第2回 小さな命の意味を考える勉強会
2011年3月11日午後2時46分、その小さな小学校では、一日の授業が済んで「終わりの会」も終えて、子どもたちは帰りの挨拶をしようとしていた。
春とはいえ小雪のちらつくような寒い午後を襲ったマグニチュード9の大地震。教職員と子どもたちは全員、すぐに校庭に避難、点呼を始めた。
何度も繰り返す余震の合間に、近隣に住む何組かの保護者が子どもたちを迎えにきていた。広い校区のほうぼうから通学する子どもたちを乗せるスクールバスも待機していた。テレビでもラジオでも津波警報が報じられ、防災無線も市の広報車も、高台への避難を呼びかけていた。
学校に迎えにいけなかった親たちは誰もが、子どもたちは裏山に避難したものと思っていた。まさか校庭にじっとしているとは、思ってもみなかったという。
その裏山は体育館のすぐそばにあって、子どもたちは毎年3月に椎茸栽培の体験学習をここでうけていた。小さな子どもでもお年寄りでも簡単に上れる緩い斜面。実際、何人かの子どもたちは山に逃げようと教職員に訴えている。それを彼らが却下した理由はわかっていない。
結果的に、50分という時間がこの校庭で無為に過ぎていった。
そこに巨大な津波が押し寄せた。最期の1分間に避難できた距離はわずか150メートル、しかも津波がくる川の方に逃げている。
なぜ、すぐ背後の山ではなくわざわざ水が来る方へ逃げたのか。たった1分でも、山側に逃げていたら。
避難しないのならなぜ、子どもたちをバスに乗せて下校させなかったのか。全員クルマで通勤していた教職員の自家用車も使えたはずである。
そのとき、この小さな美しい学校は明らかに機能不全に陥っていたのだ。
どうしてなのか。そこで何があったのか。
子どもを喪った親として事実を知りたいという遺族に対して、学校側は当初なんの説明も用意してはいなかった。
情報共有を求める声に圧されて初めての説明会が開かれたのは4月9日。以後、翌年10月28日までに計7回の説明会が行われたが、市教育委員会の説明は矛盾ばかりで、やがてそれは遺族との深い対立構造にまで発展していった。状況を打開しようと、遺族の代表が説明会ではなく話しあいを交渉していた矢先、学校も遺族も排除した第三者検証委員会の設置が突然決まった。
市の予算で文科省が仕切る検証委だから、行政の責任を明確に追及するような検証はそもそもできるわけがない。一般論として。
だが遺族はそうは思わなかった。委員会が「責任の所在を明らかにする」といってくれたから。「なぜ意志決定が遅れたのか」「なぜ間違った避難ルートをとったのか」、いちばんしりたいことを専門家が専門的に検証してくれるものと信じた。
そしてその願いは頭から見事に打ち砕かれることになった。
広範囲に甚大な被害を出した未曾有の大災害の下で、遺族は学校や行政に裏切られただけでなく、同じ被災者ばかりが暮らす地域社会のなかでさえ孤立している。
メディアは「不可抗力のなかでベストを尽くした学校」と「いつまでも感情的な遺族」という構図ばかりを強調し、本来追求すべき市教委の不正や捏造、隠蔽についてはまともに触れもせず、あまつさえ誤解を助長するような報道までした。お陰で世論はあっという間に「しょうがなかった」一色でまとまってしまった。千年に一度の大災害だから。亡くなったのは子どもたちだけじゃない。先生もみんな死んでしまったから。不可抗力。
それでも諦めずにはたらきかけ続けた遺族をことごとく無視する形で委員会は進められ、1年後の2014年2月、最終報告が提出されて検証は終わった。
最後まで、失われた子どもたちの命は議論の外に置き去りにされたままだった。
個人的には、検証委の誰も、初めから遺族を傷つけるような意図はなかったのではと思う。さすがに某かの志はあったはずで、なんの志もなく火中の栗を拾うような委員会を承諾する人がいるだろうか。少なくとも、引き受けたからには真実を知りたい、明らかにしたいと思うのが自然な気がする。それを、環境が許さなかったのではないだろうか。
「思うように検証ができなかった」という声を漏らした委員もいたという。ではなぜ遺族や委員が望む検証ができなかったのか、検証できない委員会が組織されたのか、そこにどこからどんな力がはたらいたのか、それをも明らかにすべきではないかと思う。
「なぜ意志決定が遅れたのか」「なぜ間違った避難ルートをとったのか」「なぜ検証ができなかったのか」。
これは不幸な偶然が重なった挙げ句の悲劇の物語などではない。学校防災と学校行政の問題なのだ。
児童遺族のうち19家族が市と県を相手取って損害賠償訴訟を起こしている。最後まで迷いに迷って、時効ギリギリでの提訴だった。昨年9月に一審判決で原告側が勝訴したが、行政側は直後に控訴した。
