息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

言葉の身体性が喪われている

2012年05月30日 16時34分18秒 | わたしごと
活字離れについて、あれこれと危惧の意見が入り乱れて久しい。

新聞をとっていない家庭が、教室の中でも違和感なく存在し始めた、ここ十数年。子どもには、「本好きになってほしい」と、私には言う親が、どうも読書を心掛けているとは思えないこと。
そんな、ごく身近なことからも、活字離れを窺い知れる。

サマーズの街探訪番組(名前を忘れた)の、あの平坦な言いまわしのナレーションが、いつまでも変更されないのも、奇を衒う企画ではなく、むしろこんな話し方が市民権を得ているからだと思ってしまう。

単なる活字であるものを、より豊かにしたり、イメージを広げたりして、個性を付与するものが、顔の表情であったり、身体の動きであったり、アクセントであったり、音量であったりするのだが、それらを鍛える場が喪失されつつあるのだろう。

私の勤務する学校でも、子どもに対して、「はい!」と、大声で返事をする指導にはみな熱心だが、微妙な言いまわしを感じ取る指導については、あまり話を聞いたことがない。

活字離れというよりは、言葉を身体表現する力の喪失だと思えるのだが。

また中途半端な考え。
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ありがたい

2012年05月28日 23時35分23秒 | わたしごと
私の慕っている友人から「大阪弁で世情を語る」というブログを紹介されました。
なんとなく茶化しのブログかなと思っていましたが、いざ開いてみると、なんのなんの、
「おお、そうそう」「それ、私も・・・!」といった記事ばかり。

http://blogs.yahoo.co.jp/tubuyaki2594/4267401.html

ぜひ、たくさんの方に覗いてみてもらいたい。
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ひなたぼっこ の「ぼっこ」とは?

2012年05月27日 00時52分54秒 | あれこれと
友人と話しているとき、ふと「ひなたぼっこ」の「ぼっこ」って何だという話題になりました。
どうも語源がわからない。
また、他に「ぼっこ」という言葉のついたものが見あたりません。

しかたなくネットで調べてみましたら・・・
どうも、たくさんの説があるようで、しかもそれらの中に「決定打」もないのです。

いくつか紹介してみます。

「「ぼっこ」というのは、単独では、「おぼこい子」というような意味で、世間知らずな、世間ずれしていない、可愛い女の子というような意味があるのです。それと、すでに述べたような、妖怪のような神のような、不思議な民俗的な「子ども」です。
 星新一の最初期のショート・ショートに『ぼっこちゃん』という作品があります。これは、バーのカウンター嬢の愛称ですが、実はこのぼっこちゃんは、ロボットなのです。
 もう一つ、手塚治虫の『W3(ワンダー・スリー)』という作品に、地球を視察しに来た宇宙人の隊長が、変身して白うさぎの姿になり、これが女性なのですが、「ぼっこ隊長」と云います。この場合も、うさぎの姿で、無論、強い意志や思考力は持っているのですが、可愛いうさぎの女の子というイメージで、「ぼっこ」になるのです。そういう意味で、手塚治虫は、名付けたのだと思います。
 「ぼっこ」というのは、ぼうとしている(惚けている)人というようなイメージもあるかも知れませんが、無邪気な可愛い子ども・女の子というイメージもあるのです。わざわざ、検索したり、調べたりしないと分からないような言葉ではないはずなのですが。(「おぼこ」という言葉が、ぼうとしていて頼りない、というような処から、あるいは来ているのかも知れませんが)。」

「日向ぼっこの語源は「日向惚け在り」(ひなたほうけあり・日を浴びてほうけていること)です。この「ほうけあり」の「けあ」の部分が「こ」という語(の母音)に融合され「ひなたぼこり」さらに「ひなたぼっこ」に転音したものです。よって、「ぼっこ」は惚けているという意味であります。」

