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一応の証拠として・・・ 「水からの伝言」に騙される人たち

2018年05月27日 15時26分44秒 | 教育を考える
 竹内さんの「信奉」について、ちょっと気になったので、ネットで検索したら、
残念ながら、続々出てきました。

 ひとつだけ。アルペンスキーの清澤恵美子さんに関する記事。
 「――リハビリ中にもいろいろと学ぶ経験があったのですか?
一番、刺激を受けたのは、これもまた竹内さんでした。気持ち新たにリハビリを始めましたが、足が思ったよりも痛くて、私自身、完全には復活を信じ切れていない部分がありました。そんな中、竹内さんと食事をする機会があったんですが、その時、こう言われました。「水の話、知ってる?水が入ったコップが2つあって、片方には『綺麗な水だね』、片方には『汚い水だね』って言っていると、『綺麗だね』って言っている水は美味しくなるんだよ。それって血液も細胞も一緒じゃない?自分の体に対して『膝がんばろうね、トレーニングがんばろうね』って声かけてるのと、毎日、恵美子ちゃんみたいに暗く生きているのでは、治り方も違うよ」。そこで、また気づかされました。これじゃあだめだ、前に進むのは私の意識次第なんだと。そう思ったら、『何があっても私は選手を続ける』と自分自身に強く言えるようになりました。」

 その説明は、次の引用につきます。すみません、お借りします。
 「 『水からの伝言』とは、江本勝による水を結晶させた氷の形状からメッセージを読み取ることができるという主張の著書です。
 水に「ありがとう」などとよい言葉をかけると結晶は美しい形となり「ばか」などと悪い言葉をかけると結晶も醜い形となるというのです。
 人間の言葉は波動であり、それを水が理解するといいます。
 その理由に、水も振動している波動であり万物は波動からできているからとまともではない主張です。

 日本の道徳教育の現場でこの書籍が取り上げられたことから、多くのまともな人々や科学界から反論や反対があり話題になりました。

 著者の『水からの伝言』でも実験はなく実験じみたことがあるだけと述べていて再現実験じみたこともしていません。
 その実験内容はまともな実験ではなく、実験結果の画像なのでも容易に改ざんできて他人が行い検証された確かな証拠はありません。
 「ありがとう」を見せた水と「ばか」を見せた水の違いに代表される水の結晶の違いは、言葉の効果によって水の結晶が変化したことを示すのではなく、実験結果が不安定であるために撮影者の都合の良い物を選んだ物と考えられます。

 著者は『水からの伝言』の主張は、「科学的に証明された」とうそをついていて、のちにを「ファンタジーあるいはポエムである」、つまりフィクションであり物語であると述べていますが、いずれは証明されるものとも語っています。
 著者は詐欺が目的か、よほど頭が悪く科学知識が足りてないのか、詐欺ではなく信じているなら、統合失調症などの病気や知的障害がある疑いがあります。
 信者も同様によほど頭が悪く科学知識が足りてないから信じるのでしょう。

 日本化学会や日本物理学会の会員たちは「科学的でない」という見解を表明しています。
 液体の水は記録媒体にはまったく適していません。
 水が人間の意識や言葉を理解することはありません。

 世界の科学者の中には、信者や正しいと主張している人もいますが、いまだに科学界では認められていませんし、証明されてもいませんし証拠もありません。
 証明や証拠とされているものも再現できなかったり不確かなものです。

 『水からの伝言』は、波動測定器、波動転写器なる物の商業的価値を高めるための意図が隠されていると指摘されていて、実際に詐欺的な商売として利用されています。

 知的障害や精神病がある人々は別にして、基本的な科学知識不足や調べることをしない人々がだまされます。」
   (http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1065452117.html)
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あ ここにも「水からの伝言」信奉者が・・・ 竹内智香さん あなたもか

2018年05月27日 15時06分18秒 | 教育を考える
 スノーボードの竹内智香さんが、テレビ東京でインタビューに応じていた。
 彼女の実績は、頭を垂れるほど立派なものである。

 が、その中に気になる発言が。
 
 「水は人の言葉がわかるんですよ。人間の体は水分がたくさんありますから。いい言葉を投げかけると、きれいな結晶の氷になるんです。
  これは証明されているんですよ。だから、私はいつも、ありがとうと何度も声を水にかけているんです。」
 趣旨の引用だが、
 「ああ、ここにも似非科学の犠牲者がいるのだな」とがっかり。

