ぼやき、ぼやき、ぼやき(^^;)

元助監督で映画キャスティングマンの

「幻の町」 1976年 北海道放送 脚本:倉本聰

2020年05月29日 | こらむ
「幻の町」 1976年 北海道放送 脚本:倉本聰

いやーこれは傑作! 感動した!46年前のドラマ。すごい。主演が笠智衆さんと田中絹代さん、そして桃井かおりさん。二人は、サハリンの真岡の地図を思い出しながら、調べながら小樽へやってくる。そこで、桃井かおりと出会うが、桃井はその地図が真岡でない事に気がつく。でも老夫婦は、真岡と信じ切っている。しかし、それもわかってくる時が来る。そして、真岡は幻の町となってしまう。哀しい・・・この撮影の翌年、田中絹代さんは亡くなったそうだ。悲しい。これが46年前に製作されている。すごいの一言。今のドラマなんか、砕け散ってしまうほどのインパクトがある。

録画DVDで鑑賞 「火花」

2020年05月29日 | 映画の光と影
録画DVDで鑑賞 「火花」

こう書くと失礼ですが、あまり期待しないで見ました。ところが、おもしろかった。おもしろかった。菅田将暉と桐谷健太はすごく頑張っていました。ボロボロになっていく桐谷健太が、とてもかわいそうでした。きっと、こういう人いたんだろうな、男なのに豊胸手術なんかした芸人仲間がいたんだろうなぁと思わせてくれました。最後にもうひとつ「何か」があれば、大傑作になっていたと思った。いろいろ考えさせられた映画でした。

「交換結婚」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第13回 ドラマ女の四季シリーズ(1時間番組)

2020年05月29日 | こらむ
「交換結婚」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第13回
ドラマ女の四季シリーズ(1時間番組)
放送日:1987年11月2日
出演:山口果林 林寛子
監督:帯盛迪彦
制作:シルバーフォックス

たぶん、私の初チーフ助監督の番組です。私は34才になっていました。映画監督になるには、もうとっくに「私の旬」は終わっていましたが、私の周りの素晴らしい先輩達も、なかなか監督になりきれずにいました。そんな先輩達を追い越して監督になるなんて、当時夢物語に思っていました。あの先輩達が監督になれないのに、まだチーフ助監督もしてない自分が、監督になれるわけがない。そんな事を普通に思っていました。その2年後には、北野武監督が「その男、凶暴につき」という映画で、異業種監督として、助監督経験もないまま監督する時代になるのです。まぁ、私がその映画のキャスティングをする事になるのですが・・・そんな事想像もせず、ただ、まずチーフ助監督にならなければいけないというふうに思っていました。
世の中は、バブルに突入していました。そのせいで仕事も増えて、私のような新米チーフ助監督にも仕事が舞い込んで来たのですが、しかしなかなか映画の仕事は来ず、フィルムの仕事も減り、だんだんとビデオが中心のTVドラマで生活をしていく事になります。妻子がいたので、仕事を選んでいる場合ではありませんでした。この番組で、やっとチーフ助監督としてキャリアを積みはじめたのです。
この番組になぜ呼ばれたのか、はっきりと覚えていません。全く知らない制作会社でした。たぶん大映TV系のスタッフの方の推薦があり、電話があったように思います。新米のチーフ助監督とわかって誘っていただいたのですから、本当にありがたい事でした。。1時間ドラマだったことも、私にとって好都合だったと記憶しています。1時間ドラマですから、撮影は1週間から10日前後。これぐらいなら、やれると思いました。監督は、大映の帯盛迪彦監督でした。帯盛監督は当時TVドラマ「ハングマン」などをやっておられましたが、大映映画「夜の診察室」の監督で、公開当時、九州唐津の高校生だった私は、ちょっといやらしいそうなタイトルのこの映画を、こっそり見に行った事をよく覚えています。松坂慶子さんが主演で、その美しさにしびれました。併映が関根恵子(高橋恵子)さん主演、「遊び」でした。監督にはそんな話をしませんでしたが、今思い返せば、そんな思い出を話せばよかったなぁと思います。しかし、初めての監督との仕事だったので、そこまで懐に飛び込めなかったし、緊張もし、油断も出来ませんでした。初チーフだったので、きっとはりきったと思います。山口果林さんと、林寛子さんがタイトル通り、夫を交換するという話なんですが、ストーリー的に、かなり無理がありましたね。ラストの下着のファッションショーも、難しかった。撮影が終わって仕上げに付いたのですが、その時、予告編を作る人が決まっていなくて、私におはちが回ってきました。当時、予告編は、演出部が作る事が、フィルムの世界ではよくありました。私も、そんな事で予告編を作ってみましたが、プロデューサーにボロクソに言われた事を、すごく悔しく覚えています。初チーフ助監督として頑張りましたが、最後に悔しい思い出が残りました。




