、自我の存在、それへの気づき、しかし・・・
心のコントロールって、ほんとにむずかしい。
室内クライミングで壁を登っていて、いつも感じます。
無心になれる瞬間があるときは、体もスムーズに動いて比較的うまく登れている。
だけど、人を気にしたり、こうすれば、ああすれば・・・などと考えていると、素直に体が動いてくれない。
壁に対して素直になれず、「我」が動いているのでしょう・・・・
『真理のことば(ダンマパダ)』の160項がいつも心にありますが、そうならない自分が右往左往しています。いつもいつも。
中村元氏は、
自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
と訳されています。
私は、友松圓諦氏の『発句経』での訳しかたに惹かれています。
おのれこそ
おのれのよるべ
おのれを措きて
誰によるべぞ
よくととのえし
おのれにこそ
まことえがたき
よるべをぞ獲ん
人との関わりの中で、自我が出る。
自我が表に出る、或いは、マスクの下に隠している時は、自己がととのえられていないんですよね・・・・観念的に分かっていても・・・今、ここに、そうできない自分が右往左往している!
句会でも同じ事を感じますが、成績を狙った変に衒った作品は、やはり自分の心から逃げています。無心になれば、、、いつもそう思います。
まだまだ自分の気持ちをコントロールできなくて、嫌いな自分で生きている日が多いです。
コメント有難うございました。