狩人の道東放浪記 Ⅱ

定年後道東に移住しました。
しかし2年後、都合により帰郷しました。徳不孤必有隣の旗印は同じです。

蒸気機関車の焚火給油

2013年02月14日 | 内地の紹介
蒸気機関車のブログを拝見していたが、嘘と想像若しくは鵜呑みがあまりにも多いので驚いた。そうであろう、実際に乗務していた職員は70歳前後である。ブログなんて用はない。
今回は的を絞り「焚火給油」のみを書いてみた。他のブログでは「焚火給油」の言葉がない。蒸気機関車の缶焚きの方法である。機関助士の最大の仕事だ。学園で「焚火給油」の授業を半年間みっちりと教えられる。理論と実技である。卒業すると機関区に帰り仕込まれる。各機関区には模型の運転室がありここで投炭訓練をする。焚口にショベルをぶっつけて手は血だらけである。何トンかは忘れたが片手で投げ入れる。ワンスコである。写真はその様子だ。
もっと足を踏ん張り、腰を落とすべきだが本人はわからない。走行中であれば運転室へばら撒いて缶の中へ石炭は入らない。投炭順序は決まっている。基本は10の場所である。左端の手前が1で、右が2だ。3は左奥、4が右奥、5が左手前少し中心(投炭口)そして右。7が左横、8は右横、9と10は奥の中心である。
石炭は負圧で奥に持っていかれるので、手前にしっかり叩き付ける。。ショベルは投げいける瞬間に裏返す。こうしないと火床に届かず、アーチ管の上へ吸い込まれる。
実乗務となると運転室は非情に揺れる。腰でバランスを取るが初めは立っているだけで精一杯、仕事にならない。見習いの初期では言われたら石炭を投げ入れる。「やめ」と言われるまで投げ続ける。信号確認は関係ない、少し慣れてきてからだ。運転室内へばら撒いていた石炭が少なくなり、信号も確認できるようになると半人前だ。その頃には眉毛や手の毛は焼けてひどいものだ。石炭の燃えきりそうな所へ投炭する。肉眼で燃え盛る火を見るが、ショベルで少し炎を隠すと見やすい。だがこれも、慣れれば見なくても解かる。それよりもクリンカを作らないように注意しなければならない。不完全燃焼の石炭が結合して塊になる。すると火力が落ちる。これはポカ(長い鉄棒)で一番奥の落とし火格子より落とす。手早くやらなければポカが溶けてくる。
乗り継ぎ前には走行中に「缶換え」をする。石炭の灰を落とすのだ。火格子を揺すり機関車下の灰箱に落とす。そのままでは赤熱するから水を流し入れる。熱気と蒸気、煙でひどいものだ。停車すると灰箱を開け、線路へドカッっと落とした。だがきちっと火床整理してないと、次の機関助士に叱られる。先輩だと乗ってこない。

通票の授受をさせてもらう。通過列車は怖い。右手で手すりを掴み左手でデンデンムシに掛ける。失敗し通票を紛失、破損すれば責任事故なので必死である。腕で通票を受け取る。失敗すると腕に青痣ができる。恥ずかしいから報告しない。駅がカーブしているとなかなか見えず、瞬間で渡す。雪が吹き付ける中でこの作業をすると「えらかった」よ。

運転中にタバコを吸えるようになったら一人前である。
教導機関士はこのような青二才を指導して一人前にせねばならない。大変な仕事であった。もし、見習いが責任事故を発生させても、見習いは責任を問われない。すべて教導機関士が責任を負う。
だからその時の絆は死ぬまでだ。国鉄一家であった。



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2 コメント

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Unknown (乙麦)
2013-02-15 09:39:23
亡き父親は鉄道兵で2度の出征で傷痍軍人で復員しましたが幸い後遺障害もなく80歳まで生きました、生前よく投炭競技の話をしていました、私はボイラー技士、整備士をやっていましたので整備にはいると国鉄退職者の管理技士と話す機会が多くよく聞かされたものです、満鉄の人は早くからストーカーが導入されていたのであまり投炭についての会話は無かったようです、同級生が機関助手デビユーするときは呉線沿線で手を振ったのを今でもおもいだします。
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満鉄 (道東放浪子)
2013-02-15 16:52:26
この頃には満鉄経験者が在職していました。ストーカー(自動給炭機)があった事を話していました。機関助士の助士(満人)がいて石炭を焚いたそうです。
国鉄でも「特急つばめ」にはあったそうですが、体験はしていません。体験は「特急大和」です。
投炭競技会は我々の前に無くなっていました。組合の反対で無くなったそうです。
拙者も恥ずかしながら「ボイラー技士2級」の免許を持っています。
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