息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

「宇宙家族ロビンソン」「タイムトンネル」「ルーシーショー」 アメリカへの憧れもあって

2017年04月03日 21時51分46秒 | 思い出を語る
 小学生時代によくテレビで見た、アメリカの番組です。
 
 他にも「名犬ラッシー」「突撃 マッキーバー」を思い出しました。
 もちろん日本語吹き替えのものですが、これら5つは、ほとんど毎回欠かさずに見ていたと思います。

 それぞれの面白さは違ってはいるのですが、「アメリカって、こんな楽しい娯楽番組があっていいなあ」「登場する家は大きくて、部屋が広くて、こんな家に住みたいなあ」といった、大国への憧れもあって見ていたことでしょう。

 「宇宙家族~」は、ドクター・スミス(熊倉一雄の声か)の妨害と戦いながら、宇宙の旅を遂行するという「ワンパターン」の話ながらも、最後にははねのけて、さらに未知の宇宙空間へと旅立つという毎回のストーリーにどきどきとていたこと。ここに登場するベニーは可愛くて、彼女を見るだけでも満足、といった人も少なくなかっただろうと思います。

 
 「タイムトンネル」は、2人の親友が、過去の大事件に遭遇するもの。今でもよくできたドラマであったと思います。

 「ルーシーショー」は、ルシール・カーマイケルという名前(間違っていないと思いますが)を今でも覚えているくらい熱く見ていました。
 サザエさんの「かつおくん」の声。ムーニーさんという銀行員。1番笑いこけていた番組でした。

 あっ、「ちびっこギャング」とかいうのもありました。

 内容の分散した文章となりました。

 思いつくままに、小さいときのお好みアメリカ番組の記憶を辿ってみました。

 これらを見ていた私のすぐ隣には、いつも「財布のおばちゃん」(母の兄弟姉妹の長女、つまり私のおばちゃん)が座り、一緒に笑って見ていた。

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「ヤング101」 その後

2017年03月30日 06時29分38秒 | 思い出を語る
http://gonbe-chu.my.coocan.jp/101/101m981101.htm
のサイトに「ヤング101」のその後という記事が載っていた。
1986年時点での記事のようだから、さらに「その後」がほしいが。
申し訳ないが引用させていただく。

相沢忠彦 S26/11/25生まれ スポーツマン、心の優しい男

青木マスミ 八月八日生まれ 努力家

井口典子 S23/7/12 Noko スキー水泳ショッピングが趣味

石岡ひろし S/22/3/13 いつも健康的

一条みゆ希 岩手県水沢で美しい北上川とともに育つ、ラジオ大阪の
「ふるさとバンザイ」のパーソナリティーもつとめる

伊藤三礼子 S/25/5/2/ フラメンコと詩が好き

井上稔 S/26/9/7/  なんとなくとぼけていて、何を考えているか分からない

江崎英子 S/25/12/12 グリ←江崎グリコより 絶えず動いていることとともに裁縫も好き
さみしがりやで夢はすてきな男性と気ままな旅に出かけること。
すてきなおばあちゃんになること

小原初美 S26/2/21 16歳からバトンをやっている。あまぐりが好物

温碧蓮 十月十一日生まれ ミュージカル「ファンタスティク」にも出演

加藤綾子 S/26/10/22 身長163.2体重52kgヤングのなかで一番足が太い
将来は何でも歌える歌手になるかお嫁さんになりたい

岸龍也 s/27/2/10パートはBass 前橋出身 高校卒業後一年のアメリカ留学
身長184 体重75

清須邦義 s/23/1/26 趣味はつり読書

串田アキラ s23/10/17 ニューロック、フォーク、R&Bというパターンにとらわれず!
良い曲なら何でも自分の歌い方で歌ってゆきたい!

