息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

沖縄知事選 つかの間の安堵だが

2018年09月30日 22時43分51秒 | わたしごと
「沖縄県知事選が30日投開票され、前自由党衆院議員の玉城(たまき)デニー氏(58)が、前宜野湾市長の佐喜真(さきま)淳(あつし)氏(54)=自民、公明、維新、希望推薦=ら3氏を破り、初当選した。」(朝日)

 沖縄が、「本土のため」に、犠牲になってきた歴史を考えれば、当たり前の結果なのだが、その苦しさ、惨めさ、怒りを、政府はこれからも無視し、望みを踏みにじっていくことだろう。

 諦めてはならない、それが今回の教訓だ。

 それにしても、公明党とは、いったいなんなのだろう。
 自民の支持団体となって堕落した、この腐りきった政党に、改めて怒りを抑えきれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ただ ただ 祈る

2018年09月30日 20時21分39秒 | わたしごと
 諦めと、現状追認という、「閉塞」を選択しないでほしい。
 本土のノー天気にも、政権の暴虐にも、喝を入れる選択をしてほしい。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「職場を変えていく」という発想と素地のない若者と

2018年09月27日 22時32分21秒 | 教育を考える
 従順なこと
 愚痴が多いこと

 それもそうだろう
 「職場を働きやすく・働き甲斐あるものに変えていこう」とする発想にたどりつくことのないものたちには、従順と愚痴にしか「生き甲斐」を見いだせないものである。
 その発想は、「自分にとって」「我々仲間にとって」の範囲のものでしかなく、結局は「利己的な」行動しか思いつくことしかないだろう。

 ひっそりと「自分を守る」

 そんな若い教員が増えている。

 学びが貧弱であり、これまで生きてきた歴史に、微々たるものといえども、「社会を変革する」体験がなかったせいだ。

 そんな人間に説くことは、えらくしんどいものである。

 それでも諦めてはいけないことは分かっている。

 が。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「銀婚式」 篠田節子 

2018年09月26日 22時22分51秒 | こんな本を読みました
 ビジネスマンが、一生の中で、おそらくは1回や2回経験するだろうと思われること(恋愛、仕事と家庭、離婚、派閥、挫折・・・)を、小説の主人公ならでは、思い悩みながらも、乗り越えていく過程を描いたもの。
 
 佐川光晴とは、また違った様相の「誠実さ」が心地よい。

 そんな作品ばかりを選ぶ私には、つまらぬ「真面目」気取りがあるのだろうか。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カメレオンの如き 墓守蛙

2018年09月24日 11時31分33秒 | 奇妙な風景
 茨城に墓参りをしたとき。
 墓地には、たくさんの蛙がいるのは、よくあることだ。
 今回も、一匹の蛙と出会う。

 ただ、この蛙。
 自分の居る場所の色により、自らの色を変えるのだ。
 撮影に1分弱の時間差があって、同じ蛙かどうかは、なんとも言えないところもあるが。
 写真をよく見ると、徐々に「変色」していることが分かるのでは。

 蛙については何も知らないが、カメレオンのような蛙がいても、なんら不思議ではない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卑劣な「期日前投票」

2018年09月23日 18時22分11秒 | 言葉の勘違い
「勝利の方程式」の一つだとして、自民党は、沖縄県知事選挙に際して、期日前投票を推進することを指示している。

この一つをとってみても、「自民党」とは、自由とも民主主義とも、まったく無縁の政党だということが分かる。
各陣営の政策を、じっくりと闘わせて有権者の選択を仰ぐ。それでは勝算がないから、とにかくツバを付けた奴から、片っ端から、投票所に連れ込んでしまえ。なにがなんだかわからないうちに、カネや職権や、利権や縁故を駆使して、票をかき集めろ。
そんな目的で指示する期日前投票なのだろう。

卑劣極まりない手口だ。

仮に当選したとして、その勝利宣言で、「県民から理解された」とコメントするのだろうか。

ペテン師集団、自民党!

