落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

手摺の外で

2018年07月17日 | lecture
一橋大学アウティング事件 裁判経過報告と共に考える集い ─大学への問いかけ─

2015年8月24日、東京都国立市の一橋大学の敷地内で、ひとりの男子学生が転落死した。
全国で司法試験合格率トップを誇る法科大学院の学生だった彼は、そのちょうど2ヶ月前、想いを寄せていたクラスメイトに同性愛者であることを暴露され(アウティング)、以後、精神的に極度に追いつめられていた。その日は模擬裁判の授業があって、亡くなった彼のクラスは全員出席が義務づけられていた。その授業の間に、彼は同級生たちに別れのメッセージをLINEで送り、校舎の窓の手摺を乗り越えた。

わが子の最期に何があったのかを知りたいというのは、親なら誰もが抱く当然の願いである。だが一橋大学はそんな人として当たり前の思いすら一顧だにしなかった。
両親は、真面目で「人の役に立つ仕事を」と法律家を目指した息子の身に起きた事実を、何ひとつ知ることができなかった。手だては裁判しかなかった。
事件発生から1年ほど経って、両親は暴露した同級生と大学を相手に損害賠償訴訟を提起した。その後昨年5月の報告会から1年以上を経て、先月、同級生との和解が成立し(和解内容非公開)、今後は大学との裁判が続くことになった。

大学側は事件発生の翌日、うちひしがれた遺族に向かって「おたくの息子さんは同性愛者だった」と告げた(原告代理人の説明動画)。そして、彼が死んでしまったのは人知をこえた出来事であり、大学にはなすすべがなかったと主張し続けている。
つまり彼を死なせたのは、同性愛という彼の性的指向が彼自身を苦しめたことが原因だといいたいわけである。
これは私個人の勝手な考え方だが、それは完全に間違っていると思う。
人は性的指向が理由で死んだりはしない。
そこに無理解があり、偏見があり、差別がある。それが人の精神を蝕み、これ以上生きていられないという感情を抱かせ、生きる気力を奪うのだ。
彼は、同性愛者だから亡くなったのではない。
それだけは、絶対に違うと、私は思う。

亡くなった男子学生は確かに同性愛者だったし、そのことを家族にも周りの誰にもうちあけてはいなかった。
直接彼自身の口からその事実を告げられたのは、彼が愛した同級生だけだった。
他ならぬその相手から秘密を暴露された彼の孤独と絶望を、私自身は到底想像することができない。
どれほど苦しく、悲しく、寂しく、悔しく、情けなく、恐ろしかったとしても、その気持ちを理解することはもう誰にもできない。
ひとついえることは、彼はそれでも自分自身でできるだけのことはしていた。担当教授にも、ハラスメント相談窓口にも、保健センターでも、彼はしたくもないカミングアウトをして助けを求めている。
でも誰も、彼を助けなかった。
まさか死ぬとは思わなかった、というのが大学の言い分である。

報告会を聞いている限りでは、原告側は大学の性的少数者の人権に対する配慮義務を争点としているようだが、それで大丈夫なのか、正直なところ少し不安を感じた。
大学側が、同性愛者だから男子学生は死んでしまったのだと主張しているとしたら、性的少数者の人権に対する配慮義務への懈怠を裁判所に認めさせるのにはかなりのハードルがあるのではないだろうか。あるいは、裁判官にそうしたマイノリティへの見識があるとすればそれも期待できなくはないが、実際のところはどうなのか。
極論をいえば、男子学生が同性愛者であろうがなかろうが、彼の訴えをきちんとハラスメントとして大学が受けとめ、教育機関として備えておくべき行動原理をもって彼の命をまもるための対策を果たしていれば、彼は死ななくても済んだはずである。それができなかったから、彼は孤独と絶望のなかで死を選ぶしかなくなってしまったのだ。

それが、よりにもよって法科大学院で起こってしまったことの重大さを、おそらく一橋大学は骨の髄までよくよく認識しているに違いない。
だからこそ、彼らはわざわざクラス全員に緘口令を敷き、遺族に「おたくの息子さんは同性愛者でした」、だから死んだのだなどと言い放ち、見るも醜悪な事なかれ主義で遺族や、多くの性的少数者の心情を蹂躙し続けている。
繰り返しになるが、これが日本に冠たるトップエリート法律家を育成するロースクールのやることだろうか。

一審証人尋問は25日に行われる。傍聴にも行く予定です。入れたらまた何か書こうと思う。

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