「ひなた‐ぼこり【日向ぼこり】「ひなたぼっこ」に同じ。今昔物語集19「春の節トキになりて、日うららかにて、―もせむ、若菜も摘みなむと思ひて」」 広辞苑

「「ひなたぼっこ」の語源を調べてみることに(^^)
 するとこの語源が諸説色々あるんです。
 有力説3つとちょっとおかしな説1つのご紹介!
 有力説その1
「日を浴びてほうけている」様子を「ひなた 惚け在り(ほうけあり)」と言い。
 そこから転じて「ひなたぼっこ」になったと言う説。
 有力説その2
 暖かくなったときなどに使われる「ほっこり」から
 「ひなたほっこり」が「ひなたぼっこ」に転じたという説。
 有力説その3
「ひなたぼっこ」の「ぼっこ」は「誇る」から来ていて
 日光の方を向き誇らしげにしている姿の「ひなた誇る」が転じて
 「ひなたぼっこ」になったという説。
 そして、まさかこれが語源??
 天気の良い日に何もしないで、ひなたでゴロゴロしてると
 忙しい人に「ぼっこぼこ」にされてしまうってとこから
 「ひなたぼっこ」に!」
 


 



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道徳教育 人権教育を考える

2012年05月21日 09時16分27秒 | 道徳教育 人権教育
新しいカテゴリーで、道徳教育、人権教育について考えていきたい。
このカテゴリーをおこした契機には、二つある。

①今年度の校内研究が道徳になったことと、市の委嘱として人権教育推進委員となったこと。やるからには、少しでも自分なりの知識、見識を持ち合わせていきたいと思ったこと。
 人権推進の最初の会合で、担当指導主事から、いきなり、このメンバーから、12月、1月に公開授業を行ってほしいと依頼された。年に五回しか集まらず、どう責任をもって、授業を行えばいいのだろう。市の教科研究会、校内研究会、経験年数による年次研、管理職に見せる授業観察など、網の目のように、私たちは「授業」を迫られている。市教委は、私たちの教育条件を整備することが本務だと思うのに、まったく反対の提案を次々と行ってくるのだ。しかたなく、私が世話人になり、この提案については次回の持ち越しにしてもらった。
 「あっ、都から出ている冊子に掲載されている実践例を、そのままやればいいことですから」「そんなに重く考えなくていいですから」そんな問題ではないだろう。指導案は、目の前にいる子供たちの実態に合わせて作成しなければならない創造的なものである。しかも、下書きをすれば、市に、講師に事前に提出し、「手直し」を何度もされることは必至である。事前にメンバーとの意見交換も必要だろう。テーマ自体重いのに、いくらなんでも、これでは、丸投げ同然ではないのか。
 委員を受けたからには、内容をじゅうぶんに吟味して授業に臨みたい。そんな願いもむなしくなる提案である。

 勤務時間内では、とうてい終わらない私たちの仕事を、市教委は、どう考えているのだろうか。
 そうした一方で、個々に道徳、人権について、あらためて考えを深めていきたい。(書いていて、そういえば私たちの人権はどうなっているのだろうと、素朴な疑問がわいてきた)

 
②道徳については、教員になったときから、推奨される指導内容、指導方法について違和感があったこと。さかのぼって、私の受けた道徳の授業について、驚くほど記憶に残っていないこと。(ただひとつの思い出は、中学生のときに、道徳の授業で、私の書いた授業の感想が、担任から「べた褒め」され、それがもとで、しばらく私は同級生から「いい子ぶりやがって」的ないじめを受けたことぐらいである。当時「優等生」だった私は、本音ではなく「こんな感じで書けば、担任も満足してくれるにちがいない」と思って書いたのである)
かつて三鷹で、道徳の研究発表をしている小学校の研究発表を見に行ったことがある。
 高学年では、研究主任の教員が、「手品師」の授業を行っていた。
 内容は次回に書くことにするが、この授業は、担任の「一方的な価値の押し付け」と、児童の「担任思いの意見・感想」の合体した「すばらしい」授業であった。
 アンケートに、私は「この授業は、児童が思考停止に陥っている」「指導の方法・方向が、子供たちに見抜かれていて、担任の思いに寄り添った感想を、子供たちは本音とは別の次元で書いているにすぎない」と書いた。
 後日、その教員から「反論」のお手紙をもらい、何度かやり取りをするのだが、こんな授業を推進している限りは、子供たちの本来の道徳性など育つはずはないと感じた。

 この一年間。私の考えるテーマである。
 
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金環食

2012年05月21日 09時02分54秒 | わたしごと
日食も見納めになるかもしれないと思いつつも、遮光板は手元になく、しかも発熱のため、テレビのライブで我慢。
平安時代以来と言われているが、直接見ることのできる道具のない彼ら彼女らは、どうやって太陽を見つめていたのだろうか。

月は次第に地球から遠ざかっているのだから、だんだんと金環食のリングは大きくなっていくはず。
今は見かけ上、太陽と月が同じ大きさゆえの「奇跡」
こんな時代に生まれ合わせた私たちは、なんと運のいい人類なのだろう。

これからの日食だが、見ることが果たせるか。生きながらえたとしても、認知できるのだろうか。

・2030年6月1日:北海道で金環日食
・2035年9月2日:茨城県から富山県にかけての一帯で皆既日食
・2041年10月25日:中部地域で金環日食
・2042年4月20日:八丈島と小笠原諸島の間の海上で皆既日食

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若さだけ?