「迷探偵記者羽鳥雄太郎と駆け出し女刑事(4) 山陰の秘湯湯村温泉に殺意が走る!」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第12回

2020年05月24日 | こらむ
「迷探偵記者羽鳥雄太郎と駆け出し女刑事(4) 山陰の秘湯湯村温泉に殺意が走る!」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第12回

放送日:1987年10月3日 土曜ワイド劇場
出演:田中邦衛、中原理恵、平幹二朗、島村佳江、田中隆三、相築彰子(相築あき子)
監督:吉田啓一郎
制作:仕事

迷探偵記者羽鳥雄太郎と駆け出し女刑事(4) 山陰の秘湯湯村温泉に殺意が走る!
宝石ブローカーが殺され、大金が盗まれた。警視庁の女刑事が芸者に変身して犯人を追う。

田中邦衛さんと、TVでは3本目の仕事でしょうか。この頃は「ヨシカワーッ」とあのダミ声で呼んでくれるようになっていました。そうやって親しく呼んでくれたのは、他には大杉連さんかなぁ。大杉さんは、ふざけて「よっちゃん」と呼んでくれました。その頃みなさん年上だから、上から声をかけていただいた感じでした。今は、親しい俳優さんがみな年下になってしまって、かしこまって「吉川さん」と呼ばれる琴が多いです。時がたつのは早いなぁ。
熊井啓監督つながりで、俳優座映画放送、(株)仕事からよく声をかけていただきました。だから、田中邦衛さんとの仕事が多かったのです。1984年あたりからセカンド助監督やっているので、セカンドで3年目になっていました。じつは、この番組には助監督としてエンドロールに名前がのっていますが、実は現場の演技事務的な仕事を担当していました。チーフ助監督が、新村良二さん(今は、刑事9係などの監督)その下に私、私の下にあの佐々部清さん、つい最近亡くなりましたねぇ・・・ショックでした。その下に八木準一郎(現在は、監督)。みんな監督になって、監督になっていないのが、私だけ。なんで・・・・才能なかったんだなぁ、私。佐々部さんはこの時から優秀な男でした。
私がこの番組で、なぜ現場演技事務のパートだったかというと、話せば長くなるのですが、私、そろそろチーフ助監督になろうとしていたのです。セカンドを卒業しようとしていたんです。サード7年、セカンド3年目。サードが長かったぶん、セカンドは意外と早く慣れていました。たぶんこれでセカンド卒業という意味をもった番組でした。次は、チーフになろうと心の中で思っていました。でも、チーフになりたいと自分で思っていても、誰かに声をかけてもらえないと、チーフにはなれません。助監督10年目でやっと、チーフ助監督です。年齢もすでに34才になっていました。のろまですね(笑)
この番組には、田中隆三くんが出演していました。彼とは1984年公開の「海に降る雪」で一緒でした。私がサードのカチンコ助監督。彼はまだ全くの新人でした。お互いに少しずつ成長して、再会したのです。なんか照れくさくて、あまり話をしませんでしたね。よく覚えているのは、あのガラガラ声で、役者をしかり飛ばす、吉田啓一郎監督です。昔気質の監督ですが、とても愛情のある監督でした。いまも、現役です。こんなタイプの監督最近はいませんね。ガラパゴス監督と呼ぶと、怒られそうです(笑) スタッフや俳優を大声で呼び捨てにしますが、そうやって距離感を詰める演出がうまかった。こんな監督は本当に少なくなってきました。憧れます。
当時の土曜ワイドは、脚本・音楽・監督などの御本人が画面に出てきて、スーパー入りで紹介されました。誰が始めたんでしょうね。今見ると、とても懐かしいです。現場の我々は、ストーリーとは別に撮影しなければならないので、面倒だなぁと思っていたのです(笑) しかし現場にきた脚本家の方々などは、なんだかそわそわしていて、嬉しそうだったのを覚えています(笑)監督は、自分で自分をどうとるか説明するのですから照れますよね(笑)






