ヘマドパントは本章をナナサヘブ・チャンドルカールの物語で締めくくっている。ナナサヘブはある時、ムハルサパティやビジャプールから家族と共にババに会いに来たイスラム教との紳士と共に、マスジッドに座っていた。
彼と一緒にいるベールを付けた女性たちを見ると、ナナサヘブは立ち去ろうとしたが、ババが彼を止めた。女性たちはやってきてババのダルシャンを受けた。女性たちの中の一人がババの足に敬礼するためにベールを外すと、彼女の顔をちらりと見たナナサヘブはその美しさに大変に魅了され、もう一度彼女の顔を見たいと思った。
ナナの心が落ち着かないのを見たババは、女性がその場を去ってから彼に話しかけた。「ナナ、なぜ君はそんなに興奮しているのかね?感覚にはそれぞれの仕事や義務を与えなさい。私たちは感覚の仕事に干渉してはならない。神はこの美しい世界をお創りになり、その美しさに感謝するのが私たちの義務だ。
心はゆっくりと徐々に定まり落ち着くだろう。正面の扉が開いているのに、なぜ裏口から出るのかね?ハートが純粋ならば、何事も難しいことはない。よこしまな考えがないのなら、なぜ誰かを恐れなくてはならないのか?目は目の仕事をしているのに、なぜ君は恥ずかしがってよろめくのかね?」
シャマがその場にいたが、彼はババの言っている意味が分からなかった。そこで彼は家に帰る途中でこれについてナナに尋ねた。ナナは美しい女性を見て彼の心が落ち着かなくなったことと、ババがそれを知って彼に助言したことを話した。ナナはババの主旨を次のように説明した。
「私たちの心は元々移ろいやすいから、興奮させないようにしなくてはならない。感覚が落ち着かなくなっても、肉体は抑制しなくてはならず、我慢できなくさせてはいけない。感覚は欲望の対象を追いかけるが、私たちはその後を追って対象物を切望してはならない。ゆっくりと徐々に練習をすることで、落ち着かない心は克服できる。感覚は完全には制御できないが、私たちは感覚に左右されてはならない。
私たちは必要に応じて正しく感覚を制御しなくてはならない。美しさとは視覚の主題であり、私たちは怖れずに対象物の美しさを見れば良い。恥ずかしがったり怖れたりする必要はない。ただ私たちは邪悪な考えを起こしてはならないのだ。心を無欲にし、神の美しい作品を見る。
このようにすれば、感覚は容易にそして自然に制御でき、対象物を楽しんでいる時でさえも、神のことを思い浮かべることができる。もし外側の感覚が抑えられず、心が対象を追いかけてそれに執着してしまうのであれば、私たちの誕生と死の循環は終わることがない。
二輪戦車を駆る者としてヴィヴェク(認識力)を持って、私たちは心を制御し、感覚が堕落するのを許してはならない。このような二輪戦車で、私たちはヴィシュヌ・パダ - 最後の住処、二度と戻ることのない私たちの本当の家へたどり着くのである。
スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように