去る2月24日はキーン氏の二周忌だったので、コメントかたがた私は冥福を祈った。その最後で私は次のように書いた。
<氏がどうして能狂言や文楽・浄瑠璃の世界を最も好むに至ったのか? それは生涯独身で通した氏が浄瑠璃三味線の奏者である上原誠己氏を養子にした事でも明らかだが、
例えキーン財団維持の便法にせよ、私にはまだまだ分からない事が多い人だ。氏を偲び「ドナルド・キーン自伝」を図書館から借りだすべく手配した。>
手配した自伝を読み、ほんとうに惜しい人を我々は失ったな・・との寂寥感はますます強まった。
◆ 90歳を超えて亡くなった人物ゆえ、自伝の全貌を流しても焦点がボケる。 私の関心は、何故、同氏は日本/日本語/日本文化/日本人にここまで入れ揚げることになったのか?
幕末期から日本文化に興味を抱き、部分的に紹介した西洋人は少なくないが、その殆どは軍事・医学・科学技術など専門スキルの範囲内であり、然も滞在期間や接触した対象人物も
限られていたし、著述は断片的になった。 だがキーン氏は<読み・書き・話す>基本能力で日本語をマスターするに留まらず、日本文学研究から研究発表活動までをイギリスと
アメリカ&日本で行った点で、先達とは土俵が違う。 戦後、日本で当時の著名な作家たちと交流を重ねられたのも、氏の卓越した日本語能力に加え、日本への「愛」ともいうべき
気持ちがなければ受け入れられなかったと思う。
* 多感ながらも冷静な自己観察ができる、然し、背が低くひ弱で運動神経も良くないことで虐められた少年時代。 野球も人並みに出来ず劣等感に苛まれたと自伝で語る。
同氏は何故か、外国・外国語・外国文化への憧れの強い男の子であった。 どうやら漢字の不思議さに惹かれたのが東洋への茫漠とした関心を持ち続けた原因だったようだ。
記憶力の良さと鋭い観察眼に助けられ成績抜群。「飛び級」制度のお陰で16歳でコロンビア大学へ。 そこで角田柳作という師に恵まれ日本文学への関心が開花した。
然し、在学中に始まったのが日本との戦争。自分が銃剣突撃する姿など想像できない氏は、戦闘要員にはなりたくない一心から「海軍日本語学校」に進む。アッツ島での日本兵捕虜尋問で、
氏は日本兵が外地では許されていた日記の翻訳を最初の任務として行う。そこには検閲を憚らずに済む外地勤務ゆえの赤裸々な日本語が溢れ、此の体験が『百代の過客』と題して
後にまとめられた。 ≪日記文学≫と称されるジャンルは世界でも多くはないが、キーン氏はそこに日本人/日本文学の特性を捉えたのだろう。
* 戦後、ハーヴァード(1年)、ケンブリッジ(5年)で研究生活を送る。ケンブリッジに研究留学しようと決めた理由が<=GI Bill の期限切れ>だったからを読み、私はアメリカに赴任した際、
ローカル採用の人事Mgr.がヴェトナム戦争従軍者ゆえ<GI Bill> のお陰で大卒になれたと嬉しそうに語っていたのを思い出した。 嗚呼、大日本帝国にこのような発想/余力は無かった!
日本同様、空襲の痛手を被ったイギリスの窮状は想像以上で、学生寮食堂の副菜がほぼ毎日<ニシン or 鯨肉>料理ばかりだったとの記述が微笑ましい。
ケンブリッジでキーン氏は自分が日本文学に興味を抱くに至る源であった『源氏物語』英訳者・Arthur David Waley と交わり、日本へのもだし難い想いが募る。
それは「何とか奨学金を得て、日本へ行きたい!」との想いに。 < つづく >
<氏がどうして能狂言や文楽・浄瑠璃の世界を最も好むに至ったのか? それは生涯独身で通した氏が浄瑠璃三味線の奏者である上原誠己氏を養子にした事でも明らかだが、
例えキーン財団維持の便法にせよ、私にはまだまだ分からない事が多い人だ。氏を偲び「ドナルド・キーン自伝」を図書館から借りだすべく手配した。>
手配した自伝を読み、ほんとうに惜しい人を我々は失ったな・・との寂寥感はますます強まった。
◆ 90歳を超えて亡くなった人物ゆえ、自伝の全貌を流しても焦点がボケる。 私の関心は、何故、同氏は日本/日本語/日本文化/日本人にここまで入れ揚げることになったのか?
幕末期から日本文化に興味を抱き、部分的に紹介した西洋人は少なくないが、その殆どは軍事・医学・科学技術など専門スキルの範囲内であり、然も滞在期間や接触した対象人物も
限られていたし、著述は断片的になった。 だがキーン氏は<読み・書き・話す>基本能力で日本語をマスターするに留まらず、日本文学研究から研究発表活動までをイギリスと
アメリカ&日本で行った点で、先達とは土俵が違う。 戦後、日本で当時の著名な作家たちと交流を重ねられたのも、氏の卓越した日本語能力に加え、日本への「愛」ともいうべき
気持ちがなければ受け入れられなかったと思う。
* 多感ながらも冷静な自己観察ができる、然し、背が低くひ弱で運動神経も良くないことで虐められた少年時代。 野球も人並みに出来ず劣等感に苛まれたと自伝で語る。
同氏は何故か、外国・外国語・外国文化への憧れの強い男の子であった。 どうやら漢字の不思議さに惹かれたのが東洋への茫漠とした関心を持ち続けた原因だったようだ。
記憶力の良さと鋭い観察眼に助けられ成績抜群。「飛び級」制度のお陰で16歳でコロンビア大学へ。 そこで角田柳作という師に恵まれ日本文学への関心が開花した。
然し、在学中に始まったのが日本との戦争。自分が銃剣突撃する姿など想像できない氏は、戦闘要員にはなりたくない一心から「海軍日本語学校」に進む。アッツ島での日本兵捕虜尋問で、
氏は日本兵が外地では許されていた日記の翻訳を最初の任務として行う。そこには検閲を憚らずに済む外地勤務ゆえの赤裸々な日本語が溢れ、此の体験が『百代の過客』と題して
後にまとめられた。 ≪日記文学≫と称されるジャンルは世界でも多くはないが、キーン氏はそこに日本人/日本文学の特性を捉えたのだろう。
* 戦後、ハーヴァード(1年)、ケンブリッジ(5年)で研究生活を送る。ケンブリッジに研究留学しようと決めた理由が<=GI Bill の期限切れ>だったからを読み、私はアメリカに赴任した際、
ローカル採用の人事Mgr.がヴェトナム戦争従軍者ゆえ<GI Bill> のお陰で大卒になれたと嬉しそうに語っていたのを思い出した。 嗚呼、大日本帝国にこのような発想/余力は無かった!
日本同様、空襲の痛手を被ったイギリスの窮状は想像以上で、学生寮食堂の副菜がほぼ毎日<ニシン or 鯨肉>料理ばかりだったとの記述が微笑ましい。
ケンブリッジでキーン氏は自分が日本文学に興味を抱くに至る源であった『源氏物語』英訳者・Arthur David Waley と交わり、日本へのもだし難い想いが募る。
それは「何とか奨学金を得て、日本へ行きたい!」との想いに。 < つづく >