静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【書評129】補遺    エセ- ≪Essais≫ (随想録)    ミシェル・モンテーニュ   < 第1,4巻(関根 秀雄 訳) 7巻(宮下 志朗 訳) >   白水社 版

2021-03-02 20:28:29 | 書評
◆ 第13章 <経験について>
・ モンテーニュが13章の前半で云いたかったのは、理知/理性を振りかざす振る舞いの秘める過ちや愚かさであり、それは自身が奉職した法曹の世界での経験から来ている。
  裁判における判例万能主義、法律用語の実社会との乖離などを鋭く批判し、様々な例を引きながら、地に足の着いた経験則が告げる重みを繰り返し強調している。

 ⇒ ギリシャ・ローマに始まる精神、即ち「理(ことわり)」を「言葉」で究め、曲直を明らかにしようと努める、其の究極にあるのが<裁判>であろう。社会は変化し、「罪」もまた変化する。
   然し、現実が変化するスピードに法体系の修正・対応は常に追い付かず、ギャップに苦しむのは争いの当事者だけではない。法を司る職務に奉じる人間もギャップに苦しむのは同じ。
    形式に縛られない自由な発想と生き方を信条としてきたモンテーニュのような人間に、其の煩悶は人一倍辛かっただろう。 懐疑と並行し、『人生の試み』を振り返る言葉の最後に
  「経験の告げるものの重さ」を持ってきた背景は此の煩悶ではないか? 時を経ても生き残ってきた格言や箴言が何気なく仄めかす「経験の語る叡智」への信頼を、ここでも彼は繰り返している。

 ⇒ ルネサンスのあと、ヨーロッパは(宗教改革と混乱、ペストの流行、ローマ法皇庁の弱体化、植民地主義の勃興)等がない混ぜになった変革期を迎えたが、モンテーニュが<エセー>で呟いた
   自由闊達な思索と懐疑精神は、フランスのみならず、周辺諸国の科学者・思想家や政治家に影響を及ぼし、近代欧州発展の原動力になった、私はそう思えてならない。

* 後半では無意味な長生きや延命を願う暮らし方の虚しさも大いに嗤っている。自然体での「生老病死」こそが最良との想いから、哲学も同様に人生に即したものであれ、と。
  人生に即したものであれ、とは千万言の哲学言辞ではなく「人生の経験則」に耳を傾けよという事だろう。 それを次の文で明快に述べている。
    『哲学的な探求や思索は、我々の知的好奇心の足しになるだけだ。哲学者達は我々を自然の法則に送り返すけれど、これも当然の話だ。だが、自然の法則の方は、哲学のような崇高な認識など
     必要としない。 ところが哲学者達ときたら、其の法則を変造して、その顔つきを実に色鮮やかな歪んだものとて描いて見せる』
   (P262)

 人間、老いれば、地球のどこに住もうが(生命の有限であること)や(何事も同じ姿のまま変わらぬものはないとの無常観)を抱くのは洋の東西を問わないのか。
モンテーニュが何処までインド/中国の思想に触れていたかは不明だが、<God>抜きに「生老病死の普遍性」「来世の否定」をハッキリと言葉で正面から語りかけた。 当時、それは衝撃だったのでは?

 ここまで明解な人はモンテーニュの前に居たのだろうか?  他方、彼の言葉がキリスト教の頸木を壊し<God>が求める排他性から人間を解き放つまでには至らなかったのも事実。
 デカルト、パスカル、ラ・ロシュフーコー、そしてレヴィ・ストロースに至る思想家が幾度も引用したモンテーニュの言葉。 その価値は400年後の今も輝きを失わない。    < 了 >
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