「女が会社に辞表を書くとき」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第11回

2020年05月21日 | こらむ
「女が会社に辞表を書くとき」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第11回
月曜ワイド劇場
放送日:1986年5月26日 オンエアー
出演:斎藤慶子(斉藤慶子)、手塚理美、野際陽子、大和田獏、下条アトム、神山繁、中島唱子、松本明子
監督:久野 浩平
制作:ANB PDS



斉藤恵子さんと手塚さとみさんの、OL奮闘記でした。斉藤慶子さんは、同じ課の大和田獏さんと結ばれるが、結婚を意識し始めた頃、大和田さんが転勤、そして彼の恋人のうわさを聞いて・・・

セカンド助監督となり2年ぐらい経験を積んだ頃でした。このころフィルム撮影と、ビデオ撮影が入り交じっていて、そのせいでフィルムのスタッフ(映画のスタッフ)とビデオのスタッフが、合体したようなスタッフ構成が多くなってきました。この番組は、TVスタッフがメインでしたので、助監督ではなくADさんと呼ばれていたかもしれません。スタジオのセット撮影に入ると、ADさんと呼ばれ、ロケの1カメで撮影するときは、助監督と呼ばれていたように思います(^_^) つまりスタジオで多くの(4つぐらい)のカメラを使い、ワンシーンワンカットで撮影する時は、ADさん。ロケの1カメで1カットごとに撮影する時は、助監督さんでしたね(笑)
この作品の思い出は2つあって、一つは衣装合わせの時でした。衣装合わせの前日、監督から「明日の衣装合わせは、あなたたちがいいと思ったら、役のイメージで間違っていないと思ったら、それでよいですから。やっておいてください」と言うのです。これまでそんな事言う監督には出会った事なかったので、私はすごく驚きました。衣装合わせに、監督こないんですかぁ・・・・衣装合わせは、まず監督と出演者が挨拶してから始まります。初対面の時は、「はじめまして」何度か仕事をしている時は「やあやあ、元気だった?」と握手しあいながら、なごやかに進んでいきます。その重要な衣装合わせを、我々スタッフに任せると言うのです。

現在でも思うのですが、この監督は一部正しいかもしれません。当時、50代だったはずの久野監督が、20才台の若い女優さん達、OLさん達が着るようなファッションに詳しいはずがありません。親子ほどの差がある衣装部さんや助監督に「監督、これでよいですか?」と聞かれても、判断が出来るとは思えないのです。現在の衣装合わせに至るまで、この状況は変わりません。30代、40代の監督であれば、何かしら意見があるかもしれませんが。儀式のように進む、この衣装合わせが私はとても嫌いです。しかし、それ以降一度も監督なしの衣装合わせに出会った事はありません。もちろん、EX的出演者や、制服合わせぐらいであれば、監督がいない事もありました。衣装合わせには、ただ単に衣装を合わせるだけでなく、役のイメージを監督と出演者そしてスタッフが共有する場所でもあります。役のイメージについて、出演者が質問したり、小道具、メークさんから持ち道具や髪型、傷跡などの質問を監督にする場所でもあります。しかしながら、もし監督が衣装合わせに来なかったとしても、スタッフからの質問は、他の準備日に質問できるし、出演者と監督との顔合わせ打ち合わせも、他の日にすればよいのです。監督は衣装合わせに行きません宣言という、合理的な判断をされた久野監督に、私には驚かされました。グズグズ煮え切らない監督より、はっきり割り切る監督は、潔くて素敵だと思いました。

