大学生時代、映画「橋のない川」を上映し、「差別」の不当性を訴えようとしたときのこと。角材を持ち、ヘルメットをかぶって実施を妨害しようと、会場に乗り込んできた集団に対して、私たちの中の1人が「そんな馬鹿な真似はやめろ」と叫んだことがあった。
すると、「お前らなあ、今<馬鹿>って言っただろう。馬鹿っていうのはなあ、馬や鹿の皮を剥いで暮らしていた被差別民を侮辱した言葉なんや。この差別者どもが」と言い返された。
私たちの何人かは、この罵声にひるんでしまったものもいて、彼らを押し返そうとする力が、やや小さくなった感もあったが、先輩が、「私たちの無知で、そんな語源があったとしたら、率直に謝る。ただ、そのことが、暴力で上映を阻止してもいいということとは繋がるものではない。おひきとり願いたい」と諭し、彼らを会場から追い出し、なんとか上映にこぎつけることができた。
言葉は難しい。あとで調べてみると、馬鹿の語源について、彼らの言ったことは、ほとんど「こじつけ」「とってつけた」ものだったようなのだが。
彼らが「確信をもって」「大声で」言ったことで、私たちも一瞬「本当かもしれない」→「私たちがやっていることは、実は間違っているかもしれない」と思ってしまったのだから。
あの杉田議員が、例の「LGBT」についての寄稿について、弁明する文章が25日に発表された。
よく読んでみることにする。
「・・・不用意に「生産性」という表現を用いることより 誤解や論争を招いてしまったことや、結果として不快に感じたり、傷付いた方々がいらっしゃることを重く受け止めております。・・・」
「新潮」の、もとの文章も引用してみる。
「例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
2つ、ひっかかった。
1つ目は、これは単に「生産性」という言葉を使ったから・・・といった問題ではないということです。子どもを作らない者には、税金を使うなということ。言葉1つ入れたか入れないかの問題ではないのだ。これだけでも、まやかしの「弁明」となる。
2つ目は、「誤解」という言い方。言い換えれば、「私はきちんと説明している」、しかし読み手が「誤読」「曲解」しているのだ。だから問題とされたことは、あくまで「結果として」であるから、まあ、読み違えて怒った人には重く同情するが、今度はもっと分かるようにしますね。
といったところか。
「誤解を招いた」という言葉を、政治家はよく使うが、それは「おれはちっとも悪くない。ちょっと言葉が足りなかったのだ。結果として読者が読み違えたことはまずかったが」といった、責任のすり替えに他ならない。
そんな三流の議員がここまで厚かましく議員を続けていられるのは、私たち三流の有権者のおかげなのだろう。 悔しい限りだ
すると、「お前らなあ、今<馬鹿>って言っただろう。馬鹿っていうのはなあ、馬や鹿の皮を剥いで暮らしていた被差別民を侮辱した言葉なんや。この差別者どもが」と言い返された。
私たちの何人かは、この罵声にひるんでしまったものもいて、彼らを押し返そうとする力が、やや小さくなった感もあったが、先輩が、「私たちの無知で、そんな語源があったとしたら、率直に謝る。ただ、そのことが、暴力で上映を阻止してもいいということとは繋がるものではない。おひきとり願いたい」と諭し、彼らを会場から追い出し、なんとか上映にこぎつけることができた。
言葉は難しい。あとで調べてみると、馬鹿の語源について、彼らの言ったことは、ほとんど「こじつけ」「とってつけた」ものだったようなのだが。
彼らが「確信をもって」「大声で」言ったことで、私たちも一瞬「本当かもしれない」→「私たちがやっていることは、実は間違っているかもしれない」と思ってしまったのだから。
あの杉田議員が、例の「LGBT」についての寄稿について、弁明する文章が25日に発表された。
よく読んでみることにする。
「・・・不用意に「生産性」という表現を用いることより 誤解や論争を招いてしまったことや、結果として不快に感じたり、傷付いた方々がいらっしゃることを重く受け止めております。・・・」
「新潮」の、もとの文章も引用してみる。
「例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
2つ、ひっかかった。
1つ目は、これは単に「生産性」という言葉を使ったから・・・といった問題ではないということです。子どもを作らない者には、税金を使うなということ。言葉1つ入れたか入れないかの問題ではないのだ。これだけでも、まやかしの「弁明」となる。
2つ目は、「誤解」という言い方。言い換えれば、「私はきちんと説明している」、しかし読み手が「誤読」「曲解」しているのだ。だから問題とされたことは、あくまで「結果として」であるから、まあ、読み違えて怒った人には重く同情するが、今度はもっと分かるようにしますね。
といったところか。
「誤解を招いた」という言葉を、政治家はよく使うが、それは「おれはちっとも悪くない。ちょっと言葉が足りなかったのだ。結果として読者が読み違えたことはまずかったが」といった、責任のすり替えに他ならない。
そんな三流の議員がここまで厚かましく議員を続けていられるのは、私たち三流の有権者のおかげなのだろう。 悔しい限りだ