黒沢裕一 s/23/2/16 Kuro 101のプレスリーorトム・ジョーンズorフンパーティンク

塩見大治郎 s/23/6/24二年前(s44)京都から上京NHk近くの代々木に
アパートを借り一人暮らし。料理が好き

宗大春男 s/23/1/9 釣りにかけては日本一

諏訪マリー s/23/7/29歌うことと踊ることがとてもすき

高木吾郎 s/25/11/4 スポーツ好きの日本男児

高野三千代 十月七日生まれ ソプラノ担当、ワンツーおじさんにいつもしぼられる

ザ・チャープス 竹内 まり子 二十歳 ゆり子十八 えり子十七
ジャズ、ポピュラー、ロックと幅広く活躍するコーラス・グループ CMも歌う

津島隆文 s/28/1/9 アー坊 趣味は車の写真集め特技水泳 
ヤングの中で一番若く一番おとなしい。ゴーゴーが好き

中川圭子 s/26/4/30 Dodo 見た目16本当は20小さくポッチャリ

西玲子  s/30/9/26 趣味は詩を書くこと、絵を描くこと、Lovelyでオセンチな女の子

バーズ 豊田順子 姉、豊田礼子 妹
浦和市生まれ 趣味は手芸といけばな(草月流)古風な女性

樋口康雄 最近は歌よりも音楽活動に力を入れている、将来は作曲家としてがんばりたい

広 美和子 s/25/12/13 166cm 50kg 将来難でも歌える歌手かお嫁さんになりたい

藤島 新 s/23/7/22 夏の九州の海と山がすき

牧 憲幸 s/24/4/22 熊本生まれ代表的九州男児 フォークグループ「オレと水車」
をつくってがんばっている

牧みゆき s/25/1/5/164cm/53kg 趣味は動物飼育 ミュージカルタレントをめざす

水木誠 s25/12/23/171cm/53kg/胸囲90cm/足の長さ80cm
趣味はプラモデル組立
串田アキラ 69年デビュー。ジムロックシンガーズ参加後ソロでアニメ主題歌等

八代かずみ s26/1/15 デコ おでこが広いので

山田美也子 s/26/10/16 趣味はピアノ、映画、レコード鑑賞、お花を見ること
詩を作ること。特技は英語、中国語、バレー、タップダンス、ピアノ

若子内悦郎 s24/3/30 オートバイとR&Bには目のない男、

和田昭治 ワンツーおじさん

中山久美 振り付け担当


井口典子 72年アルバム、73年シングル発売。アメリカ在住。

泉朱子 70年デビュー。レポーターとして活躍。

一条みゆ希 「おかあさんといっしょ」歌のおねえさん。声優DJとして活躍。

江崎英子 74年映画「ルパン三世」の峰不二子役。現在ダンス教室。

江崎和子 シングアウトのボーカル。ロビ-和田夫人。

小原初美 NHK「なかよしリズム」、75年デビュー。現在ジャズシンガー。

温碧蓮 宝塚出身。秋野大作夫人。

小林啓子 69年デビュー。高橋信之(高橋幸宏の兄)と結婚後、離婚。

高橋美千代 アメリカ在住。

ザ・チャープス 3人姉妹。結婚後各々CMなどで活躍。

ザ・バーズ 双生児姉妹。68年デビュー。「アティションプリーズ」の主題歌など。

長沢澄子 71年デビュー。サンフランシスコでピアノ教師。

牧ミユキ 68年本名(木下節子)でデビュー。70年再デビュー。

諏訪マリー 宝塚出身。70年デビュー。結婚後ミュージカルで活躍、

広美和子 惣領泰則のジムロックシンガーズに参加。現在はCMなど。

山田美也子 NETテレビ「とべとべパンポロリン」「おはようナイスディ」司会

八代かずみ 芹沢廣明夫人。

西玲子 72年デビュー。

中山圭子 コーラスグループ「ファニーズ」でライブ活動。

青木マスミ 73年映画「16才の戦争」でデビュー。現在八月真澄としてクラブなど。

中山エミ 73年デビュー。

湖東美歌 「シャイニーストッキングス」で再デビュー現在はミュージカル。

太田裕美 最初の頃は太田ひろみ名義。

北美奈々 71年デビュー。

岸じゅんこ 74年デビュー。

キャンディ浅田 映画主題歌「真夜中の招待状」でデビュー。現在ジャズシンガー。

池田美和 シングアウト解散後、惣領泰則のブラウンライスに参加。

石岡ひろし 70年デビュー。86年丘伸二として「J」発売。

上市光男 スク-ルメイツ出身

河内広明 ザ・バロン、ワカトヒロ、82年芹澤ヒロ「リングの接吻」、
芹澤廣明、チェッカーズの作曲を担当。
清須邦義 ザ・バロンのリーダー、渡米、松山千春プロデュース、ソロ発売