もう一つは、ある日ロケが終了した時、チーフ助監督から「事務所に先に戻ってるから、サードと一緒に戻って」と言われました。何かあるのかよくわかりませんでしたが、別に仕事もないと思うので、ロケ終了後、サード助監督には「帰っていいよ、明日の撮影に鋭気をやしなっといて」と私の判断で帰して、私だけ事務所に戻りました。事務所に私一人戻ると、チーフが「あれ、サードは?」言うので、「帰しましたけど、何かありました?」と応えると、「えー、これから割り本の原稿を整理して、印刷出さなきゃいけないのに・・・」と言われました。そうか、スタジオ撮影で使う割り本を作るんだ。それはADさんの仕事なんだと、初めて知りました。前回のスタジオドラマの時は、割り本作りに参加していなかったので、その事を全く知らなかったのです。製作会社によって事情は違うと思います。AP(アシスタントプロデューサー)みたいな方々が作る場合もあるでしょう。何も知らないでサードを帰してしまった私は、チーフと二人で深夜までシコシコと割り本作りに精を出したのでした(泣)



録画DVDで鑑賞 「高校教師」 1972年公開

2020年05月20日 | 映画の光と影
録画DVDで鑑賞 「高校教師」 1972年公開

寡黙な印象のアラン・ドロンは好きです。私も20才頃は粋がって、こんな雰囲気な男になりたかった(笑) 撮影も光と影、霧をうまく使って、他のアラン・ドロン映画とは一風違います。
舞台の町、リミニはフェリーニの故郷。最初は、マストロヤンニが最初はやるはずだったが、スケジュール調整ができなかったらしい。たしかに、マストロヤンニでもぴったりだった。監督のズルニーニもアル中で早死にしたらしい。この主人公もそんな感じがする。

「還らざる人」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第10回

2020年05月19日 | こらむ
「還らざる人」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第10回
金曜女のドラマスペシャル
放送日:1985年12月20日 オンエアー
出演:長山藍子、田中邦衛、山本 亘、山口美也子、
監督:井上昭
制作:大映映像・CX

2年前「「霖雨の時計台」の頃から、なにかと目にかけてくれた井上昭監督の作品にまたもや参加出来ました。記憶をなくした田中邦衛さんを、妻の長山藍子さんが5年ぶりに見つけ出したものの、山口美也子さんという恋人と同棲していた。そして、その山口さんは邦衛さんの子供を妊娠しているという設定です。今、見直してもすばらしい作品で、ドラマ構成、カメラワーク、すべてにわたって井上昭監督の息がかかっている作品です。

