Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

ちよ旅10目黒不動尊

2015-04-20 22:16:26 | まち歩き

ちよ、今回は目黒不動尊のまわりを散策します。

目黒駅から目黒川に下るメインロードの目黒通り、その左手にある細い道に入ります。

かなりの急勾配ですが、この坂が江戸時代富士見の名所として知られた行人坂(ぎょうにんさか)です。(上)

寛永の頃湯殿山(現山形県)から来た行人(仏道修行者)が、この坂の途中にお堂を建て修行を始めました。

するとしだいに多くの行人が集まり住むようになり、この坂は行人坂と呼ばれるようになったそうです。

 

そのお堂とは、行人坂の途中にある大円寺のことです。(左上)

湯殿山から来たのは高僧行人の大海法師で、のちに家康から寺号大円寺を与えられます。

大円寺境内には石仏群があり、これは斜面に並ぶ五百羅漢です。(右上)

1772(明和9)大円寺から出火した大火事で、多くの死者が出ました。

その供養のために造られたのが、始まりとされています。

行人坂を下ると、江戸時代では貴重なアーチ形石橋が架かっていたと言われる太鼓橋に出ます。

太鼓橋から目黒川を望むと、両岸には桜並木がぎっしりです。(上)

 

山手通りを越えて行くと、いよいよ目黒不動尊です。

仁王門を通りぬけると、急階段の男坂があります。(左上)

目黒不動は通称で、正式名は瀧泉寺(りゅうせんじ)と言います。

808(大同3)慈覚大師が開創したと言われ、江戸時代3代将軍家光の頃より幕府の厚い保護を受けています。

男坂を上ると、大本堂です。(右上)

目黒不動は五色不動のひとつで、目黒の地名や駅名の由来にもなっています。

これで五色不動のうち、行ってないのは目黄不動だけとなりました。

目黒不動近くにあるのが、五百羅漢が安置されているその名も五百羅漢寺です。

五百羅漢の内部は撮影NGなので、羅漢堂の回廊を撮りました。(上)

この中に、木彫の五百羅漢が並んでいます。

元々江戸本所にあったのですが、1908(明治41)目黒に移ってきました。

現存305体の仏像は、ほとんどが松雲元慶禅師によって十数年をかけて彫造したものだそうです。

目黒通りに出て、駅とは反対方向に進みます。

 

すると、バスの停留所(左上)や交差点(右上)に「元競馬場」の名前が現れます。

この地では、1907(明治40)目黒競馬場が開設され競馬が開催されていました。

それは、1933(昭和8)府中に移転されるまで明治・大正・昭和と続きました。

1932(昭和7)には記念すべき第1回ダービーが、この地で行われています。

そばには、目黒競馬場跡の碑があります。(上)

この碑は、当時の歴史を伝え残すように第50回ダービーを記念して建立されました。

目黒競馬場は目黒駅から近いということが災いして住宅地化の波におされ、府中に移転されることになります。

 

競馬場のあった一帯は、現在では住宅密集地となっています。 

その中にも、当時のコースそのままに曲がっている道路が残っています。(左上)

コースでいうと向こう正面を進んだ所にあるのが、さくらの里街かど公園です。

ここにある桜の木は、目黒競馬場があった当時の樹木と言われています。(右上)

目黒通りを、駅の方へ向います。

山手通りとの交差点の角に、大鳥神社があります。(上)

江戸時代、目黒不動・金比羅権現と並び目黒の三社様と言われました。

毎年11月に酉の市(とりのいち)が開かれ、太々神楽(だいだいかぐら)が神前で舞われます。

 

目黒川に架かる、目黒新橋です。(左上)

江戸時代初期より、橋がこの位置にあったと確認されています。

西へ下る、一方通行の権之助坂です。(右上)

元禄時代に権之助坂が開かれ、主要交通路は行人坂からこの坂に移ってきます。

名前の由来は菅沼権之助ですが、諸説があります。

その後、交通量の増大とともに権之助坂の途中からバイパス(東へ向かう一方通行)が設けられます。

権之助坂は、西へ向かう一方通行の道路となっていきます。

この坂を上ると、目黒駅です。

今日のおみやげは、目黒不動の恵比寿様です。(上)