串田アキラ 69年デビュー。ジムロックシンガーズ参加後ソロでアニメ主題歌等

黒沢裕一 67年デビュー。76年藤島新とピーカーブー。CX「ファーストクラス」

塩見大次郎 杉田二郎らとジローズ結成して68年デビュー。現在司会等

宗台春男 ザ・バロンのドラマー、現在はスタジオミュージシャン

惣領泰則 シングアウト、ブラウンライス、ジムロックシンガーズ、作編曲家

高橋キヨシ 70年デビュー。現在大阪で活動

津島文 72年「まきのりゆきとこおろぎ’73」でデビュー幼児向けレコード

原田時芳 シングアウト、渡英、スタジオミュージシャン・プロデューサー

樋口康雄 シングアウト、ヤング101の音楽スタッフ、作編曲家、
ビルクラッチフィールド、現在はCMの作詞作曲
若子内悦郎 ザ・バロン、ワカとヒロ、郷ひろみのコーラス
石野陽子プロデュース
田中星児 「おかあさんといっしょ」の歌のおにいさん

水木誠 西野バレエ団出身。70年デビュー。現在ミュージカルで活躍

藤島新 72年デビュー。76年黒沢裕一とピーカーブー

まきのりゆき 70年デビュー。まきのりゆきとこおろぎ’73のリーダー、現在歌謡教室

山崎功 シャボン玉ホリデーのフォーメイツのメンバー
小柳ルミ子ステージ
斉藤あきひこ ラブサウンズ音楽祭グランプリ。現在CM作曲など

田頭信幸 70年「キャッシュボックス」ボーカルデビュー

庄司淳 現在ジャズコーラスなどで活躍

桝川譲治 現在劇団四季

藤村泰介 76年デビュー。後「屋根の上のバイオリン弾き」出演

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「ステージ101」 こんな人も出ていたんだ

2017年03月29日 22時27分21秒 | 思い出を語る
 前の記事で、「ステージ101」について書いたので、ちょっと調べてみると、思わぬ人も出演していたのだと知って驚いた。

 ついでに記録しておこう。

 私の覚えているのは、

 小林啓子、恩へきれん、泉朱子、「涙を越えて」、「比叡おろし」、「気になるわ」くらい。

 さて、こんな人も出ていた!


 ※『ステージ101』(いちまるいち)は、1970(昭和45)年1月から1974年3月まで、総合テレビで放送された大型音楽バラエティー番組。
  歌やダンスはもちろん、楽器もこなす精鋭メンバー「ヤング101」の若者たちおよそ40名(スタート時36名、最終回44名)を中心に、国内外の名曲  や番組オリジナルの歌を紹介した。「涙をこえて」「怪獣のバラード」「若い旅」など、この番組から生まれたヒット曲も少なくない。
 

  太田裕美、谷山浩子、田中星児

 前期(1970年1月~1971年3月)
 放送は土曜日。司会は、関口宏(1970年1月~9月)、黒柳徹子(1970年10月~)が務めた。

 36人の「ヤング101」を番組の軸として、有名歌手やコメディアンをゲストに、歌と踊りと軽快なおしゃべりでつないだ。ゲストには、浅丘ルリ子、美 空ひばり、ピンキーとキラーズ、植木等、渥美清、森光子、坂本九、越路吹雪など、当時の人気のスターたちが出演した。

 中期(1971年4月~1972年3月)
 放送が水曜日に変更。司会は、黒柳徹子(~1971年9月)、マイク真木・前田美波里(1971年10月~1972年3月)。「ヤング101」中心の構成とな 
 り、ファン層も小・中・高校生が目立った。

 後期(1972年4月~1974年3月)
 放送が日曜日に変更。司会は「ヤング101」の泉朱子・若子内悦郎。「ヤング101」の活躍は番組外にも広がっていった。

 私はいつごろのものを見ていたのだろう。

 最終回の「ステージ101」の動画だ。
 https://youtu.be/RvD6fyzOVmM?t=15
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「あと何回 逢えるのかな」と 老いた母

