徳島出身の三木武夫。どのような政治家だったのでしょうか。
まず注目すべきは「誰の側近にもならずに権謀術策だけで総理大臣になった唯一の人物」であることです。
戦後政治史で常に重要人物であり続けました。30才まで留学を含めて学生をやって、昭和12年に代議士になり死ぬまで50年間、常に永田町政治に関わっていました。
他の職業をやったことがりません。ただし常にエスタブリッシュメントの周辺にいるのです。けっして中には入りません。
中に入ろうとした田中角栄が排除されるのを横目で見ながら、ぴたりとくっついていきます。エスタブリッシュメントを徹底的に攻撃しながら土壇場で手を組むのです。
希代の政争家で、瞬時に先を読めてしまうのです。周りから見ていると超能力者のように動くことができます。
なぜ三木さんにクリーンのイメージが付いたのでしょうか。これは「小説吉田学校」の責任が重いと思われます。
角川文庫版で吉田茂から鈴木善幸まで全8巻の内、全巻に出てくるのは唯一三木さんです。
作者の戸川猪佐武は田中角栄のゲッペルスと呼ばれ、角栄というピカレスクヒーロー、ダーティーヒーローを描くために、
対象として陰謀が苦手で金にクリーンなイメージで三木さんを描きました。自民党元首相が亡くなった場合、野党第一党の党首が追悼演説をやる慣例がありました。
三木さんの場合、土井たか子がそれを行いました。
「高校時代に野球部のマネージャーとしてお金を稼ぐためにバザーを行ったところ、学校側がそれを取り上げてしまいました。
三木さんは報復として学校側の不正経理を追求したら放校処分となったそうです。クリーン三木の真骨頂ですね」
実は三木武夫は若い頃、駐米大使の斉藤博の遺体が船で送られてくるときの記録映画を撮って儲けたり、
学生時代明治大学雄弁部で海水浴に行った時、遊ぶ金ほしさにテントを張って雄弁大会を行いお金を稼いだり、意外とお金に関してやりくり上手だったのです。
今だったらベンチャーの社長になったような人物です。
代議士になる前後の口癖が「どこかに金持ちの娘いませんかねえ」。そして結婚したのが森コンツェルンのご令嬢17才年下の睦子さんです。
早稲田雄弁会の石田博英(当時三木さんの参謀)が「学生服で選挙活動は馬鹿にされる」と言うんで、フロックコートをお父さんから借りて自転車で徳島県を回って
「市議会議員の選挙のようなことをやって当選した」と語られています。でもそんなやり方を真に受けて戦ったら絶対落選するでしょう。
民政党の公認がとれなくて、地元の県議市議の支援を受けてやっているだけのことでなのです。
三木さんは戦前の事なんて誰も知らないだろうと、「今、代議士やっている石田君が学生服じゃ恥ずかしいって言うんで…」と語ります。
当時「神風候補」と言われました。林内閣が潰れ近衛内閣になる時、最年少議員の三木さんが国会に登壇した時、出迎えたのが憲政の神様、最年長議員の尾崎行雄です。
この最年長、最年少二人の2ショットを写真に撮ってマスコミに売り込むのです。たいへんしたたかな30才であったのです。
当選祈願には明治神宮と靖国神社に出かけ玉串を捧げ、その中身は「一生不正をなさず一生不全に与せず」です。全く中身がないのにクリーンイメージ戦略でした。
30才でいきなり代議士になるのですからたくましさが無いわけありません。
こういったパフォーマンスだけを真似する代議士は多いですが三木さんのすごいところは、どこに権力があるのかの嗅覚がずば抜けていました。
民政党系の支援を受けても民政党には入りません。そこに権力がないからです。
近衛内閣の時、近衛の側近と陸軍の力が強まっています。
民政党は凋落傾向にあると読んで無所属という立場で、政界がどうなろうが動けるように自分のポジションを当選一回目にして確保していきます。
党に入った方が適当な地位に就けるのでしょうが、そこに権力がないとなったら距離を保つのです。
☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
獣医師不在の場合の営業内容はスタッフにお問い合わせください。
~2月の予定~
2月22日(金)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
2月23日(土)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