目黒不動は、山手七福神巡りの恵比寿様に当たります。

この恵比寿様の底には穴が開いていて、そこにおみくじが入っています。

ちなみに、おみくじは末吉でした。

―ちよ旅10目黒不動尊・おわりー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちよ旅9板橋区砲兵本廠

2015-03-28 20:12:08 | まち歩き

ちよ、今回は消失が心配される板橋区砲兵本廠(ほうへいほんしょう)の遺構を探しに行きます。

板橋区砲兵本廠とは、明治政府旧加賀藩江戸下屋敷跡一帯に造った火薬製造所のことです。

1876(明治9)「陸軍砲兵本廠板橋属廠」として創業を開始しました。

  

加賀西公園にある、圧磨機圧輪(あつまきあつりん)記念碑です。(上) 

この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造するための機械です。

圧磨機は水車の動力で動くため、石神井川が流れるこの場所は最適でした。

しかし当所で無煙火薬が製造されるようになり、1906(明治39)圧磨機圧輪は使用されなくなりました。

1922(大正11)圧磨機圧輪をそのまま記念碑とし、戦後この地に移転されました。

同じ公園内に、1903(明治36)火薬製造所有志が建立した招魂之碑があります。(上)

黒色火薬は取扱いが難しく爆発事故がよくあったそうで、これは火薬製造の課程等で亡くなった方々を悼んで建てたものです。

「陸軍砲兵本廠板橋属廠」は、最終的に1940(昭和15)「東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)」と名称が変わっていきます。

そして、1945(昭和20)終戦で閉鎖になるまで続きました。

これから、二造時代の遺構を探って行きます。

 

野口研究所の正門で、ここには二造時代に火薬研究所が置かれていました。(左上)

構内には、当時からの構造物が残されています。(右上)

これは、野口研究所の敷地内に残る電気軌道(トロッコ)線路敷跡です。(上 

電気軌道は十条銃包製造所王子製薬場と結び、物資や人の運搬に大きな役割を果たしました。 

加賀公園にあるこの小高い山は、旧加賀藩下屋敷の庭園にあった築山の跡です。

中腹に残るコンクリート製の構築物は、火薬研究所で行われていた弾道検査管(爆速測定管)の標的跡です。(上)

長さ十数m内径686mmのコンクリート製弾道検査管で、トンネル射場と呼ばれていました。

 

金沢橋から見た石神井川ですが、桜はまだ五分咲きと言ったところでしょうか。(上)

 

埼京線に架かる十条台橋から、南側を見たところです。

線路両側にあるコンクリートの土台は、トロッコの軌道設置のため建設された跨線橋(こせんきょう)跡です。(上)

  

二造の一部は、戦後の払下げ後も学校・工場・研究所等として利用されました。

これらも二造時代からの建物と思われるもので、理化学研究所・板橋分所(左上、中上)と愛歯技工専門学校です。(右上)

 

石神井川沿いのみどり橋緑地に、レンガのモニュメントがあります。(左上)

このモニュメントは、二造時代ここの敷地にあったレンガ造建物の壁をかたどっています。

そして、その一部には当時のレンガ造建物の壁をそのまま保存利用しています。(右上)

桜越しの帝京大学附属病院ですが、桜はまだ五分咲きです。(上)

 

民家の前にある二造との境界線に置かれたと見られる石柱で、陸軍用地と書かれています。(左上)

金沢小学校の校庭には、二造で使用していた消火栓が保存されています。(右上)

星の印は、陸軍のマークです。

こういった遺構は、戦争を風化させないためにも残していってもらいたいものです。

ーちよ旅9板橋区砲兵本廠・おわりー 

 

 

 

 

 

 


ちよ旅8根岸競馬場跡

2015-02-22 16:58:07 | まち歩き

ちよ、今回は根岸競馬場跡を見に行きます。

遺構が好きで、ここは6年ぶりになりますが見事な遺構が存在します。

今では、競馬場跡地は巨大な根岸森林公園となっています。

  

 その根岸森林公園の一部にあるのが、「根岸競馬記念公苑・馬の博物館」です。(左上)

 馬の博物館では、馬と人とのかかわりを歴史から競馬まで幅広い分野で紹介されています。

中庭に建つトキノミノル像で、はるか遠くにこれから行く遺構が見えます。(右上)