なんども踏切が出てきて、井上監督は踏切が好きなんだなぁと思うし、ナイトロケが美しく、技術スタッフも優秀でした。見直して驚いたのは、同棲していた古いアパートの2階外階段から、山口美也子さんが転げ落ちるスタントは、すごい。怖い。スタントマンはよくやったなぁと思います。真後ろに倒れて落ちるんですから、命がけです。こんなシーンをあまり覚えていませんでした。セカンド助監督って、俳優さんのキュー出しで、意外とカメラ側にいなかったり、次の段取りで頭は先に回転していたりしていて、俳優さんの芝居をしっかり見ていなかったりします。それではダメですよね。でも、フリーランスの助監督に求められる事は、滞りなく現場を進行させる事なんです。そのあたりが、大手の社員助監督さんより、シビアに求められたのです。予算がなかったからですね。それと、大手の社員助監督さん達は、次期監督候補生として、スタッフからしっかり一目おかれていたように思います。助監督だけど、監督修行をしている人達という認識。我らフリーランス助監督は、ともかく現場を進行させる段取り屋でした。でも、この番組の井上昭監督とそのスタッフは、ちゃんと監督候補生と見てくれていたように思います。すばらしいスタッフ達でした。みなさん、大映や日活など出身の方々だったので、その雰囲気が残っていたように思います。たんなる段取り屋として成長するのではなく、井上監督の演出術を、もう少ししっかり見ておかねばなりませんでした。あの時、長山藍子さんと田中邦衛さんの、気持ちを吐露しあう最高のシーンを、しっかり心に刻まずに、段取りばっかり考えて現場にいた事を、強く後悔しています。

この番組の中で、段取り的にやっぱり失敗をやらかしているのを、発見してしまいました。上野駅で撮影をした時のことです。電車の中に、長山藍子さん。ホームに彼女を見送る田中邦衛さんというシーンです。カメラは電車の中から、長山藍子さん越しに田中邦衛さんを撮影しています。カメラも監督も電車の中です。私が、田中邦衛さんの側の柱の陰に隠れています。ホームのスタッフは、セカンド助監督の私一人です。トランシーバで連絡し合ったかどうかは忘れましたが、ドアが閉まる前からカメラは回す予定でした。ドアが閉まって、電車が動き出したら、もうカメラは回っています。監督の「よーい、スタート」の声もなく本番です。緊張しました。失敗すると、もう一度上野駅に戻ってくるという、面倒な事になります。

私は、柱の陰に隠れていました。邦衛さんが芝居をしている声が聞こえます。本番いってるなと心の中で思いました。そしてとっさに気がつきました。電車が動くと同時に、柱の陰に待機している私が、だんだんとカメラに映ってくる角度になって・・・はっとして、私はカメラに映らないよう回り込んで、しゃがみました。映ってないよなぁ、御願いしますと心の中で祈りました。放送分を見ると。なんとかOKでした。しかし、回り込んだ私のおしりが、ちょっと映り込んでいました(笑)危ない危ない(汗) サードの頃なら、気がつかないまま、ぼーっと柱の陰に立っていたでしょう。撮影中、カメラに映っている映像を頭に浮かべる事が、出来るようになっていたんです。ぎりぎり成長の跡があったんですね(笑) 自慢出来る話ではないのですが(笑) おそらく編集の方から、後ろで動いているあの黒い物は何だ?と指摘されたかと思います。使えるぎりぎりのところで編集していただいたと思っています。本当に、すみませんでした・・・



録画DVDで鑑賞 「ハッピーアワー」

2020年05月19日 | 映画の光と影
録画DVDで鑑賞 「ハッピーアワー」

演技経験のない4人の女性を主人公に・・・という紹介で4時間を越える大作という触れ込みには、私は全く興味を引かれせんでした。コロナショックがなければ、申し訳ありませんが、手にとるタイプの映画ではなかったと思います。誰かが私に囁いたのです。この映画だまされたと思ってみてください・おもしろいですからと。誰だったかなぁ・・・・・(笑)いやいや、見始めたら止まらない。こりゃ、おもしろい! きっと評価が分かれる映画だと思いますが、私はおもしろかったです! 素人のヘタウマ感満載だけど、なぜか心に響いてくる。なぜだ? どんなに派手なカンフー香港アクションで見せようが、大スターを持って来ようが、足が地に着いた映画にはかなわない。天地がひっくり返るぐらい面白かった。