2012年05月20日 00時06分42秒 | 奇妙な風景
うちの学校の放送委員会は、あまり苦労・工夫をしていません。
昼の放送は、ほとんどが「AKB」「乃木坂なんとか」のような若い女の子集団(すみません、ほとんど区別がつかないので)の歌をCDで流すだけです。

好みの問題だと言えばそれまでなのですが、私にとっては非常に「食傷」気味の歌声。
とにかく、あの地声で、しかも集団で歌う仕方は、どの曲を聴いても、ほとんど同じ。
まあ、若いだけに、可愛いと言えばそうなのですが、美味しいものも繰り返し食べると飽きる、そんな感じなのです。

放送委員会は、もっと手作りのものを企画していかないと堕落していきます。

「放送をしっかり聞きましょう」
聞こえはいいのですが、これではねえ。

若い教員が増え、「学校文化の創出を」などという言葉も、もう風化して、死語同然です。

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過労死予備軍 悉皆研修 木村さんの裁判

2012年05月13日 08時01分56秒 | 教育を考える
 私の勤務する自治体の「教科等研究会」が、今年から、全員が必ず参加しなければならない「悉皆」の研修となりました。
 ただでさえ勤務時間内では仕事を済ませることができない現状にあって、私はずっと「不参加」を続け、月に1回のこの日の
時間帯は「教務と教材研究の時間」とて、たまりにたまった仕事の「穴埋め」としてきたのですが、それも吹き飛んでしまいました。
 先日は、その全体会が行われ、小学校の体育館に集合。全体での会のあと、それぞれの教科に分かれて、「部会」が行われました。私は道徳部会に所属。
 全体会では、「新しい学習指導要領のもと、ますます私たちの責任は大きくなっています。・・・ですから、ここで大いに研鑽を重ね・・・」といった、教育委員会や会長の言葉が続き、私たちの勤務条件については、まったく言及なしです。
 部会では、すぐに、研究授業の割り当ての話し合いです。年に5回の会合のうち4回が、部員が授業を行って、みんなで話し合うのだそうです。部長である校長からは、「小手先の研修ではありません。研究ですので・・・」という素敵な言葉もありましたが、年に5回の、しかも午後だけの会合で、いったいどんな研究ができるのだろうと、素朴な疑問も残ります)
 重苦しい雰囲気の中で授業者が決まりました。(だれもやりたくはないのです)
 授業は授業者のやりたいようにとのこと。しかし、事前研とやらで、放課後に何回か、部員で検討する日を設けるのだそうです。やはり5回ではすみません。

 この5回を、「みなさんが、それぞれ教材研究の時間にあててください」などといった大盤振る舞いは、どうも期待することはできず、過労死寸前の教員の勤務を、ますます増やしていくことになるのでしょう。
 
 ここ数年のうちに、元来真面目である教員は、ますます「真面目」になってきています。(というよりは、個々の仕事で、精一杯こなすしかない。愚痴さえこぼす時間と同僚がいない)職場も「物言わぬ」雰囲気がより強くなってきています。(気持ち悪いくらい、若い教員は職員会議で質問すらしません)

 追い立てられ、孤立し、自分を守ることに汲々ととしている職場。
 愚痴だけ書いていてもしかたないですね。

 下の記事は、新採の木村百合子さんの自死について、公務災害を求める裁判の現状についてのものです。
 控訴した基金側の無神経さにはあきれかえますが、ふたたび認定の判決が出されることを、切に切に願っています。
 

