山に登りたい 

あの山にも、この山にも、もっともっと登りたい!

観音山(兵庫県美方郡)

2013-06-12 08:47:49 | 九州以外の山
2011 12月10日(土)~11日(日)
念願かなって浜坂へ!
新田次郎著「孤高の人」の主人公加藤文太郎の生誕地を訪ねる。
何気なく入った本屋さんに平積みしてあった「孤高の人」を手に取った。
今頃新田次郎がブームなのかしら?
もともと新田次郎の本はすきで、映画にもなった「八甲田山死の彷徨」、厳冬期富士山頂測候所での野中夫妻を描く「芙蓉の人」「聖職の碑」はすでに読んでいた。
まずタイトルに惹かれる。「孤高の人」!孤独だが気高いのである。
タイトルからして主人公の加藤文太郎の秘したる情熱、精錬寡黙なようすが思い浮かんだ。
さらに山そのもの険しさ、山を極める文太郎の孤独を想った。
この本を読んでから、何としても浜坂へ行きたいと願っていた。
加藤文太郎に会いたい!

さてさて、
特急列車「かにかに浜風号」に乗って憧れの浜坂へ
駅前商店街はひっそりとしていて昭和の時代そのままであった。


おなかもすいたので「うどん吾妻」に入り鍋焼きうどんを注文する。

うどん屋さんの大将と文太郎の話で盛り上がる!

文太郎記念館(町立図書館)に向かう「あじわら小径」は古くからの石垣が美しく、りっぱなお屋敷もあった。





あじわら小径を抜けて向こうに見えるのが観音山
文太郎は何度登ったのだろう。花子さんとの祝言の日も駆け登ったやま。



加藤文太郎
昭和初期から単独行を重ね、積雪期の八ヶ岳、槍ヶ岳、立山、穂高岳、黒部五郎岳等を登る。花子さんと結婚、子供にも恵まれたが、昭和11年1月穂高岳北鎌尾根で消息を絶つ。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。
当時登山は装備や山行自体に多額の投資が必要であり、猟師などの山岳ガイドを雇って行く、高級なスポーツとされていた。その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装をし、高価な登山靴も持たなかったため、地下足袋を履いて山に登る異色の存在であった。彼の行動食が甘納豆と干し魚だったことから、私達もよくそれを真似した。実際山中での甘納豆、干し魚は非常においしく元気が出た!

加藤文太郎記念館

文太郎の登山靴

ピッケルやかんじき

ほかにも自筆のメモやスキー、遭難当時の新聞記事なども展示されていて、それらを見ていると切なくなってきた。
なぜ死んだ!文太郎!!

観音山へ登る。
図書館の方に登山口への行き方をたずねたところ、「台風の影響で山道が荒れていると思いますよ。」と親切なアドバイスをもらう。確かにその時の私たちは山登りの身支度ではなくただの観光客の格好だったから心配をかけてしまった。



圓通殿本堂 古くは天平九年行基が開いた。
天生年間に秀吉が攻め入り焼失したが慶長年間に山崎甲斐守が再建したもの。
銀杏の葉が落ち雪も残って荘厳な趣だった。


観音山からの眺め 美しくて美しくて…


美しい!文太郎も眺めたのだろうか。


観音山を下りる。濡れた山土で足が滑って怖い。
夫がストック代わりに拾ってくれた木の棒が大いに役立った。ありがとう!

タクシーで墓地に向かい文太郎のお墓を探すがなかなか見つからない。
犬を散歩中の人に聞いたり、うろうろ歩きまわってやっと見つけた。
花子さんと並んで眠る文太郎。安らかにお眠りください。あなたのおかげで山にはまりました。


最後に文太郎が花子さんと出会った宇津野神社に向かった。

初めて花子さんと出会った階段。


ところが!

消防ホース格納箱の中の蜂の巣をカメラに収めようと近づいた途端無数の蜂が私の黒い帽子めがけて襲ってきた。幸い一か所も刺されることはなかったがびっくり、びっくり!!冬場で蜂の動きが鈍かったのでよかった。

宿泊先「芦屋荘」で食べた蟹は最高!!
焼きガニがおいしかった。やどの母さんとの話が楽しくて楽しくたまらなかった。

ぜひまた行きたい、浜坂!!

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