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三木武夫に学ぶ政治の定石Ⅳ

2013年02月15日 | 歴史
小が大をふり回す方法

 当選2回目、昭和17年に有名な大政翼賛会を東条内閣が作ります。
ほとんど全ての議員をそこに入れ推薦候補としてお金も出す、組織も応援します。内務省が組織立って警察を上げて応援します。一方非推薦候補は徹底弾圧します。
翼賛政治といえば恐怖政治の代名詞です。これは間違いではありません。
この時三木さんは当選1回目の代議士です。非推薦で戦ったので戦後公職追放をされませんでした。三木さんは「東条軍閥政治と戦った」と常に言います。
戦後いきなり当選2回でのし上がっていきました。苦しい選挙を勝ち残ると道が開けるという究極の例でしょう。
この時、明治雄弁会の先輩大野伴睦さんは落選しています。鳩山一郎、芦田均など後に首相になるような人は非推薦でも当選しています。
そんな人は460人中20人ほどです。圧倒的多数は推薦候補です。なぜ三木さんが推薦されなかったのでしょう。
特にリベラル思考の持ち主だったわけでは全然ありません。もっと当選しそうな人を立てようというのが内務省の判断だっただけです。
三木さんは「何で俺みたいな愛国政治家を推薦しないんだ」と怒って、軍需省などにすり寄ってみます。
三木さんは森財閥の利益代表なので権力のあるところには族議員のようにすり寄ります。翼賛会は三木という姓の候補を他に2名立てます。
徳島選挙区には3名の三木が立候補することになるのです。結果、三木武夫ともう一人の三木さんが当選し、戦後も徳島の県政を巡って2人で争うことになります。
とにかく苦しい選挙を内務省と戦いながら勝ち抜きました。
単に弾圧と戦っただけでは無く、あの手この手を使って内務省に働きかけて、
「うちの選挙参謀が取り調べが苦しくて死んでしまったんだけどどうしてくれる!」など、表では権力と戦います。
人の見えないところでは厳しい状況を逆手にとって手を回します。
金子堅太郎という枢密院の大物と、若手代議士のころから「日米戦うべからず論」で一致してかわいがられたりもしています。
また、翼賛選挙の時右翼の超大物、頭山満の支援を得ていたりもしています。
「頭山翁が支援している俺がなんで非愛国なんだ」といいながら「この戦争は間違っている」。
ただし、監視が厳しいと手を緩めます。絶妙な臭覚、場の空気を読んでどこまで行けるのか、どこから手を引くのかの勝負感です。
この嗅覚こそがバルカン政治家の原型なのです。それは戦いの中で培われた物でありましょう。
当選後は議会の中で派手に戦うわけではなく、付かず離れず距離を保ちます。
戦時中は昭和20年になって「岸信介新党」という意味不明な企みをやります。「ヤツは何をやっているんだ」というのが岸さんの三木不信の原点となります。
岸さんは東条内閣の首切り役人を買って出たような人です。その岸さんを担いで岸新党を作ろうというのです。
しかし、今となっては戦時中のことを正確に知っている人は少なくなりました。資料もろくに残っていません。
みんな後ろめたいことがあるため語りたがらないのも致し方ありません。そういった中で昭和17年の翼賛選挙が行われます。
三木さんは非推薦で、内務省特高警察の弾圧をかいくぐりながら、三木さんの選挙参謀が過労死するほどの状況でも立ち上がりました。
「東条軍閥政治と私以上に戦った人がいますか!」とアピールすれば戦後は鬼に金棒です。ここにピンチを将来の武器に変える強さを見ます。
小泉選挙でも苦しい選挙を乗り越えた人は強いのです。全ての政党が戦時中解散していたものが、戦後雨後の竹の子のように復活します。共産党まで合法化されます。
この時代の政党は院内会派といえるようなもので、5人の選挙区に20人も立候補するような一発逆転成り上がりを狙っている人が跋扈する時代です。
政党作って「誰が党首になるの?」、「う~んじゃあ政党資金先に作った方が党首ね」といった具合です。戦後最初の選挙で三木武夫は当選3回目になります。
吉田茂内閣から片山哲に代わる昭和22年春、三木さんは国民協同党28人の代表となります。
この党からして国民党と協同党の合併政党です。
三木さんは戦後2年で、たった一人の無所属議員から合併を繰り返しながら14人から28人に選挙で倍増する政党の党首です。
片山社会党、芦田民主、三木国民協同の3党連立内閣を作ります。これが三木派の原型となります。
この時に三晃汽船の河本さん(国民協同党のスポンサーにして番頭筆頭格)も入閣します。
社会党書記長の西尾末広(非常に良識的な社会主義者で、後に民社党を作る)が選挙の結果が出た直後に
「大変だ三木君、我が党が第一党になっちゃったよ。政権の準備なんてできてないのに吉田君を抜いてしまったどうしよう」。
三木さんは「大丈夫です私が付いてますから」。当選3回齢40才の時です。3党連立の党首とはいえ、政治歴がたかだか10年です。
内閣最前列にはまだ並べません。ことある毎に片山芦田に3党首会合を申し入れ、総理大臣格の人と対等であるかのようなイメージを振りまきます。
中曽根さん、田中角栄も昭和22年に登場しますがまだまだ1年生議員です。三木さんはたった28人で400人を振り回していきます。
もし大政党の中で下層にいたら所詮当選3回です。小なりと言えども党首です。しかも3党なので重みも大きいのです。片山内閣で逓信大臣、後の郵政大臣に就任します。