 「5月10日、故木村百合子さんの公務災害を求める裁判、控訴審第1回が東京高裁で開かれ、傍聴席44名に80名以上の支援者が集まった(東京高裁第24民事部、三輪和雄裁判長)。
 2004年9月静岡市磐田市で新人教師、木村百合子さんは通勤途中に自ら命を絶った(享年24歳)。地方公務員災害補償基金静岡支部(以下「基金」)は3年後に「公務外」と認定、再審査請求も棄却された。ご両親は、「公務外処分取消」を求め2008年に静岡地裁に提訴した。
 裁判は3年余に及び昨年12月15日「公務外災害認定処分取消」の勝利判決が出された。判決は、経験の浅い百合子さんがクラス運営に「苦悩しながらもできる限りの努力や責任感を持って対応した」ことを認め、困難を極めた児童への指導では「新規採用教諭に対し高度の指導能力を求めること自体酷」と認定し、新採教師に対して「十分な支援が行われていたとは到底認められない」断じた。
 この裁判は、百合子さんの置かれた状態が決して「特別」ではないこと、全国各地で特に弱い立場にある教員が窮地に追い込まれていること(毎年5000人を越える精神疾患による休職教職員の存在に端的)を示した。また、一たん下された新人教師自死への公務外認定を地裁で覆した初めてのケースであるということから、まさに快挙であった。
 しかし、これを前例としたくないと念じた被告「基金」は不当にも控訴、裁判は舞台を東京に移し東京高裁で引き続き争われることとなった。
 この日、法廷の廊下は支援者であふれかえった。裁判は、書面を取り交わしたあと、一審原告側から要請した証人(百合子さんが自死された当時の学校長)の採用について、裁判官3人が協議。結局証人は認められなかったが、裁判官の協議中に「基金」側弁護士から「なぜ校長先生を証人申請するのか」と個別に質問、木村弁護団の塩沢弁護士が「必要だからです」と答えるシーンがあった。実は「基金」側は、控訴しても新たに証人を立てるわけではなく、また新たな主張をするのでもなく、控訴状でもこれまでとまったく同じ主張をくりかえしたのみであったのだ。
 これまでと同じ主張とは、「学校側には、これといった落ち度はなかった」ということだ。つまり、一審判決の「反論」ができないことが明らかになった裁判でもあった。
 裁判は早くもこの日結審し、次回は判決である。以下 略」(レイバーネットジャパンより)
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図書館はやはりいい

2012年05月11日 19時58分34秒 | わたしごと
給料日前の数日は、どうしても気持も貧しくなる。
活字中毒の私にとっては忍耐の数日となる。
あれも読みたい、これも買いたい、そんな誘惑にじっと耐えなければならない日々。
こんなときは図書館に限る。


幸いに、わが町の図書館は、平日は夜の8時まで開いている。
今夜は新刊のコーナーに「戦後部落解放運動史」を見つけることができた。
友常勉氏の著書は初めてだから、なおさら関心がある。
彼は狭山事件がきっかけで、部落問題に関心を持ち始めたと言う。
ひとまわり近く年下の彼とは、その意味では同時代を生きてきたと言える。

土日に読み切る決意。
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重く 哀しい しかし 希望も忘れない

2012年05月06日 20時01分43秒 | わたしごと
コニカミノルタプラザに行ってきました。
「地球の上に生きる2012」DAYS JAPAN フォトジャーナリズム写真展に。

「DAYS」は、趣旨に賛同しながらも、小遣いの関係上、「立ち読み」しかしていないフォト月刊誌。

「2004年の創刊以来、多くの方の共感と熱い支持のもと、日本で唯一のフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPANは、今年で8年目を迎えました。また、2005年から始まった「DAYS国際フォトジャーナリズム大賞」は一貫して「人間や自然の尊厳」と「被害者の立場」からの視点を守り続け、世界的に高い評価を頂いております。
今年の写真展では、東日本大震災と福島第一原発事故の被災者たちの姿や世界の各地で立ちあがった市民たちの闘い、児童労働の現場など、大きな変化の中で厳しい現実に直面しつつ、この地球の上に生きる人々を捉えた写真が数多く展示されます。皆さまもぜひ、一枚の写真から、真実のメッセージを感じ取って下さい」というサイトのコピー。

「毛繕いのサル」などの、可愛い動物の写真も捨てがたいのですが、東日本大震災、原発、中東、バングラディッシュ、リビアなど、重く、哀しい写真が、ずらりと展示されている。

なぜ、人類は、貧困や戦争を克服できないのだろうか。

それほど難しく、克服困難なものなのだろうか。

自分の生命が第一。
その核たる命題が、最優先するなら、同心円のように、自分から距離をおけばおくほど、人は無関心になり、また不利益を与えても構わないという心情になっていく。