録画DVDで鑑賞 「天使の涙」「楽園の瑕」「ブエノスアイレス」

2020年05月18日 | 映画の光と影
録画DVDで鑑賞 「天使の涙」「楽園の瑕」「ブエノスアイレス」

今頃、ワン・カーウェイ監督にはまってしまって、続けて見てしまいましたが
「天使の涙」 ちょっと調子に乗って、セリフも映像もはしゃぎすぎの印象
「楽園の瑕」 なんで砂漠で撮影しなきゃならないのか
「ブエノスアイレス」 ホモセクシュアルが露骨できつい
と連続に挫折してしまった・・・

javascript:void(0)javascript:void(0)

「家政婦は見た#3 エリート家庭のあら探し 結婚スキャンダルの秘密」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第9回

2020年05月18日 | こらむ
「家政婦は見た#3 エリート家庭のあら探し 結婚スキャンダルの秘密」 自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第9回
土曜ワイド劇場
制作 - テレビ朝日、大映テレビ
放送日:1985年6月29日 オンエアー
制作:大映テレビ・ANB
出演者:市原悦子・前田吟・長谷直美・鈴木瑞穂・初井言榮・松原智恵子
監督:富本壮吉

30才でセカンドになり、2年目に入り、ちょっと自信をつけてきた頃だったと思います。人気シリーズになりかけていた「家政婦は見た」に呼ばれました。どういう経緯で、この番組についたかもう記憶がさだかではありません。チーフ助監督は大映テレビの方だったと思います。すごいパワフルな方でした。私はセカンドに出世して一度挫折しましたが、セカンドとしてもう一度復帰すると、今度はすぐに慣れてきました。このパワフルなチーフにもついていけるようになっていたのです。なんだか不思議です(笑)
バブル時代に入りかけた時代で、仕事も少しずつ増え、新米セカンドにも仕事が舞い込んで来ました。映画をやりたかったんですが、なかなかそのルートから声がかかりません。結婚して、子供も出来たりしたので、TVドラマの仕事をやって生計を立てているのが現実でした。映画の仕事って、監督、その映画のチーフ助監督などから声がかからない限り、なかなか入り込めない世界でした。。ですから、TVの2時間ドラマを中心に仕事をしていました。TVドラマの撮影も16ミリのフィルムの時代から、ビデオの時代になっている途中でした。フィルムだけでは生きていけない時代に突入していました。助監督という呼び方ではなく、ADさんと呼ばれそうな時代になって来た事を記憶しています。
この番組の思い出は、富本荘吉監督がものすごい早撮りの人だったという事です。早撮りの監督は、この業界で有名な監督が何人かいらっしゃいますが、私が遭遇した監督の中では、ダントツに早かったです。 ある日のロケ現場で、カメラ横にいる監督が「よーい、スタート」と声をかけました。私もカメラ横にいました。俳優さん達が芝居を始めます。あれ?監督が、するするとカメラから離れて行きます。移動しながらじーっと芝居を見ています。監督の移動が終わると同時に芝居も終わり、監督「はい、カット、次、ここ」と次のカメラポジションの位置にいるのです。えー!! 監督はもう次のカメラポジションに移動して、自分の胸あたりに手を置いて、「ここここ、次ここカメラここ」って感じで、スタッフを呼んでいるのです。我々スタッフはあわてて、監督のいる位置にカメラを担いで移動します。監督は、もう先の事が気になって、待てません(^_^;) それから私は、さらに異常な出来事を目撃する事になるのです。

その日最終カットの時でした。撮影も順調に進み、夕方も早い時間でした。カメラ横で「スタート」と声をかけた監督は、またもやするすると移動していきます。私は、次のカットはないのにどうするんだと、横目で見ながらそう思ってしまいました。芝居が終わるや否や、「カット、はいお疲れさん」と言って、監督は自分の自家用車のドアを開け、乗り込んでいます。なんと、監督は自分の車が駐車している所に移動して、カットをかけたのです!自分の車が、ロケ現場近くに停めてあったのです。そんなに早く帰りたいのか(笑)! 早く帰りたいというより、早撮りをする事に充足感を感じておられるようでした。さっそうと運転して帰る監督を、唖然として私は見送りました・・・・・