しかし所詮はっきりいって素人政権です。常に内紛が絶えず片山内閣は8ヶ月で退陣となります。
吉田茂、野党第一党自由党党首は「憲政の常道に従って我が党に政権を返せ、そして総選挙でもう一回勝負しよう」とアピールします。
当時吉田さんを嫌っていたはGHQ主流派のケージス(親ソ連派)は芦田均に政権を回します。この時代の政争はとことん相手を抹殺するまで行われます。
芦田均昭電疑惑が発生します。芦田さんは失脚逮捕されます。
昭電工は三木さんのスポンサーでしたがそれを乗っ取った人達が起こした疑獄事件なので三木さんは「私は被害者です」とクリーンな立場を強調します。
若くて清潔でクリーンを維持します。福田赳夫さんは主計局長でこの事件により逮捕されました。
三木さん当選3回で周りがどんどん逮捕されていくような渦中にいます。
この後、三木さんは、近衛文麿、伊藤博文を抜いて史上最年少の総理になるチャンスがあったのです。
昭和23年、結果的には野党の吉田茂に政権は移りました。「小説吉田学校」では1年生議員の田中角栄大活躍というフィクションが始まります。
重要なのは、ここで三木武夫が「うん」といっていれば史上最年少の総理が誕生したという事実です。
マッカーサーが2回も三木さんを呼び出して、「今の連立与党の枠組みで帝国憲法で違憲ではないのだから28人の党首とはいえ、おまえがやれ」
「数の力なんて俺が何とかしてやる」。
当時マッカーサーに逆らったらよくて社会的抹殺、公職追放です。
石橋湛山はマックの意に沿わない経済政策のおかげで、あれほどの自由主義信仰者が軍国主義のレッテル貼られ公職追放されました。
最近明らかになっているキャノン機関などの暗殺事件も多発と言う時代です。神より偉いマッカーサーです。
ところが齢41才の三木さん「アメリカにデモクラシーがあるなら日本には憲政の常道がある」
「他人が命令して総理大臣やれと数の力を無理矢理権力で作って内閣を組織する伝統は我が国にはない!」と断ったのです。三木さん命がけの大勝負です。
三木さんのような正真正銘の権力亡者でさえも、「戦争に勝ったくらいで日本人に物を教えてやるなど偉そうなことぬかすな!」と喝破したのです。
これが大正リベラリズムの成果です。正に憲政の常道であります。あえて茨の道を歩むのです。
田中角栄の側近、田村元さん(田中さんのピンチを救って政治生命を10年伸ばした男)は語っています。
「三木さんは常に我々の敵だった。しかし彼は常に茨の道を歩んだ」。敵であっても認めていたのです。三木さんは野党になるのを怖がらなかったのです。
その後、田村さんは同様な状況で総理になった三木さんの一番弟子の海部さんを、「天ぷらの匂いにつられる人だ」とも語っています。
三木さんは野党、反主流派になることを恐れません。その後本当に総理になれたのは昭和49年のことです。
26年間常に少数派で、大政党、大派閥相手に切った張ったを繰り返していきます。
そんな三木さん相手に大蔵出身の福田さんや大平さんがかなうわけがありません。田中さんはそれが解っているので真正面から戦おうとしませんでした。
三木さんは「マックの言いなりに総理になったって自分の人生はそこで終わりだ」と考えたのです。
海部さんは総理辞めた後はみっともない人生になってしまいました。権力を長く握るにはあえてこの道を選んだのです。とにかくたくましい男です。
その後吉田茂に政権が移ります。7年それが続きます。その間、三木さんは徹底して反吉田を貫きます。
吉田さんは官僚主義、貴族主義、大臣病患者を大量発生させ、顔も名前も知らないような人を大臣にして責任取りません。
吉田さんは小泉さんどころではない丸投げでした。
小泉さんは閣僚の顔と名前は一致していましたが、吉田さんは自分が任命した大臣に面と向かって「誰だおまえ」とつぶやきます。
政策に興味すらありませんでした。戦前は政党の大幹部クラス、あるいは官僚で事務次官になってその中で優秀な人が大臣になりました。
それを当選回数重ねれば大臣というシステムを作ったのが吉田さんです。政策は官僚に丸投げです。政治家は大臣のポストで飼い慣らしておきます。
いざとなったら解散総選挙に持ち込んで教育し直せば良いと考えます。
まだ当選回数の少ない有力官僚OBである池田勇人、佐藤栄作を登用したというイメージがありますが、それは吉田さんの例外的な行為です。
時々1年生を幹事長に任命しようとしますがこれは吉田さんの趣味なのです。あいつ好きというレベルです。
また吉田さんは大変おおざっぱな人で、今自分の関心のあるところだけに口を出します。大蔵大臣池田さん、大蔵大臣だけは動かしたくありません。
外務大臣は自分が兼任したい。こういう所は非常に関心があります。その時、幹事長には全く興味があありませんので、「そっちで決めて」。
それは吉田さんの権力維持には良かったと思いますが、今の政党政治の腐敗に繋がってしまいました。

☆お知らせ
営業日の午後12時~午後4時は、手術、治療業務のため留守番電話にしている場合があります。
獣医師不在の場合の営業内容はスタッフにお問い合わせください。
~2月の予定~
2月22日(金)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
2月23日(土)学会出席のため獣医師不在です。スタッフは通常通りです。
不在が多くてご迷惑おかけします。





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