落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

無知の罪

2009年08月23日 | movie
『愛を読むひと』

1958年、市電の車掌ハンナ(ケイト・ウィンスレット)に恋をした15歳のマイケル(デヴィッド・クロス)。ふとしたきっかけで21歳も年上の彼女の部屋に通い、本を読み聞かせてはセックスをする関係になるのだが、たったひと夏で彼女は忽然と姿を消す。
8年後、偶然再会した彼女は、ナチス戦犯として裁判の被告席に座っていた・・・。
ベルンハルト・シュリンクのベストセラー小説『朗読者』の映画化作品。

ひじょーに微妙な、深い映画でした。
観る前はもっと単純なロマンスものか、反戦映画を想像してたんだけど、全然違いました。いや、ロマンス映画としても反戦映画としてもちゃんとした作品なんだけど、なんちゅーか、観方によっていろんな受けとめ方ができるとゆーか、ものすごくいろんな面があって。けっこうフクザツとゆーか、思ったより深かった。
物語そのものは戦争から何年も後の時代が舞台だけど(主人公は戦後生まれ)、戦争に引き裂かれる恋人同士という定番のストーリーにもそれなりにおさまってるし、戦争の犯罪を裁く意義を問うという部分ではちゃんと反戦映画にもなっている。

劇中、マイケルの学友が戦犯裁判への疑問を吐露しながらも同時に戦犯への憎悪も告白するというシーンがあるけど、彼の台詞はそのまま戦争の空虚さを表現している。戦争はすべてを正当化してしまう。だがそこで行われる行為は決して正当化できるようなことではない。なのに戦犯裁判では、必ず何かが正当化され、一方で別の何かを不当と判断しなくてはならない。そのような裁判のどこに真実があるといえるのだろう。
ハンナは裁判から20年以上も経って、己の犯した罪のほんとうの重さを知る。
彼女にとっては、死なせてしまった犠牲者の命を顧みることなど端からまったく意味のないことだった。何をどうしようと、あの時、一介のSSだった彼女には何の選択肢も与えられてはいなかった。それが戦争だった。何が起ったにせよ、どう後悔しても失われた命は戻ってはこない。その事実を諾として受け入れることだけが、与えられた唯一の“選択肢”だと、彼女は考えた。
しかし最後の最後で、たった数ヶ月関係した少年の人生を自分が完全に壊してしまったことに、彼女はようやく気づく。彼女の秘密、それを守るために強いられてきた犠牲の先に、自らの未来などあってはならないということに。
そして懺悔とは何か、罪を購うとはいったいどういうことなのか、彼女なりの答えを導きだす。

ハンナの秘密は一見この物語の悲劇の小道具のように機能しているようにみえるが、全体を見通すと、実はそうではないことがわかってくる。
彼女はその秘密を恥じながらもあえて克服しようとせず、ただただ隠すことだけに腐心しつづけた。それはナチスの罪をうすうす知りながら告発せず、みすみす数百万人の犠牲者を死なせたドイツ国民全体の罪の象徴なのだろう。
当時のドイツの戦争犯罪を全てヒトラーとナチス政権だけにおしつけるのは簡単なことだ。だがそれではほんとうの意味での平和な社会を築く基礎など育たない。原作者はそれを告発したかったのではないだろうか。
何もドイツだけの話じゃない。
金や刑罰や誰かの血などでは、到底戦争の罪は赦されはしない。そもそも戦争のもととなるのは、ハンナのような─もっといえば、愛という名の愚かな感傷ゆえにその秘密に目をつむった戦後生まれのマイケルのような─名もなき一般庶民の無知と無関心ではないかと、不幸な男の初恋物語を通して表現しているのではないかなと、ぐりは思いましたが。