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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

罪人の行進

2007年12月22日 | book
『福祉を食う―虐待される障害者たち』 毎日新聞社会部取材班著
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今年の初めに『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』を読んで衝撃を受けて以来、日本の障碍者福祉について素人でもわかりやすい資料がないか探していて出会った本。といっても発行は1998年、やや古めで現状を知るための資料とはちょっといいにくい本ではある。
1998年当時、TBS系で知的障碍者が主人公のドラマ『聖者の行進』が放送されたが、この番組は97年に発覚した白河育成園事件という実在の詐欺・暴行事件をモデルにしていて、視聴者からは内容が残酷すぎて観ていられないというクレームが相次いだという。ぐりは番組を観ていないのだが、この本では当該事件についても取材していて、全国の障碍者福祉の現場の悲惨さはフィクションの世界での表現を軽く超えていることが如実に書かれている。

この本で主に取りあげられているのは先述の白河育成園事件と水戸アカス事件、この他に大小様々な知的障碍者への虐待、性的暴行、殺人、詐欺などの重大犯罪が数々登場する。
そのどれもが、我と我が目を疑うというのもおこがましいほどの苛酷さを極めている。
まるで意味をなさない福祉行政システムの網目から絶え間なくこぼれ落ちる障碍者。親も教師も医師もとても彼らを支えきれない。甘言を弄して親を騙し、障碍者を騙しては年金や保険金、果ては預金から寄付金まで巻き上げ、自治体からは助成金をむしりとって私腹を肥やす支援事業者たち。彼らにとっては障碍者は人間ではない。ただの金づるだ。だから目的さえ達成すればあとは虐待のし放題、罪を責められれば「言葉でいって聞かないから」と言い逃れる。言葉でいって聞ける健康状態なら、誰も障碍者支援施設など必要ないのに。
虐待といっても小突くとかつねるとか、指導のための体罰などといえるようなレベルじゃない。バットで殴る、汚物を食べさせる、レイプする、手錠で繋いだりひもで縛ったりして監禁する、ロープで吊るして飢えさせる、薬づけにする・・・とても現代社会で起きているとはにわかに信じられないほどの暴力犯罪ばかりである。もちろん被害者の中には重度の後遺症を抱えたままになった人もいれば、亡くなった人もいる。
それでも行政はなかなか真剣に真相究明や司法手続きには動かない。なぜか。
そうした福祉システムをつくったのが行政だからだ。行政が自らミスを認めることは、この日本という国ではめったに起こらない。なおかつ、知的障碍者の事件、裁判にはいつも「被害者の証言が曖昧なため、事件の立証が困難」という捜査の壁が立ちはだかる。

こうした日本の知的障碍福祉の現場を不完全たらしめている最大の原因はたったひとつ、「障碍者の人権意識の不確実さ」だ。
言葉や知的能力に欠陥のある人間でも、ひとりの人間であることに変わりはない。
そんな当り前のことが、親にも国にもきちんと認識されていないし、そんな常識が通用する社会が形成されていないのだ。
だから障碍児を抱えた親はただただ将来を案じ、あるいは血を分けた我が子を疎んじ、自治体や学校では障碍者を厄介者扱いしかしようとせず、施設にいれて「消化」することしか考えられない。親も障碍者も施設も対等の立場であるべきなのに、そこに上下関係が生まれるのは人権意識が欠けているからだ。
悪名高い「らい予防法」が廃止されて今年で11年、ハンセン病患者の人権問題が次々に明るみに出て社会問題化し、2001年になってやっと国の補償が行われたが、知的障碍者問題でも似たような現象が起きているにも関わらず、大幅な行政改革は未だ行われていない。今も知的障碍者の多くが社会から隔離され、どんな支援を受け、どんな生活を送っているかほとんどの国民が知らないままになっている。
そんなもの知らなくていいと思っている人も多いのだろう。でもそうは思わない人もいる。
福祉にこそ、社会の、国家の“品格”が問われているのではないかと、ぐりは思うのだが。