「母の尋ね人」自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第8回

2020年05月17日 | こらむ
「母の尋ね人」自分が参加したTV番組をもう一度見直してみようシリーズ第8回
木曜ゴールデンドラマ
オンエアー日程不明→どうしてもわからない
出演:市原悦子・鶴見辰吾・村井国夫・野村真美
監督:河野 宏
制作:PDS
小料理屋をやっている市原悦子は、若い頃に産んだ子供を施設に置き去りにした過去がある。生活が安定した頃、その子供を探そうと、新聞の尋ね人蘭に、1年以上にわたって広告を出していた。板長の村井国夫さんと結婚しようと決めた時に、突然、尋ね人(鶴見辰吾)が戻ってきて

このドラマのデーターだけがどうしてもヒットしません。録画ビデオはあるのですが・・・1986年から1987年頃と思われます。私はセカンドになっていたはずで、やっとビデオドラマの撮影に慣れて来た頃でした。その頃撮影スタジオでは、当日の撮影分の割り本だけを持って撮影していました(いつ頃からそうだったか、私は知りません)。ロケーションもそうだったような記憶があります。本来フィルム撮影のドラマであれば、全体の台本を持って撮影するし、私はそのように育っていました。しかし、スタジオドラマという4カメの世界では、当日の撮影分だけカメラ割り用のラインが引いたものが印刷されて、スタッフに渡されます。当日分ですから、薄い物でした。それをGパンの尻ポケットにつっこんで撮影に挑みます。その割り本を作るのは、監督と演出部、技術スタッフ。整理して印刷に回すのが、アシスタントプロデューサーの仕事のようでした。制作会社によって、その役割はかわってくると思います。このドラマの時、自分が割り本作りにどうかかわったか全く記憶にありません。たぶんチーフ助監督の示野さんと監督で割りを切って(カット割りを作って)、印刷に回したと思います。なぜなら、私がそのような事に慣れていないということを、御存知だったからではないかなと、今は思います。フィルム育ちのADさんには、頼めない事と思われていたのかもしれません。撮影が終了すると、スタジオのあちこちに、割本の残骸が捨てられていて、心が痛んだ事をよく覚えています。大切な台本を、撮影現場に捨て去っている・・・フィルム育ちの私には、信じられない光景でした。その日のスタジオ撮影にしか参加しないスタッフが大勢いたから、しょうがなかったのかもしれません。私も、だんだんと慣れてしまいました。良くも悪くも、スタジオドラマ撮影は、1シーンワンカットで、大量の分量を撮影していました。
私がなぜスタジオドラマに参加するようになったかというと、やはり時代とともにフィルムの番組が減ってきたからでしょう。私もビデオ番組に慣れなくてはいけないという気持ちもありました。映画の仕事は、私を映画の世界に入れていただいた熊井啓監督以外には、あまり「つて」がありませんでした。その「つて」で映画の仕事のお誘いがあるのです。「お吟さま(1978)」「ザ・ウーマン(1980)」「天平の甍(1980)」「謀殺・下山事件(1981)「幻の湖(1982)「海に降る雪(1984)」など1年に、1本の映画の仕事。それも熊井啓監督がらみばかり。それでは生活していけませんでした。
ロケの思い出は、おじゃました川治温泉の料理が最高で、プライベートで絶対行きたいと思っていました。しかし未だに実現していません。たしか、川治温泉高原荘だったと思います。ネットで調べたら2017年に閉館となっています。ああ、またひとつお礼が言えなかった・・・・出演者の一人、野村真美さんが美しくて、また現場で会いたいなぁと思っていましたが、それも果たしていません。市原悦子さんとは、その後もご一緒する事はあったのですが・・・(笑)javascript:void(0)