これが崩れないかぎり、なにも希望は生まれてはこない。

かつて私が書いた「期待の星」である「宗教」も、それに応えてくれるものになりえるのであろうか。



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こだわりは好きです

2012年05月06日 18時49分28秒 | 素人の劇評
「星を撃ち落とす」
劇団はんなりふるぼっこ
pit北/区域
5月6日15時の部 千秋楽

偶然と思えることも、必ず理由、原因があり、その積み重ねが結局は「必然」といわれるものなのだ。
だから私達が日々、選択している、どんな些細なことも、実はあらかじめ決められたもので、自己が自由な意思で選びとったものなど、なにひとつない。
大学時代、こんなことを誰彼問わずに説いていたクラスメイトがいた。宿命論にかぶれた、その友人は、いまどこでなにをしているのだろう。(あるいは、とっくにこの世からさよならしているかもしれない)

登場人物はたくさんいるが、これは原作者の自問自答なのだろうと思う。

循環小数のような展開ながら、この「屁理屈劇」(失礼)を私なりに楽しむことができた。

注文は三つ。

①宿命についてのシンポジウムではないので(また失礼)、もっと身体表現も追求してほしかった。
 内容からして、会話劇という形式を意識したのだろうし、劇場の狭さも加味しなくてはならないのだろうが。
 これは次回のお楽しみ。

②若い役者さんばかりの劇団は、「熱い」が、「安心感」という点で欠ける傾向にあると思う。
 今回出演の役者さんの演技が「なかなかのもの」だっただけに。
 客演、友情出演なりで、年齢構成のバランスを図ってみてはどうか。(若さが信条なら仕方ないが)

③この劇は、虚無、希望のどちらを、私たちに選択させようとしているのだろうか。
 「それはお客の判断に・・・」でも構わないが、役者同士の稽古の際に、どんな話がでてきたのか興味あるところだ。
 私たちに投げられるテーマも悪くないが、劇団員として、原作者として、後者であったことを願う。
 希望を、人間の深みを、ぜひ私たちに与える劇であってほしい。
 
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ぶらぶらと

2012年05月04日 17時59分00秒 | わたしごと
平日のため、メーデーには久しぶりに参加できず、さらに憲法記念日にも、何もアクションもせず、今年のゴールデンウィークは、なんとも不甲斐ない毎日になりそうだ。
あと2日でなにができるだろうか。
とりあえずは、今読んでいる本を読みきろう。
「星につなぐ道」「道徳教育はホントに道徳的か」
雨が続いているのも鬱陶しい理由かもしれない。
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労働条件と事故 そしてわれわれ教員

2012年05月01日 22時49分56秒 | 教育を考える
事故の原因は、労働条件の劣悪さに求める論調の記事が増えている。
内容を読んでみると、なるほど事故も起きて当然といったものだ。

私たち、教員はどうなんだろう。
授業中に居眠りをしても、子どもが命を落とすことはない。
が、確実に学力は低下するだろう。

安く、しかも効率的に教員を酷使しよう。
手持ちの予算を、格差をつけて再分配しよう。競争原理によって、教員の質は上がるだろう。
しかし、この考えは、現場にいる私たちには虚しい「仮説」である。


「群馬県藤岡市の関越自動車道で7人が死亡した高速ツアーバス事故で、河野化山(こうの・かざん)容疑者が事故原因を「居眠りと疲れ」と供述したことから、群馬県警は今後、バスを運行した「陸援隊」(針生裕美秀=はりう・ゆみひで=社長)=千葉県印西市=の労務管理の実態に焦点を合わせて捜査を進める方針だ。道路交通法違反(過労運転下命または容認)容疑での立件も視野に入れている。

 県警によると、河野容疑者はサービスエリアでの休憩中、ハンドルに突っ伏して寝ていたとの乗客の証言がある。また、運行経路に不慣れなためか、カーナビを頻繁に見ていたとの証言も得られている。実際、運行計画とは異なる遠回りのルートを走っていた。

 針生社長は事故直後、同社の主な業務内容について「つい最近まで(成田空港-東京都内間などの)インバウンド(外国人旅行者の受け入れ)の仕事をしていた」と報道陣に述べた。普段、近距離の輸送にあたっていた河野容疑者が、片道500キロ以上に及ぶ今回の走行で疲労を蓄積させた可能性もある。

 労働実態については千葉労働局も調査に乗り出しており、労働基準法が定めた労働時間を超える勤務実態がなかったか、同社の勤務日報などを入手して調べている。」【毎日新聞 喜屋武真之介、黒川晋史】
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