2017年03月29日 00時05分27秒 | 思い出を語る
 愛知に住む、私の妹からメールが届いた。
 私の母は、その妹家族と一緒に暮らしている。(母が妹を、父が私を連れることになったため)

 年に1度は、私の家族は「孫見せ」として遊びにいくのだが、母にとっては、その1年がとてつもなく長い時間であるのだろう。
 昭和7年生まれの母は、今年で85歳になった。
 
 高齢であることを考えれば、「あと何回」と思うのも無理はない。

 前回、私は「嫌い」「憎い」という感情について書いたが、もともとは、この母と、亡き父の、純な優しさからきていることは、間違いないのだから。
 とにかく「人が好き」な夫婦だった。
 損得は考えずに、「喜ばれる」ことが好きな夫婦だった。

 母と逢わなければ。
 たくさん話しておかなければ。

 
 

 
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ブレヒト けっしてできないなんてお言いでない

2017年03月27日 21時06分56秒 | 思い出を語る
 高校生の時に、出会った演劇研究生から、谷川俊太郎の「ネロ」と、ブレヒトの詩を
教わって、何回も何回も音読して覚えたものだった。

 ネロは、すでに紹介したが、一方の「けっして・・・」は、まだ全文が探し出せないでいる。

 生きている以上、「決してできない」なんてお言いでない!

 しっかりしているものだって、しっかりしてはいない

 いつまでも、いまのままではいない。


 ここまでは、東京演劇アンサンブルのサイトで見つけたが、その先がわからない。

 ブレヒトの「母」の中で使われているものだから、その本を見つければいいのだろう。

 私の精神形成に、大きな影響を与えた詩。
 執念深く探していこう。
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焼き鳥屋 トリスの小瓶 そして父

2017年02月26日 23時30分39秒 | 思い出を語る
 私が普段利用している駅の北口で、今、再開発が急ピッチで進められている。
 これまで、ぎゅう詰めの駅前のイメージが変わる。
 近隣とほぼ同じ光景となってしまい、なんとも没個性の再開発なのだが、どのような街並みになるか、ちょっと楽しみでもある。

 どのような理由かわからないが、その再開発に隣接したあたりに、最近「焼き鳥屋」(飲み屋のつまみのメインとした店)が、突如たくさんオープンした。私の知っているかぎりでは・・・5軒。なんでなのか、よく分からず。唐揚げ屋もオープンした。

 焼き鳥と言えば、小学校の低学年のころを思い出す。まだ自宅に風呂がなかったとき、父と銭湯に行った帰りに、屋台の焼き鳥をよく買ってくれた記憶がある。いつも1,2本。たいていは、鶏皮とレバー。
 父も同じものを頼み、ついでに通りの反対側の酒屋で、いつもトリスの小瓶を買っていたものだった。
 焼き鳥は、「匂い」で足が近づく。親子して、いつもその誘惑に負けていたというわけだ。
 トリスの小瓶は、厚紙の箱に入っていて、その裏側には、将棋盤の印刷がされていたと思う。
 2人で手をつなぎ、焼き鳥を食べながら、銭湯から5分の自宅までのんびり歩いて帰った。
 父は、1本しか食べないで、必ず残りの1本を、母におみやげとして持ち帰ったことも覚えている。
 幼い私は、2本ともぺろりと食べてしまっていたが。

 28日は、父の誕生日だ。生きていれば・・・そうか、90を越えている計算になるんだ。
 大正の終わりに生まれ、昭和を生き、平成のはじめに亡くなった父。
 もっともっと話したかったね。

 
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「まぼろしの翼とともに」 

2017年02月25日 23時42分39秒 | 思い出を語る
 大学時代、「遠い世界に」はずっとサークルのオリジナルソングだと思って歌っていたように、
 この「まぼろしの翼とともに」も、サークルの誰か先輩が作ったのだろうと思っていた。
 それくらいフォークに疎くなっていた時期。
 大学1年までは、クラスの岩本くんが、チェリッシュのえっちゃんが好きで、よく歌っていたり、私もテレサ・テンが「空港」を
歌っているのを見て、「なんて可愛い」と思っていたくらいだったから、歌が遠かったからではないはずだ。