そんな言葉さえ、思わず吐いてしまいたいくらい怒っている。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍三選 まだ俎に載っているだけでもいいか

2018年09月22日 10時09分08秒 | わたしごと
 安倍三選も、くよくよしている場合ではない。
 おおぼらと、嘘と、論理のすりかえと、多大な偏見と見栄とを併せ持つ彼のことだから、今後も大いに「失政」「失言」「迷走」「暴走」していくことだろう。
 石破氏に目先が移って、争点がぼけないだけ幸運かもしれない。

 国民の生活は、ますます「じり貧」になるだろうが、それだけ彼の無能さと、公明も含めた与党の腰砕け様が鮮明になってくろことだろう。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運動会まで 私は二重人格者になる

2018年09月20日 20時09分17秒 | 教育を考える
 5年ほど前のブログに、運動会に教育的な価値を見いだせるかと、次のような文書を書いた。
 もう何回も書いている内容のものだ。

「何回も書いていることだが、昨今の運動会は、児童の自主性を育てるというよりも、「いかに見栄えをよくするか」「統制のとれた動きをするか」「シナリオ通り、子どもが動くか」を主眼とするものばかりで、少しも教育的に価値のある行事とは思えない。
台本を渡して「せりふ通りに話しなさい・動きなさい」「歯をくいしばれ」
できない子には、容赦なく怒声が飛ぶ。
子どもも親も、完成品を見るだけで、「達成感に感動した」として、その取り組みを疑うことすら忘れてしまっているかのようだ。
「拍手をたくさんもらえてよかった」「みんなとひとつのものを仕上げた喜びがある」「かっこよかった」
それはそうだろう。
しかし、なにがそこから得られたのかは、誰も問わない。
どこかの国のマスゲーム。それとどこが違うのか。
軍隊の規律ある行進と、どこが異なるのか。」

 また運動会が近づいている。
 今朝も校庭で、応援係の子が、「声が小さい」「もっとビシッとせい!」という「罵声」に近い声が聞こえてきた。

 もう何十回も経験してきたが、「学力」の優劣をあげつらうことは御法度なのに、なぜスポーツの世界は許されるのか。
 お祭りだからいいじゃないかという声もあるが、それならなぜみんなが楽しむことを優先しないで、「統一のとれた行動」だけが指導されるのか。
 「楽しむ」のなら、そのためのアイデアを子ども達と一緒に考え。企画していくことが、それこそ教育的価値があるのではないか。
 創造性という点でも、教員がダンスの振り付けを考え、それに従って踊ることが共有される実態だ。
 応援も、毎年同じ台本で、オウム返しのせりふが交わされるだけ。
 気をつけは、足の開く角度は何度。「体操の隊形に」と言ったら、手を腰において、動く方向に体を向ける。
 「おはようございます」を言ってから、礼をしなさい。
 行進は、しっかり手をふって、脇目をしない。前後左右をそろえなさい。(自衛隊の予備軍を作っているかのように指導だ)

 毎年、批判しているが、なにも変わらない運動会だ。
 子どもには、「楽しもう」だけではすまない、逃れられない状況が、どんどん進んでいく。
 
 運動会は、私を二重人格者にする。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石垣りんの詩「くらし」

2018年09月18日 22時06分48秒 | すてきな詩にひたりませんか
 引用がまずいと知りつつ、あえて。

 くらし

 食わずに生きてゆけない。
 メシを
 野菜を
 肉を
 空気を
 光を
 水を
 親を
 きょうだいを
 師を
 金もこころも
 食わずには生きてこれなかった。
 ふくれた腹をかかえ
 口をぬぐえば
 台所に散らばっている
 にんじんのしっぽ
 鳥の骨
 父のはらわた
 四十の日暮れ
 私の目にはじめてあふれる獣の涙。

 みなさんが、どう解釈しようと自由だが、同じことを感じていた彼女の詩と出会ったとき、私は身震いした。
 ああ、こんな言葉で表せばよかったのだ。
 
 うまい文章、詩とは、隠れているものを表に出すからこそ価値があるのだ。
 人の書いたものに代弁してもらう、至らぬ自分に腹が立つ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしかして葛藤すらない発言か 安倍首相について

2018年09月17日 17時43分47秒 | 言葉の勘違い

「再三、申し上げておりますが、約4000ページの決裁文書や、あるいは交渉記録が公開されましたが、この点について、私の指示や妻が関与したということは一切出ていないということは申し上げておきたいと、こう思っております。そして、獣医学部の問題点についても、私の友人であるということで、さまざまなご批判がございました。しかし、プロセスにおいては、一点の曇りもないということは民間議員の皆さんが口をそろえておっしゃっておられますし、交渉記録、今までの議事録についてもそれは明らかなんだろうと思います。」