 まあ、きれいな言葉を発することには、なんら問題ないが、人には押しつけないでね。
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えっ、いつのまに? 宿題の丸つけはおうちで・・・

2018年05月20日 08時57分38秒 | 教育を考える
 久しぶりの低学年を持ち、最初の学年会で。
 宿題は、音読、計算ドリル、漢字練習などは、毎日取り組ませようということに。

 その際、「宿題のチェックは、空き時間のない低学年は大変だよねえ」と話をすると、
 「あっ、宿題の丸付けは、おうちでやってもらっているから」との答え。

 おお、そうなんだ。
 しかし、きっとできないお家もあるだろう。家庭の状況で、すぐに格差が現れるのは必至だろうなと思う。

 これは保留して、しばらく様子見をしてみると・・・

 やはり、丸付けをしてこない子が何人もいる。
 そのお家は、やはり家庭では余裕のない家だ。

 それは子どもの学校の生活にもはっきりと出てきている。

 なんとか改善しなくては・・・
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西城秀樹 星百合子 朝丘雪路 同時代に生きた人が消えていく

2018年05月20日 08時45分41秒 | わたしごと
 小学生のときに、映画のポスターを見て、「あ、すごい美人!」と、心をときめかせた星百合子。
 あんなハスキーボイスでパワフルな歌声が出せたらなあと思った西城秀樹。
 これも小学生の時に、文京公会堂で、林家三平とともに出演し、歌を披露した朝丘雪路。

 ファンでもないし、特に注目はしていなかったが、同じ時代の空気を吸っていた仲間が消えていくのは寂しく哀しい。

 自分も歳をとったということだ。
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ショックです 岸井さんの死去

2018年05月16日 23時32分17秒 | わたしごと
岸井成格(きしい・しげただ)さんが15日、肺腺がんのため自宅で死去した。73歳。

健全な、闘うジャーナリストを1人失った。

ご冥福は祈らない。
現世で、まだまださまよいつづけてほしい。
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「マルクス・エンゲルス」 生身の人間として・・・

2018年05月05日 22時25分08秒 | 素人の劇評
ほぼ満席の岩波ホール。
若い人もちらほら見かける。
映画は、予想以上のもの。
マルクスの貧困、エンゲルスの裕福さゆえの苦悩、2人の恋愛を織り交ぜながら、
論敵と闘う姿が映し出される。

満席とは言え、まだこの映画を見に行こうとする人は少ないことだろう。
口コミで、幅広く広がっていくことを祈る。
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人生劇場 まだあった!

2018年05月05日 22時17分47秒 | 思い出を語る
岩波ポールで映画を見たあとで、古本屋街をぶらぶらして、お茶の水に向かう路地に。
明大の裏に通じる路地だ。
すると、パチンコやの人生劇場を見つける。
駿台予備校に通っていたころに、時折行っていた店だ。
ここには、景品で、文庫本や単行本がそろっていて、当たりの日にはよく交換したものだった。
大月文庫の「資本論」は、ここで全巻揃えた。
まあ、得したのかどうかは忘れてしまったが。
懐かしの人生劇場。
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離れていても繋がっている風景

2018年05月05日 13時04分16秒 | 思い出を語る
岩波ホールに「マルクス エンゲルス」を見に。
お茶の水から神保町に下ると、私の時代が40年以上もワープする。
高層ビルが建ち並び、ゴーゴーカレー、ドトール、はなまるうどん、韓中経営のマッサージの店やらと、店や建物は驚くほど変貌しているが、道はたいして変わってはいない。
入り浸っていた「ソフィア」、天ぷらの「いもや」、喫茶「五城」、もう跡形もないが、私の目にはしっかりと映っている。
古本屋の一心堂先の路地から、きよみちゃんが、もぐが、ムロが、ほりが、やっちゃんが、まっちゃんが、まゆみちゃんが、メトメが、みほちゃんが、大五郎が、ペコが、ポンタが、今にも飛び出してきて、「さぼうるで、コーヒーでも飲もうぜ」と誘ってくるようだ。

もうそれは現在でも現実でもない。
しかし私だけの心の中では、今でもきらきらして輝いて息づいている「現実」。
これなくして今の私はなかったのだから。

涙を胸に秘めて、マルクスに向かう。
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