 所謂フォークソングは、みな私の周りの友達から聞きながら詳しくなっていった。
 それまで知っていたのは、「赤い鳥」くらい。
 高校生の時に、小学生時代に「好き」だった「すのうちさん」をデートに誘って、渋谷公会堂でコンサートを聞いた。(本命は「よしざきけいこちゃん」だったので、どうして彼女を誘ったのかはよく覚えていない)

 「人とし生きるため」と同様に、いつも歌いながら、幼いながらも、自分の「生き様」を糺していたように思える。
 陽水も、拓郎も、私を変えることはできなかったが、上の3曲は、根が自堕落な私を、いつも鼓舞し、矯正してくれる役割を果たしてくれた。
 当時、私は、新宿二丁目でバーテンのバイトをしながら、一方で「正義の味方」たらんとする大学のサークルで活動していた。この分裂を、
この歌を口ずさむことで合理化していたに違いない。

 動画は、
https://youtu.be/Sdlb0tNLDH4?t=11



『まぼろしの翼とともに』 詞・曲 西岡たかし

今でもボクは思い出すのさ

あの頃の事 あの日の人

ボクと同じ学生だあった

国のために死んでいった

君は若くたくましく

短い命だったが

まぼろしの翼と共に

炎の中に消えてしまった

 

君はあの夜 私に言った

恋人と別れてきたと

ボクは今もおぼえているさ

あの時 君のまなざし

君が死んだ次の夜に

かなしい涙であの女(こ)は死んだ

 

もういやだこんな世界は

もう二度と見たくない

 

君が死んだ次の夜に

かなしい涙であの女(こ)は死んだ

もういやだこんな世界は

もう二度と見たくない

ラララ・・・・・・・・
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成人式 私は何を?

2017年01月09日 16時06分47秒 | 思い出を語る
街中で晴れ着姿が映えています
若いことは、それだけでも生命力に満ち溢れていて魅力的ですね
私は二十歳に何をしていたか。
う〜ん、思い出せないのです。

一浪したので、大学一年は19歳で成人の日。
つまり二年の正月。

もう新宿でバーテンのバイトをし始めた頃かもしれません。
学校とバイトとサークルの掛け持ち。かなり中途半端な生活をしていたような記憶です。

バイトのことは誰にも言わなかったから、なおさら、ちぐはぐな感じだったと思います。
そのころは、好きな子はいなかったはずだから、張り合いもなく、学校ではサークル室に入り浸り。
つまらない生活だったかも。

ただ、この3つの生活圏が、その後の私の人生を決めたことも事実です。

少しはblogで書きましたが、1000を越す記事の、どこに書いたか、もうわかりません。

blog、整理をしないと。
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尋ね人2

2016年11月23日 23時20分15秒 | 思い出を語る
残された年月が少なくなってくると、きっとだれしも思うことなのだろう。
亡くなってしまった人は、しかたないのだが、まだきっとどこかで生きている、活躍している、かつての友人、知り合い、恩人など、
消息を知りたいと思う。
ネット社会は、この情報が思ってもいない使われ方をするとも限らないので、大雑把にしか紹介、提示しかできないが、手がかりがあれば
少しでもありがたいと思う。

小学校の時に、転校していってしまった色白の美少女、しらいしさなえちゃん。(笑)
ずっと好きだった、よしざきけいこちゃんは、活躍していることを知ったけれども、詳細はまだよく分からない。
中学生のときに、ゲバラに心酔していた、あらかわくん。
高校のときに、いつも一緒だったみなみくん。
大学生の同じクラスの、よこたくん、ああ、名前が出てこない・・・馬橋に下宿していて、静岡の御茶屋の息子。ごめん。思い出すからね。
長野、飯山の同じ民宿でお世話になった東京演劇アンサンブルの研究生の4人のお兄さん、お姉さん。

書いてきて、名前すら出てこない自分に愕然。
失礼ですよね。がんばって記憶をたどってみます。
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尋ね人