 このような発言を真顔で「真摯」に話している彼が恐ろしい。
 心の葛藤があるにちがいないと思ってはいるが、もしかして彼は、本心で言っているのではないかと思ってしまう。
 この姿、現代版のホラーと重なる。

 もちろん、彼に我が国を任せるわけにはいかない。
 心から。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木訥な そして哀しい主人公 「ナイフの行方」 山田太一

2018年09月16日 23時32分21秒 | こんな本を読みました
 3年前に発行された本だ。
 最近の山田太一の描く主人公は、木訥、頑固、誠実、自信のなさ、そんな性格の男が多い。
 自らがそうだからか、昨今の老人の傾向だと思っているのか。そんなことはどうでもいい。

 ドラマの台本だけに、1時間と少しで読み終わる。
 「語らせないで」描く、山田太一の、お得意の手法だ。

 これも私にとっては、重い、いや重苦しい作品だ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉田水脈氏 藤岡信勝氏 らに欠けていること 2つ

2018年09月16日 22時42分27秒 | あれこれと
「自民党の杉田水脈(みお)衆院議員が同性カップルを念頭に「生産性がない」などと主張した問題で、きっかけとなった寄稿を掲載した月刊誌「新潮45」が「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」とする企画を10月号で掲載することがわかった。寄稿をめぐっては、人権侵害などとして撤回を求める声や批判があがっていた。

 18日発売の10月号では、8月号に掲載された杉田氏の寄稿「『LGBT』支援の度が過ぎる」について、「見当外れの大バッシングに見舞われた」と説明。「特別企画」とうたった1ページ目に、「主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に」染まったと書き、「LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考」を届けるとしている。論考は、教育研究者・藤岡信勝氏の「LGBTと『生産性』の意味」、文芸評論家・小川栄太郎氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」、元参院議員・松浦大悟氏の「特権ではなく『フェアな社会』を求む」など7本。

 杉田氏は寄稿で、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」などとしていた。世論の反発を受け自民党は8月、「問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現がある」として、杉田氏に今後注意するよう指導したとの見解をホームページに掲載した。新潮45編集部は、批判や掲載経緯などについてのこれまでの朝日新聞の取材に対し、「個別の記事に関して編集部の見解を示すことは差し控えさせて頂きます」と答えていた。」(朝日)


 杉田水脈衆院議員は、おそらく真面目に自分が正しいと信じているのだろう。何を考えようと、彼女の勝手だが、残念ながら、彼女に足りないのは、人の意見を素直に聞く力と心。また、「自分の意見を相対化」して考え直してみる謙虚さ。
 この2つだけだが、それらは彼女にとって、(誰にとってもそうだが)致命的なのだ。
 だから、何を言われても、彼女は持論を曲げないだろう。謝罪もしないだろう。そして、批判者をことごとく「敵」と見なすだろう。
 
 久しぶりに、記事の中で「藤岡信勝」の名前を見た。
 ああ、まだ御用学者として活躍して(しようとして)いるのだなと、哀れな末路に心が痛む。(本人はそんな自覚はないかもしれないが)
 彼女とは、新しい歴史教科書をつくる会の同志だから、守るのは当然か。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分の人生に伴走するもの 安室・サザンはちがったなあ

2018年09月16日 00時55分06秒 | わたしごと
 残念ながら、安室さんも、サザンも、私の隣にはいなかった。
 嫌いというよりも、特に興味がわかなかっただけだが。
 歌に興味がなかったわけではないし、それ相応の俗的な興味は持ち合わせてもいたし。
 
 藤圭子のツヤのある唇に魅了されて、その結果、歌も覚えたこともある。
 シモンズの可愛いハーモニーが好きだった時もある。
 丸山圭子(字があっているか不安だが)の大人びた歌唱を気に入っていたこともある。
 天地真理の「天使のような」笑顔と、鼻にかかった声とのギャップに心が乱れたこともある。

 大学時代にバイトでバーテンをしていたころは、カセットテープの「カラオケ」で、洋楽から歌謡曲、演歌、フォークと、なんでも歌えた時代もあった。みなさんと同じように、自分の思い出の中には、だいたいにおいてBGMが絡みついているものだ。

 安室さんについては、2つだけ関わりがあるかな。
 1つ目は、運動会の組体操で「Hero」を使わせてもらったこと。
 2つ目は、なぜか分からないが、「えーいえんだよね」という1フレーズだけ歌えること。なんという曲かは知らないが。