トキノミノルは10戦10勝の負け知らずで1951(昭和26年)の日本ダービーを制しましたが、その17日後に破傷風で急死しました。

ダービーを勝つために生まれてきた幻の馬と言われ、像の土台前面には「幻乃馬」と書かれています。

根岸競馬記念公苑には「ポニーセンター」があり、今は天皇賞馬マイネルキッツが入厩しているそうです。

 

これが競馬場跡地の壮大な根岸森林公園で、どこまでも芝生が続いています。(上)

この場所は競馬場でいうとまだ内馬場で、本馬場のコースはさらにこの外側にあったようです。

右回りで1周約1600mコース幅20mと狭く、急なカーブと坂で構成され難度の高いコースのひとつとされました。

  

これが、貴重な遺構の根岸競馬場の1等馬見所(観客スタンド)です。(上)

1860年代に横浜で始まった近代競馬は、1866(慶応2年)日本初の洋式競馬場である根岸競馬場が完成して本格化します。

しかし、1923(大正12年)関東大震災によって半壊します。

1930(昭和5年)アメリカ人J・H・モーガン設計による新スタンドが完成し、各地で建設されるスタンドモデルにもなりました。

3年後の1933(昭和8年)には、現在の東京競馬場が開設されています。

J・H・モーガンは、当時の横浜洋館の設計を数多く手掛けています。

残っているのはその新スタンドの1等馬見所(4,500人収容)だけですが、となりにもっと大きな2等馬見所(12,000人収容)がありました。

3つの大きな柱はエレベーターホールで、小窓はふさがれていますがガラス張りだったそうです。

 2等馬見所と下見所(パドック)は、老朽化のため1988(昭和63年)に解体されました。

競馬場は当時高級な社交場で、入場料だけでも1等馬見所が5円2等馬見所が2円でかなり高価だったと思われます。

  

スタンド前の本馬場あたりは米軍駐留地となっていて立ち入れないので、正面からはこれが精一杯の画像です。(左上)

この広場は、設計者の名をとってモーガン広場と呼ばれています。(右上)

根岸競馬場は途中横浜競馬場に名称が変わりますが、1943(昭和18年)閉鎖となり海軍省に接収されるまで続きました。

今にも倒れそうで老朽化が心配されますが、横浜市にはぜひ補強修復をしてこの貴重な歴史遺構を残していってもらいたいものです。

さて、ここから伊勢佐木町まで歩きます。

 

神奈川県のご当地ラーメンとなっている、サンマーメン(生馬麺)を食べに行きます。

伊勢佐木町には元祖と言われる玉泉亭があり、そこに入ります。(左上)

サンマーメンとは、もやしや野菜などのあんをかけたラーメンのことです。(右上)

もう少しあんにとろみがあれば、最高でした。

さらに歩くと、伊勢佐木町を一躍全国的に有名にした「青江三奈 伊勢佐木町ブルース」の看板がありました。(上)

この前には歌碑があり、楽譜と歌詞の書かれたレリーフがあります。

スイッチを押すと、1分間「伊勢佐木町ブルース」が流れます。

作詞はあの川内康範で、ため息から始まる刺激的な歌でした。

 

「カステラ1番 電話は2番 3時のおやつは文明堂」のフレーズと、「クマのカンカン踊り」のCMを憶えていますか。

そのCMでおなじみの横浜文明堂本店(伊勢佐木町4丁目店)に寄ります。(上)

ドラ焼きを持ったドラえもんが、迎えてくれます。

今日のおみやげは、文明堂の「極上 金カステラ」です。(上)

このカステラは、卵黄を増量して食感が一段としっとりして底のザラメもたっぷりの逸品です。

さらに、手焼きなのは伊勢佐木町と関内の直営店限定品です。

味は最高でしたが、ザラメ1コの大きさがもう少し小さいと食べ易いのですが。

ーちよ旅8根岸競馬場跡・おわりー

 

 

 


ちよ旅7東京大仏

2015-01-12 23:49:00 | まち歩き

1年3か月ぶり、久々のちよです。

今回は、初詣を兼ねて東京大仏まで詣でます。

その前に、溜池公園に寄ります。(上)