2016年11月22日 07時48分18秒 | 思い出を語る
しみずよしつぐくんの消息をお知りのかたは、いらっしゃいませんか。
チャックという渾名でしたが、これは内輪の間での使用。会いたい友人です。
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広島 流川 「緑」 きよこさん

2016年08月03日 23時53分05秒 | 思い出を語る
広島、流川の隅っこに、小さな赤提灯の飲み屋がありました。
ひなびたソープランド街を通り抜けて、本当にひっそりと開いている小さな店、「緑」です。
もう30年近くも前になります。
広島を訪れたときに、ぶらっと入った店。
こじんまりとしていて、おばあさん1人でやっているような店。ちょうどぴったりの印象だったからです。
隣がキャッチバー、前が貸本屋とお好み焼き屋を合わせたような店。

店は六畳あるかないか。カウンターだけ。7,8人で満席。
おかみさんは70ほどの色白美人(元かな)
よく笑い、よくしゃべり、よく詩吟を吟じてくれた。
初回に、私が看板までいると、気持ちよく酔った「清子さん」は、立つことができなくて、背負って2階の自宅に連れて行き、寝かしてあげました。
下に降りて、食器を洗い、シャッターを下ろしてホテルへ。
翌日の夕方に店を訪れると、酔って介抱されたことを、いたく恐縮していて、「来たらごちそうしようと、福屋に行って買い物をしてきた」と、このわた(初めて食べた)、鱧を振る舞ってくれました。

もともとは四国の出身。京都で働いていて、呉服問屋のお妾さんとしてしばらくは過ごしていたようです。
旦那が亡くなって、広島に。そして被爆。
「遠くにいたのでたいしたことがなかったのよ」と、被爆者手帳を持ってはいても、幸いに使うことはなかったらしい。
貴金属と宝石が好きで、よく買い物をしているらしく、私にもその数々を見せてくれる。

その年から、毎年広島に行くたびに、「緑」に寄りました。
1年でたった2日か3日だけですが、夏になると毎回、6日前後に訪れた店でした。
「もう来る頃だと思っていたのよ」と、いつも「鱧」「このわた」による歓迎をされます。
3年目に、店の時計が壊れてしまっていたので、新しい柱時計をプレゼントしました。

あいかわらず店じまいには、酔いつぶれてしまう清子さんですが、「ふつうに結婚していたら、あなたくらいの息子がいてもおかしくないわよね。
生まれ変わったら、あなた、子どもになってで来なさいよ」と言っていたものでした。

6年目の夏。
東京土産を片手に、「緑」を訪れると。
そこは駐車場と変わっていました。
前の店で聞くと、「去年の暮れに亡くなってねえ」とのこと。
親類の方が四国からやってきて、一切合切、店のものは処分したとのこと。
きっとあの時計も・・・
去年の夏、どんな会話をして、どんな別れ方をしたのだろう。
もっともっと、清子さんの生き様を知りたかった。語ってほしかった。
「また来年ね」
そんな言葉は、あてにはできない。

名古屋の母と別れたときに、このことを思い出すべきだった。
母も清子さんと、同じくらいの歳になってきている。
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まぼろしの翼とともに

2016年08月03日 21時47分03秒 | 思い出を語る
この歌、よく口ずさむのだが、いつ覚え、どんな経過でずっと歌い続けてきたのか、自分でもわからない。
西岡たかしは知ってはいたが、夢中になって聞いていたという記憶はない。
五つの赤い風船は「遠い世界に」が、大学のサークルの「部歌」的なものであったから、その関連からかもしれない。

誰もがそうかもしれないが、昔の歌は、その歌が自分のなにかしらの経験、事件と結びついていることが多い。

天地真理の「水色の恋」は、高3のときに大宮で下宿をしていたころ、銭湯で初めて聴いた歌。
「思い出のセレナーデ」は、大学3年のときに、「のりちゃん」というサークルの仲間と、地域ボランティアのあと、浅草橋の銭湯に行き、帰りに2人で口ずさんだ歌。
三善英次?の「雨」は、大学1年のサークルの合宿で長野、飯山に行ったときに流行っていた歌。「心の旅」も同時期に流行っていたなあ。
「京都の恋」は高校の修学旅行のとき。