 音楽というものは、なぜこれほど、たくさんの人の必需品なのだろうか。

 私にとっては、本より上位の位置を占めることはないが。
 しかし、無意識に歌っていることも多いことを考えてみると、案外「空気」のように、意識しないまでも生きる上では必須のものなのかもしれない。

 ちなみに、よく一人で口ずさむのは・・・

 「Let It Be」「恋人たちの神話」「思い出のセレナーデ」「人とし生きるために」「まぼろしの翼とともに」
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金と出世を餌にして 大阪で起きていること

2018年09月15日 08時03分10秒 | こんなもの いらない
 あまりに安易で、愚かな提言に、開いた口が塞がらない。
 子どもの多面的な力のひとつに過ぎない「学力テストの数値」のアップだけが至上命令となり、そこに「カネ」と「出世」を絡めてくる。
 卑劣といっても言い過ぎではないほどの「愚」の極みだ。
 
 1961年から行われた学力テストが、教員の勤務評定(いわゆるキンピョウ)と連動させる、国の企ての結果、どうなったか。

 ・徹底的に学力テストの練習が行われ、その結果、本来の授業は猛スピードで進み、ついてこられない子が続出。
・テストに関係のない図工、体育、音楽、技術・家庭などの授業が削られた。
・休み時間や放課後にもテスト対策時間が作られたり、テスト練習のためのプリントが宿題が大量に出されたりするようになった。

 そして、驚くような現場の実態も明らかになった。

 ・いわゆる「できない子」をテスト当日に欠席させた。またはテスト時間に保健室で休ませた
・テスト中に教師が机の間を回って正しい選択肢を指で押さえて教えた。
・教師が高得点の答案を作成し、欠席した児童・生徒の答案とした。
・「できる」子と「できない」子を隣同士で座らせ、わからないところは「できる」子の答えを見て書くように指示した。

 この1966年には廃止されたが、その愚かな試みを大阪では繰り返そうとしている。

 イギリスでも同じような失敗をしでかしている。
 当時のサッチャー政権のもとで、学力テストを実施し、それを公表し、進学校を希望制とし、集まった希望者の数に応じて予算を配分するという施策である。これにより、学校間の格差が広がり、さらには地域間の格差も拡大し、学校における不正は日本とまったく同じことが起きた。
 この結果も無残な結末を迎えた。

 最近では、2015-2016年、東京の足立区で起こった「不祥事」も教訓となるはずだ。全く同じ構図だからだ。
 「教師が、生徒間を回って、テストの間違いを指で教える」「障害のある子を集計から外す」「過去問を繰り返し練習させていた」など、なりふりかまわず、点を上げることを追求していたことが明らかになった。(その学校は、足立区の「中位」にいたのが、翌年突如トップになったとのこと)

 過去から何も学ぶことなく、餌さえばらまけば、すぐに結果が出るといった浅はかな考えを持論とする市長は、それこそ「学力テスト」のたどった歴史の「過去問」を、繰り返し勉強する必要があるだろう。


 「大阪市の吉村洋文市長は2日、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)について、2019年度から市立学校の成績に数値目標を設け、結果を校長などの人事評価に反映する制度を検討すると明らかにした。全国平均を下回る状況が続いているため、教員の意識改革を促して成績の底上げを目指す。今後、市の総合教育会議に提案し、具体策などを議論する。

 文部科学省学力調査室によると、テスト結果を人事評価に反映する仕組みは過去に例がないという。担当者は「教育指導の充実や課題の把握を趣旨としており、人事評価への活用は具体的に想定していない」と指摘。市に対し「測定できるのは学力の特定の一部分であることなどに十分配慮してほしい」としている。

 市によると、市立の小中学校全体の平均正答率について目標値を設定。各校の達成状況に応じて校長や教員のボーナスに当たる「勤勉手当」を増減させたり、校長の裁量で使える予算を変動させたりする。

 ただ、地方公務員法は職員一人ひとりの能力や業績に応じて人事評価を実施すると規定している。吉村市長は「学校全体のテストの結果を個々の教員の手当に反映することには法的な課題もある」とし、実現可能性も含めて検討するとした。

 学力テストは小学6年と中学3年の児童生徒を対象に、国語と算数・数学は毎年、理科は3年に1度実施する。07年の開始以降、市は全校を対象にした学力テストで全国平均を全科目で下回る状況が続く。政令市別の結果公表が始まった17年度からは2年連続で最下位だった。」(日経)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憂鬱な道徳授業の幕開け