背後に赤塚城の台地があり、この溜池は三方の谷からしみ出した水をたたえています。

ここから北側に開ける高島平は、明治以降は徳丸田んぼと呼ばれる一面の水田地帯でした。

その時、溜池の水は灌漑用水として利用されています。

すぐ後ろにある、赤塚城跡の小山に登って行きます。

城跡の頂上は、石碑があるだけで大きな広場になっています。(上)

赤塚城は室町時代の城跡で、1456(康正2)千葉実胤・自胤(さねたね・よりたね)兄弟が入城したと伝えられています。

その後、弟の自胤が勢力を拡大し武蔵千葉氏の基盤を築きました。

北条氏武蔵国に進出するとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる1590(天正18)まで勢力をふるっていました。

 城跡を下りて、東京大仏に向かいます。

東京大仏があるのは乗蓮寺で、正式名を「赤塚山慶学院乗蓮寺」と言います。(上)

もともと板橋仲宿にあったのですが、首都高建設と国道17号拡幅により1973(昭和48)この赤塚城二の丸跡に移転しました。

江戸時代天保大飢饉があり、当時板橋宿中宿にあった乗蓮寺の住職撮誉上人が餓死者500余人を寺内に埋葬し供養塔を建立したということです。

その供養塔は、今でも境内に建っています。

いよいよ、東京大仏とご対面です。

 

これが乗蓮寺の阿弥陀如来座像で、通称東京大仏です。(上)

この大仏は当山住職23世正誉隆道が、1977(昭和52)に完成させました。

座像で青銅製鋳造大仏では、奈良・鎌倉に続き全国3番目の高さを誇ります。

座高8.2m・蓮台2.3m・基盤2mで、合わせると12.5mになります。

ここで無病息災をお祈りして、おみくじを引きました。

ちなみに、そのおみくじは「大吉」で今年の幸先は上々です。

乗蓮寺から、下赤塚駅方面に向かいます。

1492(延徳4)赤塚城主千葉自胤が菩提寺と定め、寺領を寄進した松月院があります。(上)

1841(天保12)高島秋帆は、徳丸ヶ原(現在の高島平)で日本初の西洋式砲術調練を指揮しました。

その時、本陣を置いたのが松月院です。

境内には、その高島秋帆を顕彰する目的で建立された高島秋帆紀功碑があります。(上)

紀功碑は、1857(安政4)に鋳造された銅製大砲を碑心に火焔砲弾4発を配した特異な形体をしています。

地名高島平は、この高島秋帆の名が由来となっています。

 

今日のおみやげは、木箱に小さい大仏が入った根付です。(上)

ーちよ旅7東京大仏・おわりー

今年はいろんな所に出かけるつもりですので、ちよ旅をよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ちよ馬券2014有馬記念

2014-12-27 22:33:15 | ギャンブル

ちよ馬券、今週はとうとう今年最後の勝負となってしまった有馬記念だ。

中山競馬場3歳上芝内回り2500mで行われる。

超豪華メンバーが揃った。

何とGⅠ馬が10頭で、全馬GⅠレースで連対の実績を持つ。

まずはファン投票1位のゴールドシップ宝塚記念を連覇していて昨年このレースは3着だった。

ファン投票2位のジェンティルドンナは、2012・2013のJAPAN CUPを連覇している。

今年のJAPAN CUPを圧勝したのは、記憶に新しいエピファネイアだ。

そのエピファネイアの2着だったのが、世界のジャスタウェイだ。

他にも天皇賞・春を連覇しているフェノーメノや、今年のダービーワンアンドオンリーなど。

このうち人気の3頭が外枠に回ってしまい、波乱含みでもある・・・。

本命は・・・。

14ゴールドシップ(牡5)は力のいる馬場は得意だが、ムラっ気だけに凱旋門賞14着からの巻き返しは疑問。

4ジェンティルドンナ(牝5)は強いのは認めるが、力のいる馬場の中山は初めてで不安。

13エピファネイア(牡4)はJC圧勝だが、スミヨンによるところが大で外枠も折合い面で不利。

そこで、15シャスタウェイ(牡5)だ。

昨年の天皇賞・秋からドバイをはさんで安田記念までを4連勝、凱旋門8着後のJCでも2着と安定感は抜群。

器用で小回りも苦にせず距離も持つ、外枠だけが少し不安だが持前の脅威の末脚とど根性で克服する。

相手は・・・。

14ゴールドシップ(牡5)・4ジェンティルドンナ(牝5)・15エピファネイア(牡4)は、強敵でしかたあるまい。

3歳馬の勢いを買って3ワンアンドオンリー(牡3)皐月賞2着の6トゥザワールド(牡3)、ともに騎手も魅力だ。

有馬、天皇賞・春ともに2着で長距離ではしぶとい、9ウインバリアシオン(牡6)

連勝中の上り馬7ラストインパクト(牡4)は末脚強烈、不安は騎手だけ。

最後に、復調気配の10フェノーメノ(牡5)を押える。

結論

三連複軸1頭流し 15-3・4・6・7・9・10・13・14 28点

レース後、結果追記する。

結果追記

今年のグランプリ有馬記念のスタートが切られる。

内枠の2ヴィルシーナ(牝5)が、押してハナを切る。

驚いたのは15エピファネイア(牡4)で、外枠から早めに2番手につける。

すんなり 4ジェンティルドンナ(牝5)が3番手、次に1トーセンラー(牡6)で内枠勢が続く。

14ゴールドシップ(牡5)は中団の後方、15シャスタウェイ(牡5)は外枠の影響をもろに受け後方から3番手となる。

そのまま淡々と流れ、動いたのは3コーナーから。

14ゴールドシップ(牡5)がスパートし上がって行き、9ウインバリアシオン(牡6)10フェノーメノ(牡5)もそれに続く。

4コーナーから直線に入り2ヴィルシーナ(牝5)が下がって、インから15エピファネイア(牡4)が先頭に立つ。

その外に4ジェンティルドンナ(牝5)と5ラキシス(牝4)、そして大外には上がってきた14ゴールドシップ(牡5)がいる。

15シャスタウェイ(牡5)はというと、大外を回されながら懸命に追い上げてくる。

あと200を過ぎ15エピファネイア(牡4)と4ジェンティルドンナ(牝5)が叩き合うも、ジェンティルの末脚がいい。

その外では、5ラキシス(牝4)に代わり同じ赤帽の6トゥザワールド(牡3)が先頭に迫ってくる。

さらに外から、14ゴールドシップ(牡5)も負けじとじりじりと追い込む。

この辺りでは15シャスタウェイ(牡5)しか見てなく、大外からものすごい勢いで追い込んでくる。

「行けるぞ~、差せ~」我忘れて大声を張り上げるも・・・。

スローからの瞬発力勝負では絶対の自信がある4ジェンティルドンナ(牝5)が優勝、有終の美を飾る。

3歳馬トゥザワールド(牡3)が写真判定で14ゴールドシップ(牡5)をハナ差押さえて2着に大健闘も、ビュイックの腕は魅力だった。

14ゴールドシップ(牡5)が貫禄の3着で、やはり中山と阪神の安定感は健在だった。

 肝心の15シャスタウェイ(牡5)だが、最速の末脚を発揮したが14ゴールドシップ(牡5)にクビ差とどかず何とも惜しい悔しい4着。

この瞬間また馬券がハズレた、「終い良ければ、すべて良し」とはならなかった。

13エピファネイア(牡4)はゴール寸前失速して5着に落ちるも、4強はすべて掲示板に載った。

15ジャスタウェイ(牡5)は外枠だけが不安材料だったが、もう少し内枠ならばもっと前に行けたはずだ・・・あとの祭り。

15ジャスタウェイ(牡5)も4ジェンティルドンナ(牝5)同様、これが引退レースで種牡馬になる。

有馬記念の鉄則は、「内枠に入った先行タイプの実力馬を狙え」だ。

三連複 4-6-14 15,250円 ハズレ

今年のちよ馬券も無事に終了したが、突然で申し訳ないがここで重大な発表がある。

あまりにも当たらないこのちよ馬券、責任を取って今回をもって終了とさせていただく。

長い間ご覧いただいた極々少ない皆様、本当にありがとう。

それではよいお年を、さようなら。