そんな感じで・・・
歌詞はここでご覧ください。

http://www.kasi-time.com/item-21674.html

http://www.uta-net.com/movie/43182/

8月。
また、戦争を想起させる月がやってきた。
明日から息子夫婦は、広島の平和集会へと。
なにを学んでくるのかは分からないが、どうか観光のついて・・・という発想でないことを。

「まぼろしの翼とともに」は、口ずさむたびに、どんな所でも背筋をのばす。
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鱒寿司 富山競輪場 そして父

2015年12月07日 01時07分47秒 | 思い出を語る
私がよく買ってくるためだろう。うちの息子は2人とも鱒寿司が好きである。
そしてまた、その嫁さんもよく食べてくれる。
月に1,2度は、私が池袋のデパ地下で買ってきては、みんなして分けて食べるからだろうと思っている。

父は、私が小学校の低学年のころまでは、競輪の選手であった。
すでに実力の峠は越えていたとは思うのだが、覚えている限りでは、もうB級の選手としての父しか知らない。
その父が、遠征に行っては、よくみやげを買ってきてくれた。
覚えているのは、函館からは、青い缶に詰められたトラピストのバター、そして富山の鱒寿司である。
年に1,2回だったと思うが、富山の帰りは必ずと言っていいほど、鱒寿司であった。

鱒の肉を酢でしめて、円い形の押し寿司にしたもので、それがおいしくて、いつも父に、
「今度はいつ富山に行くの?」
と聞いてねだったものだった。

父は私が小学校の3年生ごろに引退するのだが、当時は東京では鱒寿司は販売されていないで、しばらくおあずけの状態だったと思う。
その鱒寿司が、東京でも販売されるようになったのはいつごろだったのか記憶にはないが、デパートやスーパーで行われる「駅弁販売」の
イベントの際には、よく出かけて買ってきたものだった。
そして池袋では、東武も西武も、鱒寿司が常時店頭販売されるようになった。

東京で食べることのできる鱒寿司は、2種類ほどのもので、元祖源のものもあるが、肉が薄い。
しかしそれでも鱒寿司には変わらない。
せっせと私が買って、食卓に並べているうちに、鱒寿司は息子たちの好物にまでなってしまったのだと思う。

息子たちの嗜好とはひと味異なり、私には父の思い出が重なっている。

土日に、妻と富山に旅行に出かけた。
ほたるいか、のどぐろ、白エビ、鱒寿司を食べに、という名目だが、私は「富山競輪場を一目見ておきたい」という理由からだ。
父が訪れて、走り、その帰りにみやげを買ってくる。それを少しばかり追体験しておきたいという気持ちから。

富山駅からライトレールという路面(的)電車に乗って、約20分ほどのところの、海に近い場所に競輪場はある。
岩瀬浜という終点のひとつ前の駅が競輪場前という駅だ。
厚手のジャンパー、片手にスポーツ新聞、そんな乗客が乗り込んだ電車は、かつての武蔵野線と同じ雰囲気をもっている。
寒冷地のため、冬場は開催されていないというから、今日は場外のみかなとも思ったが、よくは分からず。
電車の窓から競輪場の高い壁しか見ることはできなかったが、ここでかつて父は走ったのだ、泊まったのだ、家族を思ったのだと
思うと、また私と父との「独り対話」をすることができた。
曇天、風が湿っていて冷たい。
海側には晴れ間が見えているのに、立山の方角の空には、黒く渦巻くような不気味な雲が恐ろしい速さで流れている。