7月19日に行われた控訴審と原告側の記者会見を傍聴したが、行政側はとにかく責任逃れ以外の何もしていないようにみえる。ここで詳細については触れないが、状況的にはいまのところ完全に原告側のワンサイドゲームである。裁判所も和解の和の字にすら触れてはいない一方で、争点は一審の「予見可能性(津波の襲来を予見できたにも関わらず、適切な避難行動をしなかった教員の過失)」から、「組織的過失(地震発生より前の平時の学校の防災体制の不備)」に移っている。
原告側は、今回の震災で津波が遡上した北上川沿いの他の小中学校および保育園の防災マニュアルや当日の避難行動を調べて証拠として提出したが、驚くなかれ河口から15キロも川上で標高46メートルの河北中学にさえ、地震や津波を想定したマニュアルがあった。河口から3.8キロで標高4メートルに満たない大川小学校になかったのは決して「不可抗力」などではない。大川小学校の教職員で唯一生き残ったA教諭の前任校の相川小学校では、当のA教諭が作成したマニュアルに従って避難し、事なきを得ている。
当たり前の話なのだ。学校は子どもの命をまもる場所なのだから。
その当たり前のことができなかった責任から目を逸らしている限り、どんな再発防止策も絵に描いた餅になってしまう。
亡くなった子どもたちの命の重さをてのひらに載せ、背中に背負って初めて、この災害だらけの国の子どもの命を、人権をまもる未来の礎は築かれていくはずである。
感情論でもなく思考停止でもない、持続可能な防災を、このできごとを起点にして始めるべきなのだ。
勉強会や裁判などを通じて何組かのご遺族とお話させていただく機会があったが、皆さんの精神力には驚くばかりで、畏敬の念さえ感じる。
6年以上にわたって学校や行政によって延々と心をえぐられ気持ちを逆撫でされ続けながら、それでも折れずに気丈に立ち向かい続けている。凄いと思う。
その強さを単純に親心や愛などと一般化していいものだとは思わないし、彼らが求めているものは、子どもをもつ親だけでなく、むしろ人の生きる権利を追求する者なら誰もが共感できるものだと思う。
ひとりでも多くの人に、その意味をわかちあえたらと、せつに願っている。
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講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著
大川小学校跡地。
案内板手前の2本の杭は、津波襲来直前に教職員と児童がすりぬけたフェンスの隙間を示している。ここを88人が一列になって避難したという。
復興支援レポート
2011年3月11日午後2時46分、その小さな小学校では、一日の授業が済んで「終わりの会」も終えて、子どもたちは帰りの挨拶をしようとしていた。
春とはいえ小雪のちらつくような寒い午後を襲ったマグニチュード9の大地震。教職員と子どもたちは全員、すぐに校庭に避難、点呼を始めた。
何度も繰り返す余震の合間に、近隣に住む何組かの保護者が子どもたちを迎えにきていた。広い校区のほうぼうから通学する子どもたちを乗せるスクールバスも待機していた。テレビでもラジオでも津波警報が報じられ、防災無線も市の広報車も、高台への避難を呼びかけていた。
学校に迎えにいけなかった親たちは誰もが、子どもたちは裏山に避難したものと思っていた。まさか校庭にじっとしているとは、思ってもみなかったという。
その裏山は体育館のすぐそばにあって、子どもたちは毎年3月に椎茸栽培の体験学習をここでうけていた。小さな子どもでもお年寄りでも簡単に上れる緩い斜面。実際、何人かの子どもたちは山に逃げようと教職員に訴えている。それを彼らが却下した理由はわかっていない。
結果的に、50分という時間がこの校庭で無為に過ぎていった。
そこに巨大な津波が押し寄せた。最期の1分間に避難できた距離はわずか150メートル、しかも津波がくる川の方に逃げている。
なぜ、すぐ背後の山ではなくわざわざ水が来る方へ逃げたのか。たった1分でも、山側に逃げていたら。
避難しないのならなぜ、子どもたちをバスに乗せて下校させなかったのか。全員クルマで通勤していた教職員の自家用車も使えたはずである。
そのとき、この小さな美しい学校は明らかに機能不全に陥っていたのだ。
どうしてなのか。そこで何があったのか。
子どもを喪った親として事実を知りたいという遺族に対して、学校側は当初なんの説明も用意してはいなかった。
情報共有を求める声に圧されて初めての説明会が開かれたのは4月9日。以後、翌年10月28日までに計7回の説明会が行われたが、市教育委員会の説明は矛盾ばかりで、やがてそれは遺族との深い対立構造にまで発展していった。状況を打開しようと、遺族の代表が説明会ではなく話しあいを交渉していた矢先、学校も遺族も排除した第三者検証委員会の設置が突然決まった。
市の予算で文科省が仕切る検証委だから、行政の責任を明確に追及するような検証はそもそもできるわけがない。一般論として。