不在が多くてご迷惑おかけします。
まず注目すべきは「誰の側近にもならずに権謀術策だけで総理大臣になった唯一の人物」であることです。
戦後政治史で常に重要人物であり続けました。30才まで留学を含めて学生をやって、昭和12年に代議士になり死ぬまで50年間、常に永田町政治に関わっていました。
他の職業をやったことがりません。ただし常にエスタブリッシュメントの周辺にいるのです。けっして中には入りません。
中に入ろうとした田中角栄が排除されるのを横目で見ながら、ぴたりとくっついていきます。エスタブリッシュメントを徹底的に攻撃しながら土壇場で手を組むのです。
希代の政争家で、瞬時に先を読めてしまうのです。周りから見ていると超能力者のように動くことができます。
なぜ三木さんにクリーンのイメージが付いたのでしょうか。これは「小説吉田学校」の責任が重いと思われます。
角川文庫版で吉田茂から鈴木善幸まで全8巻の内、全巻に出てくるのは唯一三木さんです。
作者の戸川猪佐武は田中角栄のゲッペルスと呼ばれ、角栄というピカレスクヒーロー、ダーティーヒーローを描くために、
対象として陰謀が苦手で金にクリーンなイメージで三木さんを描きました。自民党元首相が亡くなった場合、野党第一党の党首が追悼演説をやる慣例がありました。
三木さんの場合、土井たか子がそれを行いました。
「高校時代に野球部のマネージャーとしてお金を稼ぐためにバザーを行ったところ、学校側がそれを取り上げてしまいました。
三木さんは報復として学校側の不正経理を追求したら放校処分となったそうです。クリーン三木の真骨頂ですね」
実は三木武夫は若い頃、駐米大使の斉藤博の遺体が船で送られてくるときの記録映画を撮って儲けたり、
学生時代明治大学雄弁部で海水浴に行った時、遊ぶ金ほしさにテントを張って雄弁大会を行いお金を稼いだり、意外とお金に関してやりくり上手だったのです。
今だったらベンチャーの社長になったような人物です。
代議士になる前後の口癖が「どこかに金持ちの娘いませんかねえ」。そして結婚したのが森コンツェルンのご令嬢17才年下の睦子さんです。
早稲田雄弁会の石田博英(当時三木さんの参謀)が「学生服で選挙活動は馬鹿にされる」と言うんで、フロックコートをお父さんから借りて自転車で徳島県を回って
「市議会議員の選挙のようなことをやって当選した」と語られています。でもそんなやり方を真に受けて戦ったら絶対落選するでしょう。
民政党の公認がとれなくて、地元の県議市議の支援を受けてやっているだけのことでなのです。
三木さんは戦前の事なんて誰も知らないだろうと、「今、代議士やっている石田君が学生服じゃ恥ずかしいって言うんで…」と語ります。
当時「神風候補」と言われました。林内閣が潰れ近衛内閣になる時、最年少議員の三木さんが国会に登壇した時、出迎えたのが憲政の神様、最年長議員の尾崎行雄です。
この最年長、最年少二人の2ショットを写真に撮ってマスコミに売り込むのです。たいへんしたたかな30才であったのです。
当選祈願には明治神宮と靖国神社に出かけ玉串を捧げ、その中身は「一生不正をなさず一生不全に与せず」です。全く中身がないのにクリーンイメージ戦略でした。
30才でいきなり代議士になるのですからたくましさが無いわけありません。
こういったパフォーマンスだけを真似する代議士は多いですが三木さんのすごいところは、どこに権力があるのかの嗅覚がずば抜けていました。
民政党系の支援を受けても民政党には入りません。そこに権力がないからです。
近衛内閣の時、近衛の側近と陸軍の力が強まっています。
民政党は凋落傾向にあると読んで無所属という立場で、政界がどうなろうが動けるように自分のポジションを当選一回目にして確保していきます。
党に入った方が適当な地位に就けるのでしょうが、そこに権力がないとなったら距離を保つのです。
☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
獣医師不在の場合の営業内容はスタッフにお問い合わせください。
~2月の予定~
2月22日(金)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
2月23日(土)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
不在が多くてご迷惑おかけします。