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広島 「緑」の亡きママさん

2015年08月06日 09時39分44秒 | 思い出を語る
もう10年以上も前に、8月6日を挟んで、毎年広島を訪れた時があった。自堕落な自分を、この日にリセットする意味合いでの訪問だ。最初の訪問のときに、流川(流河?)の歓楽街の端に小さな飲み屋を見つけて入った。カウンターだけ。客も7、8人入ればいっぱいになるくらいの小さな飲み屋だ。ママさんは一人。70前後か。くたびれた感じではなく、真っ白に化粧して、姿勢もいい、しっかり生きているといった印象。飲み屋の名前は「緑」。
飲み進めているうちに意気投合して、あれこれと話が弾む。習っている詩吟も披露していただく。出身は高知。岐阜か京都か忘れたが、織物問屋の主人のお妾さんとなり、彼の死後に広島で飲み屋を始めたと言う。被爆者手帳を持っていて、市内からは離れたところで被爆されたとのこと。
酒にはあまり強くなく、店じまいのころには、立っていられないくらいになり、私が背負って2階の部屋に行き、寝かしつけ、食器を洗い、店の戸締まりをしてホテルにもどった。
翌日の夜に再度店に行くと、ママさんはえらく恐縮し、感激していたようで、「あなたがまた来ると思って、ふくやで買ってきたの」と、このわたを振る舞ってくれた。初めて口にするこのわた。なにかヘソの緒のなまものといった感じだったが、気持ちをありがたくいただいた。
それから5年間ほど、毎年原爆忌には「緑」を訪れて、酒を飲み交わし、ママさんの詩吟を聞き、この日のために買っておいたというこのわた、はもなどを食べさせてもらった。
お子さんには恵まれなかったそうで、「もし授かったなら一人で育てていく決心はしていたのにねえ」とこぼしていた。
5年目に訪れたとき。店の前まで来ると、店はあとかたもなく、そこは駐車場に変わっていた。嫌な予感だ。はす向かいのお好み焼き屋に入って訪ねると、年の初めに亡くなられたとのこと。親戚の方かは分からないが、店のものや部屋のものは、一日がかりでどこかに運ばれていったとのこと。「元気のいい方でしたのにねえ」とも。
去年、掛け時計が壊れてしまったとかで、プレゼントした新しい時計。「時は止まってくれたほうがいいなあ」と言って笑っていたママさんだった。
いつも6日の原爆忌には、「緑」のことを思い出す。
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めとめ先輩の死

2013年04月21日 21時50分07秒 | 思い出を語る
大学のサークルの先輩「めとめ」が亡くなった。
夫婦揃って先輩だから、「いつでも会える」と、高をくくっていたのですが、
前回の先輩(2011.8)につづき、またも「話ができないまま」の別れです。

「めとめ」は、松戸の市議会議員として、長い間活躍していたとのことですが、そのことすら
きちんと私は把握していなかったのでした。
奥さんとは電話で何度も話していましたし、彼が入院していたことも知ってはいましたが、
あのパワフルな彼が「死ぬわけがない」と、見舞いにも行かず、いずれ退院したら祝いに
いってみよう程度に考えていたのでした。

ネットで、議員時代のことを検索してみると、市議会の議員さんのブログに、こんな記事を
見つけました。
2006年9月7日の記事です。

「9月6日、松戸市議会9月定例会一般質問の3日目、山口博行議員(日本共産党)の最後の一般質問がありました。
 その力量は、行政も議員も認めるところです。引退を惜しむ声は本当に多く、議場の、あるいは議場の外の人たちが聴きいる中、最後の質問は行われました。
 今期は山口さんの隣の席でずいぶん教えてもらえてよかったっけとか、私が議員になる前の議会傍聴を続けていた頃に、山口さんの質問で議場の雰囲気が一変したことがあったっけとか、常任委員会がいっしょで視察先で話したこととか、様々なシーンを想い出しつつ、私も聴きいりました。
 市政全体の筋道の話で将来を案じての締めに、いつもの厳しさは見られませんでしたが、議場全体から拍手が起きました。傍聴席での拍手は禁じられていますので私は控えましたが、もう彼の一般質問が聴けないのは、心底、残念です。」

穏やかで、おそらく彼が声を荒げたことなど、1回もなかったと思うくらい、相手の目線で考え、的確なアドバイスをしてくれた先輩でした。
私たちのサークルは、いわゆる「社会科学」系のもので、いつも「日本の未来は」「私たちの生き方は」など、熱く語り合ったものでしたが、彼の言葉は、その一つ一つが、「後輩」にとっての羅針盤でした。

大学を卒業して、1度たりとも話をしていなかったこと。
悔やんでも悔やみきれない思いです。

サークルのみんなと、一時期「空白の期間」を作ってしまった、私の「身から出たさび」「自業自得」なのですから。

めとめ、ありがとうございました。
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