だが遺族はそうは思わなかった。委員会が「責任の所在を明らかにする」といってくれたから。「なぜ意志決定が遅れたのか」「なぜ間違った避難ルートをとったのか」、いちばんしりたいことを専門家が専門的に検証してくれるものと信じた。
そしてその願いは頭から見事に打ち砕かれることになった。
広範囲に甚大な被害を出した未曾有の大災害の下で、遺族は学校や行政に裏切られただけでなく、同じ被災者ばかりが暮らす地域社会のなかでさえ孤立している。
メディアは「不可抗力のなかでベストを尽くした学校」と「いつまでも感情的な遺族」という構図ばかりを強調し、本来追求すべき市教委の不正や捏造、隠蔽についてはまともに触れもせず、あまつさえ誤解を助長するような報道までした。お陰で世論はあっという間に「しょうがなかった」一色でまとまってしまった。千年に一度の大災害だから。亡くなったのは子どもたちだけじゃない。先生もみんな死んでしまったから。不可抗力。
それでも諦めずにはたらきかけ続けた遺族をことごとく無視する形で委員会は進められ、1年後の2014年2月、最終報告が提出されて検証は終わった。
最後まで、失われた子どもたちの命は議論の外に置き去りにされたままだった。
個人的には、検証委の誰も、初めから遺族を傷つけるような意図はなかったのではと思う。さすがに某かの志はあったはずで、なんの志もなく火中の栗を拾うような委員会を承諾する人がいるだろうか。少なくとも、引き受けたからには真実を知りたい、明らかにしたいと思うのが自然な気がする。それを、環境が許さなかったのではないだろうか。
「思うように検証ができなかった」という声を漏らした委員もいたという。ではなぜ遺族や委員が望む検証ができなかったのか、検証できない委員会が組織されたのか、そこにどこからどんな力がはたらいたのか、それをも明らかにすべきではないかと思う。
「なぜ意志決定が遅れたのか」「なぜ間違った避難ルートをとったのか」「なぜ検証ができなかったのか」。
これは不幸な偶然が重なった挙げ句の悲劇の物語などではない。学校防災と学校行政の問題なのだ。
児童遺族のうち19家族が市と県を相手取って損害賠償訴訟を起こしている。最後まで迷いに迷って、時効ギリギリでの提訴だった。昨年9月に一審判決で原告側が勝訴したが、行政側は直後に控訴した。
7月19日に行われた控訴審と原告側の記者会見を傍聴したが、行政側はとにかく責任逃れ以外の何もしていないようにみえる。ここで詳細については触れないが、状況的にはいまのところ完全に原告側のワンサイドゲームである。裁判所も和解の和の字にすら触れてはいない一方で、争点は一審の「予見可能性(津波の襲来を予見できたにも関わらず、適切な避難行動をしなかった教員の過失)」から、「組織的過失(地震発生より前の平時の学校の防災体制の不備)」に移っている。
原告側は、今回の震災で津波が遡上した北上川沿いの他の小中学校および保育園の防災マニュアルや当日の避難行動を調べて証拠として提出したが、驚くなかれ河口から15キロも川上で標高46メートルの河北中学にさえ、地震や津波を想定したマニュアルがあった。河口から3.8キロで標高4メートルに満たない大川小学校になかったのは決して「不可抗力」などではない。大川小学校の教職員で唯一生き残ったA教諭の前任校の相川小学校では、当のA教諭が作成したマニュアルに従って避難し、事なきを得ている。
当たり前の話なのだ。学校は子どもの命をまもる場所なのだから。
その当たり前のことができなかった責任から目を逸らしている限り、どんな再発防止策も絵に描いた餅になってしまう。
亡くなった子どもたちの命の重さをてのひらに載せ、背中に背負って初めて、この災害だらけの国の子どもの命を、人権をまもる未来の礎は築かれていくはずである。
感情論でもなく思考停止でもない、持続可能な防災を、このできごとを起点にして始めるべきなのだ。
勉強会や裁判などを通じて何組かのご遺族とお話させていただく機会があったが、皆さんの精神力には驚くばかりで、畏敬の念さえ感じる。
6年以上にわたって学校や行政によって延々と心をえぐられ気持ちを逆撫でされ続けながら、それでも折れずに気丈に立ち向かい続けている。凄いと思う。
その強さを単純に親心や愛などと一般化していいものだとは思わないし、彼らが求めているものは、子どもをもつ親だけでなく、むしろ人の生きる権利を追求する者なら誰もが共感できるものだと思う。
ひとりでも多くの人に、その意味をわかちあえたらと、せつに願っている。
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大川小学校跡地。
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復興支援レポート
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