2018年09月12日 22時30分57秒 | 教育を考える
 今日、私の勤務する地区の一斉研究会が行われた。
 私の所属する道徳部では、6年生の研究授業を見ることになっている。

 若手の女性教師の授業だ。自ら立候補しての公開授業である。

 新しく「特別の教科」となり、教科書が中心となる授業での初公開である。

 総じての感想。

 やはり予想していた通り、憂鬱な授業を見た。
 そして、それを否定する教師が、ほとんどいない。
 論理的に破綻した、そしてすこぶる誘導的な授業の欠陥に、本人が気付いていない恐ろしさ。
 授業の手法がにいくら力を注いでも、それを支える学習内容については、まったく表面的であり、無知ともいえるしろもの。
 こんな授業をしている若い教師が、増えてきているのだなあと、ため息。

 授業は、「六年生の責任って?」
 学校で、「ぼく」が、置きっぱなしのぞうきんを見つけ、それをぞうきんがけにもどす。
 前にも、掃除用具入れからきみだす、ほうきも見た。
 学級会で、「六年生が見回って、かたづけをしよう」と提案する。
 それに対して、山本さんが「それは美化委員会の仕事だと思う。与えられた仕事をやることが六年生としての責任」と反論。
 横山さんが、「六年生だけがやっていたら、卒業したら元にもどるだけ。六年が片付けるのも、美化委員がやるのも反対」と表明。
 ここで、話は終わる。

 ①1番のねらいは、「よりよい学校生活にしていくために、六年生としてどんなことができるだろう」がメインの発問。
  の、はずだったが、いつのまにか、「これまでの自分をふりかえろう」が、まとめの感想になっている。巧妙なすり替えである。
  「よりよい学校生活」とは、いったいどんなことを言うのかの検討もなく、「それなら、あなたたちはこれまで帰任を果たしてきたの?」と迫ってい  く。「楽しい学校生活を、みんなが受けられる」のは、子どもたちの当然の権利である。楽しい、学び合いがある、一人一人に居場所がある、そんな  学校生活のためにやれること、ではなく、「あなたたちはちゃんとやってきた?」なのである。義務、規律を押しつける授業が圧倒的に多い道徳であ  る。いつの間にか、展開の内容が改変していることに気付かない授業者。そして、見ている教師の群れ。

 ②教材の文章が杜撰である。①で書いたように、「よりよい学校生活のためにできること」が、いつのまにか「六年生の責任」といった重苦しいものに  変わっている。ペテンである。また、上に書いた三人の子どもの発言を、「さて、あなたは、だれの意見に賛成ですか」と迫る。今回は、「さあみん  なで、学級会の続きをやってみましょう」として、三択による「話し合い」(いや、ただ意見を出し合うだけだったが)をさせたのだが、そもそも三  人の意見は対立もしていないし、それぞれの視点が違うものである。さらに横山さんの意見は、賛否の表明といったもので、対案ではない。それを子  どもに論議させるのだから、そり自体無理な、そして無意味なことなのだ。このような「討論」にならないものを平気で論議させている授業者の論理  的思考は、著しく幼稚なのだろう。残念ながら。

 ③授業者は、そうとうの自信家のようだ。そして、残念ながら、授業内容について深く掘り下げようとしないとてう致命傷も持ち、そんな授業を見てい  るうちに、「ああ、こんな教師が担任として1年間そばにいたら、さぞかし子どもたちは、従順で、与えられた課題や仕事に一生懸命に取り組むこと  こそ尊いと考えるようになっていくのだろうな」と、暗澹たる思いになってしまった。

 哀しいと思ったことは、授業者が真摯に教材と向き合って、苦しんで格闘した痕跡がまったく感じられないことだ。
 いつの間にか、「従順」で「受け身」にさせていく展開に気付いた様子が感じられないことだ。
 目の前にいる子どもたちに、どんな力をつけてもらいたいのか、どんなことを教えたいのかが、希薄なこと。
 授業者にとって大切なことは、いかにスムーズに授業を進めていくか、活発に子どもを「動かす」のか、そんなものなのだろう。
 教科書、指導書を越えた実践を行おうといった意思が感じられない、ひどく残念な授業であった。

 きっと、こんな道徳が増えてくる。こんな教師が増えてくる。 学校に未来はないなあ。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする