まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フィレンツェ支配者ピエロ妃 ルクレツィア

2010-06-07 23:45:15 | イタリア王・公妃
中世的教育ママ
ピエロ・ディ・コジモ妃 ルクレツィア・トルナブォーニ


1425~1482/在位 1464~1469

ピエロ・ディ・コジモは、ピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病み)と呼ばれていました。
やはり食事が贅沢だったのかしらね? お洋服は質素な方だったそうですが…

ルクレツィアの一家は追放の憂き目にあっていたところを
コジモ・イル・ヴェッキオの助けを受けてフィレンツェに帰ることができました。

まだまだ敵が多い時代、ひとりでも多くの味方が欲しかったんでしょうね?

          
両家の絆を深めるために、ピエロとルクレツィアが結婚することになりました。
ルクレツィアは19歳、ピエロは28歳でした。

ルクレツィアは子供たちに、質のよい文学や芸術を学ぶ機会を与え
哲学、経済、政治の家庭教師をつけて教育しました。 メディチ流英才教育なのか?
今は貴族じゃないが、いつかはそうなるのよ、あんたたち! ということかしら?

ルクレツィア自身も詩人としても知られていました。
いつごろ書かれたかは定かでないらしいけど、聖書や神話にまつわるものが多かったそう。

ちょいと経営手腕に欠けるピエロのもと、メディチ銀行も父親コジモがやっていた頃より
下火になり、反メディチ派の動きも活発になってきました。

ピエロとルクレツィアはメディチ家のステイタスを高めようと考えます。
フィレンツェ以外、特にローマの名家とお近づきになりたいと望んでいました。
そのためにはお子様たちの縁談が手っ取り早いですよね。

ルクレツィアは頑張って息子ロレンツォとオルシーニ家のクラリーチェの縁談を
まとめあげました。
有言実行、意志の強い方だったとお見受けします。
しかし、この結婚は失敗だったかも…

娘ビアンカはフィレンツェの名門パッツィ家のグリエルモと結婚しましたが
後にメディチ家とパッツィ家は教皇シクストゥス4世を巻き込む(というか言い出しっぺ)
ものすごい抗争をおこします。
グリエルモは助かったけど。

痛風を患っていたピエロは1469年に亡くなり、ルクレツィアは13年後に亡くなりました。

            
               マドンナとして描かれたルクレツィア
                    やはり読み書きを教えてますわね


さて、ピエロももちろん芸術家のパトロンでありました。
父コジモから受け継いだ画家たちもいましたが、それ以外に

 
   ドメニコ・ヴェネツィアーノ          ベノッツォ・ゴッツォリ

などがおりました。
若きボッテュチェリもお世話になったみたいです。

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィレンツェ支配者コジモ妃 コンテッシナ

2010-06-06 00:23:25 | イタリア王・公妃
冠を持たない“ 実質上の王妃 ”
コジモ妃 コンテッシナ・デ・バルディ


1390頃~1473/在位 1434~1464

ヨーロッパの爵位の優劣は、一応 “ 公・候・伯・子・男 ” になっていますけど
公爵の上に大公があります。
王様の次に偉いってことかしら?

ルクセンブルクを始め、キエフ、オーストリア、バーデンなど様々ありましたが
(ちなみにモナコは大公国ではありませんでしたし、今でも違います)
今回はトスカーナ大公シリーズでいこうかしら、ということで
メディチ家がフィレンツェの支配者になったあたりから始めたいと思います。

言わずと知れた大富豪メディチ家は、(一説では)薬屋から身を起こし
大銀行家になり、ローマ教皇を輩出し、大貴族にまでなった家柄です。

後年、君主になってから書かれた年代史では、始祖はカール大帝軍の勇敢な騎士だとか
10世紀以前からの封建貴族だったとか、いろいろ書かれているそうですけど
それは、まあ、ハクをつけるためにちょいと誇張があるんじゃない? ということで…

もとはムジェッロ地方の炭焼きだったという説があります。
しかし13世紀にはすでに農耕地や森を含む相当広大な土地を手に入れていたり
いくつも館を立てたりしています。
今、成功するためのビジネス本を出せば、ベストセラーじゃないですかね?

しかし、どの家庭も三代目、四代目となりゃ…しかも分家が進み
メディチ家内でも貧富の差がでて、抗争や裏切りが続きます。 はしょるけどね…

そんな中、頭角を現し、銀行を “ メディチ・ホールディングス ” 並に大きくして
フィレンツェの政府にくい込んでいったのが、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ、
コジモ・イル・ヴェッキオ(老コジモ)のお父様です。

ジョヴァンニの後を継いだコジモは、支配者になるために生まれたような人でした。
人を惹き付ける魅力に富み、冷静さを持ち賢明さを備えた野心家でした。
コジモは銀行をさらに大きくしながら、政治の分野でもさらに重鎮となり
ついには “ 称号を持たない実質上の王 ” (by 教皇ピウス2世)になりました。

そんなコジモの妻コンテッシナは、以前は銀行家だったバルディ家の娘でした。
バルディ家は名門で相当裕福でしたが、イングランド王エドワード3世に貸した金が焦げ付いて
1343年に銀行が倒産しました。 賢夫人フィリッパがついていながらどうしたこと?

        

今までの生活レベルは守りたいと考えたバルディは、利権が得られる仕事はないかしら?と
探していたところ、メディチ家からお声がかかりました。
コジモのおじいさまアヴァラルドの頃ですかね?

コンテッシナは1414年にコジモと結婚しました。

フィレンツェではまだまだ他の勢力もあって、特にアルヴィッツィ家は強力でした。
コジモは対立の末逮捕され、10年間の追放にあったりしています。
コンテッシナも一緒に苦労なさったんでしょうね。

それなのに…
コジモは女奴隷マッダレーナとの間に庶子カルロをもうけたりして
悲しみのためなのか、コンテッシナは目が見えなくなってしまったそうです。
でも、女の人を買って家に置くことは珍しくなかったんですってさ…

コジモより10年ほど長生きして、1464年に亡くなりました。

さて、メディチ家といえば芸術のパトロンとして名高いですね。
コジモは書籍蒐集や人文学研究、建築、彫刻等にも力を注いでいますが、画家では

 
    フラ・アンジェリコ          フィリッポ・リッピ 

  
     パオロ・ウッチェロ               アンドレア・デル・カスターニョ

などのパトロンになっていました。
援助した方ももちろんすごいのだが、当時の他国の絵画に比べて
イタリアは違う世界のレベルにいっちゃってますよね!
細かさといい色数といい…女性の肖像画だってぜんぜん違うもの…

(参考文献 森田義之氏『メディチ家』 Wikipedia英語版)

メディチ家
 講談社


このアイテムの詳細を見る

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア王ウンベルト2世妃 マリーア・ジョゼ

2009-08-25 01:38:53 | イタリア王・公妃
ヒトラー大嫌い! イタリア最後の王妃
ウンベルト2世妃 マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ


1906~2001/在位 1946

マリーアはベルギー王アルベール1世王女で、1930年にウンベルトと結婚しました。
この結婚は幸福ではなかったと彼女自身が語っていますが
政治的な理由で離婚はせず、長年別居する結果になりました。
       
大戦中、ムッソリーニ内閣の中に親しい閣僚がいて
連合国側のベルギーと繋がりが深いマリーアはイタリア、ドイツ側と
他のヨーロッパ諸国との外交の数少ない窓口でした。
イギリスの外交官は彼女を「イタリア王室で唯一政治的決断を下せる人物」だと
書き記しています。

同盟国ではありましたが、マリーアはヒトラーが大嫌い! でした。
マリーアの兄ベルギー王レオポルド3世はヒトラーのせいで退位になり
その上、ドイツに監禁されていました。

ヒトラーはイタリアを訪れた時、冷淡な扱いを受けたと怒ってますが
マリーアも(もし会ったとしたら)かなり冷たく接したんじゃないかしら?

敗戦後ウンベルトは王位を譲られたものの、国内の世論は No more King !! だったのね。
1ヶ月後に国民投票によって廃位されましたが、それまでウンベルトとマリーアは
自ら王室存続のデモに参加したりキャンペーンをはったりと夫婦で頑張りました。

結局敗れた後は一家でポルトガルへ脱出し、その後別居を決意します。
マリーアは4人の子供たちとスイスへ移りました。
離婚をしなかったのは、まだイタリア王復位を望んでいたウンベルトが
イメージダウンを恐れたからです。

ウンベルトは帰国を許されないまま1983年に亡くなり
マリーアはその後イタリアに帰りました。
2001年にジェノヴァで肺がんで亡くなりました。

彼女は気骨のある人だったみたいで、ムッソリーニが国民の名をイタリア名に
改名させようとした時、マリーア・ジョゼッペへの改名を拒否しています。
スイスではパルチザンに武器や食糧の援助を行い、彼らのシンボルになりました。
お美しいし、今ならダイアナ妃のようにカリスマ王妃として注目され
ファッション誌に特集されたりパパラッチされたりしちゃうかしら?

イタリアでは王政復古運動もあるみたいなんですが、まず息子のヴィットーリオが
王位継承権を放棄しているから(この方、かなり怪しい経歴を持っていらっしゃる)
孫のエマヌエーレ・フィリベルトもどうなんでしょう? 継承権はないのかしら?
奥様は女優のクロチルド・クローよ! 素敵ね。

私としては王国がたくさん復古してくれると楽しいんだけど(無責任発言 )

             
                小さな頃のマリー・ジョゼ
                    なんて可愛いのでしょう!!


(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)

ヨーロッパ最後の王たち 創元社


このアイテムの詳細を見る

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世妃 エレーナ

2009-08-24 00:15:19 | イタリア王・公妃
ムッソリーニを信じた王妃
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世妃 エレーナ・デル・モンテネグロ


1873~1952/在位 1900~1946

いきなりのモンテネグロ…モンテネグロは1878年に王国になって
第一次世界大戦後はオーストリア=ハンガリー帝国に占領され
後にユーゴスラヴィア王国に組み込まれてしまったという短命な王国です。

エレーナは1869年にヴィットーリオと結婚しました。
一時はエチオピア王妃とアルバニア王妃になりましたが、ヴィットーリオが早々に
王位を放棄したため短い間のことでした。

        

第一次世界大戦では連合国側について戦勝国になったんだけど
あまり働きが評価されなかったようなのね…
たいしたご褒美も無く、国はどんどん貧しくなって共産主義が台頭します。

そこへ現れたのがファシズムを提唱するムッソリーニでございます。
エレーナは王にムッソリーニに紹介し、彼の運動を後押ししました。
ヴィットーリオも、手の施し用が無くなった共産主義や自由主義封じ込めに
ムッソリーニが役立つと、むしろ好意的に接していました。

君主制を存続させたいためにムッソリーニと結託したところまでは思惑どおりですが
そこからが計算違い、ムッソリーニはファシスト党を結成し
勢力を拡大していき1922年に首相になりました。
その後の王家はお飾りに過ぎなくなっていきます。

ヴィットーリオは「ドイツが負ける」と考えていて
枢軸国側での第二次世界大戦参戦は反対したと言われていますが
結局ムッソリーニと軍部に押し切られ(いずこも同じか?)参戦しました。

エレーナの願いだったのでしょうか?
一時期ユーゴスラヴィアへ侵攻しモンテネグロ王国を復活させましたが
3年で手放すことになりました。

大戦の結果は…ご存知の通り我が国同様敗戦ですね。
ヴィットーリオと議会はムッソリーニを解任すると新政府を樹立して降伏しました。
その後、ヴィットーリオは退位してエジプトへ出国し、翌年スペインで亡くなりました。

大戦中エレーナはモンテネグロ王国が復活したり、甥のミカエル王子が釈放されたりと
いい夢を見れたようですが、戦後は亡命生活を余儀なくされました。
夫の死から5年、フランスで亡くなりました。

(参考文献 ピエール・ミケル『ヨーロッパ最後の王たち』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア王ウンベルト1世妃 マルゲリータ

2009-08-22 01:37:15 | イタリア王・公妃
ピッツァで有名ですね
ウンベルト1世妃 マルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ


1851~1926/在位 1878~1900

マルゲリータとウンベルト1世はいとこにあたります。
        
マルゲリータは画家や作曲家など芸術家の庇護者で、芸術協会もいくつか設立しています。
慈善にも多く携わっていて、特に赤十字に力を入れていました。

ウンベルトの人柄はともかく、統一されて日も浅いイタリア国内は混乱の極みで
デモや暴動などは絶えませんでした。
ウンベルトも何度か暗殺未遂に遭い、幸い未遂におわっていたものの
1900年にはとうとう銃弾に倒れることになりました。

デイジーという意味を持つマルゲリータはピッツァの由来になっています。
王妃がナポリを訪問した時に献上されたらしいのね。
それからアフリカのスタンレー山のマルゲリータ・ピークも彼女が由来らしいです。

そんな愛らしい名を持つ王妃は、夫とは反対に人気があったらしいのですが
政治的にはちょっとファシズム寄りだったそうでございます。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世妃 マリーア・アデライデ

2009-08-21 00:59:02 | イタリア王・公妃
やっとイタリアらしい王様登場
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世妃 マリーア・アデライデ
                      ダスブルゴ=ロレーナ


1822~1855/在位 1849~1855

待ってました! ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世。
今までの王様はなんだか物足りない気がしてたのよね…愛人がいな~い。
いたかもしれないけど少な~い。
イタリアよ! 首相はベルルスコーニなのよ!! 愛人スキャンダルが無くてどうする?
ヴィットーリオ王には少なくとも6人は愛人がいたもようです。

そんな王様の王妃は大変ですね。
マリーア・アデライデはヴィットーリオの従姉妹にあたります。
       
8人めの子供を出産して2日後になくなりました。



              
長きにわたって王の心をとらえ続けた
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世妃 ローザ・ヴェルセラーナ


1833~1885/在位せず

ローザの父親はもともとナポレオン軍の兵士だったのですが
失脚後はサルディーニャ王国軍に入隊し、猟場の守衛になりました。
一家で暮らしていた猟場をヴィットーリオが訪れた時ローザは14歳。
でも年齢なんておかまいなし!とっとと愛人になったらしく翌年子供を生んでます。

1849年にヴィットーリオがサルディーニャ王に即位した時、ふたりの関係は
大スキャンダルとして取り沙汰されたのですが、1855年に王妃が亡くなると
ヴィットーリオはローザに爵位を与えたりして優遇します。
他にも愛人がいたので差別化するためだったのかもしれませんね。

1861年、イタリアがひとつの王国になりヴィットーリオが即位します。
イタリア統一をものすっっっごく簡単に説明すると
ナポレオンがやって来て他の名家を駆逐してくれて
ナポレオン失脚後にオーストリアのおかげで失地も回復、
ナポレオン3世の援助を受けてオーストリアを敗り半島統一、てな感じです。

ヴィットーリオは、統一運動を組織したりクリミア戦争に出兵したりと
果敢に戦った方ではないかしら?

首都がフィレンツェに移って5年後、ヴィットーリオは重病に陥り死にそうになりました。
すると彼は急いでローザと結婚することにして、宗教儀式のみの式を挙げました。
教皇も間に合わないので電報で祝福を求めたほどです。
…でも死にませんでした、ってことで8年後に正式な結婚式が挙げられました。
式は挙げましたが貴賤結婚になり、子供たちには継承権はありません。
         

1878年ヴィットーリオが亡くなり、8年後にローザが亡くなりました。
サヴォイア家は彼女を王家の霊廟に埋葬することを拒み
トリノに良く似たひとまわり小さい霊廟を建ててそこにローザを葬りました。

浮気な王を30年以上自分のものにしておけるなんて…すごいわ!
しかも死に瀕して結婚式をあげなければ! と思わせるなんて。
長い愛人人生を送った末の勝利、女冥利に尽きますな。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サルディーニャ王カルロ・アルベルト妃 マリーア・テレーザ

2009-08-20 00:31:40 | イタリア王・公妃
豪華な血筋に驚く
カルロ・アルベルト妃 マリーア・テレーザ・ダスブルゴ=トスカーナ


1801~1855/在位 1831~1841

マリーアは、ナポレオンによって両親がウィーンに追放されている時に生まれました。
1817年にカルロ・アルベルトと結婚しました。

カルロ・アルベルトは後継者がいなかったカルロ・フェリーチェに指名されて
王位につきます。

カルロはもともと継承者になる可能性が極めて低い人物だったわけですが
性格的にも王には向いてなかったらしいのね。
当時イタリア半島はナポレオンは駆逐されたものの、オーストリアの支配が高まってきて
反オーストリア派の暴動などが盛んにおこっていました。

優柔不断で好戦的、独断的というわけで、激動のイタリアを治めるには
ちょっと不適当だったようです。

1849年、オーストリアに敗れると退位してポルトガルへ亡命して亡くなりました。
マリーア・テレーザはどうやら残ったみたいですね。
息子が王に即位してますからね。
         
とはいえ、カルロの死後はまったく公の場に姿を見せなくなったようです。
1851年にトスカーナへ帰り4年後に亡くなりました。

強固なカトリック信仰と保守主義の持ち主だったそうで
息子ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に多大な影響をもたらしたと言われています。

さてさて、驚くのは彼女の血筋!
当時イタリア半島をめぐって争っていたブルボン=スペイン家とハプスブルク家の
両方の血を濃い~く引いています。
詳しくは家系図をご覧下さいませ。
       

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サルディーニャ王カルロ・フェリーチェ妃 マリーア・クリスティーナ

2009-08-16 00:08:44 | イタリア王・公妃
芸術がご趣味
カルロ・フェリーチェ妃 マリーア・クリスティーナ
              ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ


1779~1849/在位 1821~1831

う~、長いんじゃい名字! あやうく3行になるとこだったわ。
シシリーのブルボン家ってことですが、1718年にヴィットーリオ・アメデーオ2世が
ハプスブルク家に引き渡したシシリーはいつの間にやら(1734年からです)
ブルボン家が統治しておりました。

家系図も3家入り乱れた感じになっております。

       

28歳の時にカルロと結婚というから、当時の王女としてはかなり晩婚ですね。
カルロも42歳で初婚のようですけど、それまで女っけがなかったとは思えないなぁ。

カルロは五男でまさか自分に王位がまわってくるとは思っていなかったのですが
兄ふたりが退位し、ふたりは既に亡くなっていたため即位するハメになってしまいました。

どうやらこの兄弟、皆さん政治に興味がないようで、カルロも芸術が大好き!
王夫妻はあまり宮廷にはおらず、お気に入りのレジデンスに芸術家を招いたりして
心地よい毎日を送っておりましたとさ。
王というより一領主みたいな気分だったんじゃないかしら?

マリーアは1825年から考古学者ビオンディ男爵やカニーナなど
ツスクルムの発掘に携わった人物を雇い入れています。
この時期に古代の芸術品がアリエ城に蒐集されたそうです。

1831年にカルロが亡くなりました。
ふたりには子供がいなかったので後継者は分家のカリニャーノ家に移ります。
母后というわけでもないので宮廷にはいずらかったんでしょうか?
ナポリやアリエなどの城を転々として過ごし1849年に亡くなりました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サルディーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世妃 マリーア・テレーザ

2009-08-14 02:27:15 | イタリア王・公妃
              マリーア・テレーザ 2ちゃいでちゅ

兄夫婦と同じような・・・
ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世妃 マリーア・テレーザ
                      ダウストリア=デステ


1773~1732/在位 1802~1821

ブルボン家とばっかり … と思っていたら、やはりハプスブルク家とも縁談があったのね。
これが政治ってものなのか …
でもエステ家はもともとイタリアの名家だしね。

         

マリーアは15歳の時に14歳年上のヴィットーリオと結婚しました。
結婚生活は兄夫婦同様幸せだったそうです。

1802年に兄王カルロ・エマヌエーレ4世が退位したためヴィットーリオが王に即位しました。
兄王には子供がいなかったので王位がまわってくる可能性はあったのですが
ヴィットーリオもあまり政治に興味がなかったみたいで
ナポレオンが失脚するまでサルディーニャにとどまり平穏に暮らしておりました。

1814年、ナポレオンが失脚し(すご~く簡単に言うと)オーストリアのおかげで
本土の領土が戻り、めでたくトリノに帰ることができました。

けれどもトリノはナポレオン時代に自由主義が台頭していて
すでに抑えることが難しくなっていました。
1821年に革命がおこり、ヴィットーリオは弟に王位を譲って退位します。

ヴィットーリオは亡命などはせず、トリノで暮らし1824年に亡くなりました。
マリーア・テレーザは8年後に亡くなっています。

ちなみに、1819年からヴィットーリオも勝手にイングランド王ヴィクター1世に
されていましたが、やはりどうでもよかったようで特に動きはみせていません。
ジャコバイトもちょっとしつこいんじゃなくって?

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サルディーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世妃 クロティルデ

2009-08-11 00:33:51 | イタリア王・公妃
幸せ太り? ぽっちゃり王妃
カルロ・エマヌエーレ4世妃 クロティルデ・ディ・ボルボーネ


1759~1802/在位 1796~1802

この時期サルディーニャはフランスとばりばりに政略結婚をしています。
ブルボン家とハプスブルク家は、各国でおこる王位継承の争いで何度も争っているし
イタリア半島を廻っても長年争っていました。
サヴォイア家は利害を考えてどちらかにつかなきゃいけなかったわけです。

この時は兄弟姉妹あわせてトリプル結婚です。
カルロ・エマヌエーレはルイ16世の妹クロチルデと1775年に結婚。
マリーア・ジョゼッピーナはプロヴァンス伯(後のルイ18世)と1771年に、
マリーア・テレーザ はアルトワ伯(後のシャルル10世)と1773年に結婚しました。

        

サルディーニャ王女たちはあまり幸福な人生を送れなかったようですが
クロティルデの結婚生活は幸せだったみたいです。
ふたりには子供がいなかったのですが、カトリック信仰で強~く結ばれていて
お互いを熱愛してたんですって

ふたりは幸せでもヨーロッパは激動の時代です。
クロティルデの実家フランスではフランス革命がおこり、兄のルイ16世一家は処刑され
逃げて来た親族をカルロ夫婦で保護したこともありました。

1796年、カルロはサルディーニャ王に即位しましたがイタリアではナポレオンが大暴れ、
イタリア本土の全ての領土を放棄させられてサルディーニャ島に撤退しました。
カルロは統治とか領土回復にあまり興味がなかったみたいで
ローマとかナポリの裕福な家を夫婦で訪ね歩いてのほほんと暮らしておりました。

             
               少し落ち着かれたみたいで…
                     穏やかそうな方ですね


戦争じゃ! 領土じゃ! 愛人じゃ! という肉食系王の王妃は苦労も多かったでしょうが
クロティルデはそんなにつらい思いもせず芸術や音楽を愛でていたようですよ。
太っていたので “ ぽっちゃり夫人 ” というあだ名がついていました

1802年、クロティルデが病気で亡くなると、カルロは退位を決意します。
その後はローマに移り宗教に没頭した生活を送って、1819年に亡くなりました。

ジャコバイトは1807年、勝手にカルロをイングランド王チャールズ4世にしていましたが
相手にしていなかったのか特に抗議はしなかったみたいです。

ところでね、愛し合うふたりに気になることが …
カルロはローマのサンタンドレア・アル・クイリナーレ教会に埋葬されたんですけど
クロティルデはナポリのサン・カタリーナ教会に埋葬されていたので
別れ別れになってしまったってことじゃない? 今でもそうなのかしら?
今からでもいいから一緒にしてあげてはどうかしら?

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サルディーニャ王カルロ・マヌエーレ3世妃 ポリッセナ・クリスティナ

2009-08-11 00:33:39 | イタリア王・公妃
特にないのですが・・・
カルロ・エマヌエーレ3世妃 ポリッセナ・クリスティーナ・ダッシア


1706~1735/在位 1724~1735

父親のヴィットーリオ・アメデーオ2世から厳しく教育され、政治を仕込まれ
絶対に人を信じちゃいけないぜ!と教え込まれていたカルロ・エマヌエーレ3世ですが
奥様に対してはどうだったんでしょうね?

最初の妃ヴィッテルスバハ家のアンナ・クリスティナは1723年に19歳で亡くなりました。
        
ポリッセナとは翌年再婚しました。
ポリッセナは6人の子供を生んで28歳で亡くなりました。



              

華麗なる親族を持つ
カルロ・エマヌエーレ3世妃 エリザベッタ・テレサ・ディ・ロレーナ


1711~1741/在位 1737~1741

あんまり書くこと無いんですけど、家系図は華々しいんですよ
母親はルイ14世の姪、兄は神聖ローマ皇帝フランツ1世、義理の姉が女帝マリア・テレジア
というゴージャスさです。

          

29歳の時、3人めの子供の出産の時に合併症で亡くなりました。

3人の妃が全て若くして … 宮廷が寒すぎるせいじゃなくて?
節約もほどほどに



              
在位期間最長
ヴィットーリオ・アメデーオ3世妃 マリーア・アントニア
                     ディ・スパーニャ


1729~1785/在位 1773~1785

最長とは言ってもサルディーニャ王国ではってことで12年です。
ヴィットーリオ・アメデーオ3世はナポレオンに敗れてます。

彼女もエピソードは無いがスペイン王女ということでブルボン家出身。
家系図はそこそこ複雑で貴族っぽくなってます。

          

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サルディーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ2世妃 アンナ・マリーア

2009-08-09 00:47:18 | イタリア王・公妃
華やかな宮廷から質素な宮廷へお嫁入り
ヴィットーリオ・アメデーオ2世妃 アンナ・マリーア
                    ディ・オルレアンス


1669~1728/在位 1720~1728

イタリアはねぇ~、詳しいことは分からんのだがミラノ公国とかナポリ王国とか
小さな国に別れてまして、他の中世ヨーロッパのように熱烈に統一しようという
意志がなかったのか小分けのまま統治されてたのよね。
あとはブルボン家とかハプスブルク家に虫食いで支配されてまして
イタリア王国として統一されたのはつい最近(1861年)です。

てなわけで、イタリア半島を統一してイタリア王になったサヴォイア家を
サルディーニャ王になったところから …

この当時のイタリアは、ヨーロッパの2大勢力ブルボン家とハプスブルク家に
見事に巻き込まれていて家系図はけっこう複雑で面白いです。

アンナ・マリーアはオルレアン公フィリプ1世の娘で
フランス王ルイ13世と、イングランド王チャールズ1世の孫にあたります。
15歳の時、サヴォイア公だったヴィットーリオ・アメデーオ2世と結婚しました。
この結婚はヴィットーリオの母で摂政のマリーア・ジョヴァンナがアレンジしたものです。

マリーア・ジョヴァンナはヴィットーリオが9歳の時から摂政についていましたが
一度握った権力を離したくなくて、息子は政治にタッチさせず放任していました。
ヴィットーリオは母に反抗することはなく、女性にうつつを抜かして暮らしていました。

が、実はこれは仮の姿で、結婚と同時に親政に乗り出し母の口出しを許しませんでした。
ヴィットーリオはフランスから嫁いできた母のフランス追従の政治が納得できず
母親にも、新たにフランスからやってきたアンナ・マリーアにも秘密主義で
本心を打ち明けたことは一度も無かったそうです。

1713年、スペイン継承戦争終結のユトレヒト条約で
シシリー王に即位したヴィットーリオですが、5年でハプスブルク家に引き渡し
変わりにもらったのがサルディーニャ王国でした。

サルディーニャ王とは言っても宮廷はピエモンテのトリノにありました。
トリノの宮廷は厳格で質素で、炭や灯りも節約したため
華やかさがまったくなくて寒さが身にしみたそうです。
あの豪華絢爛なフランス宮廷と比べたらギャップがすごそうよね。

ヴィットーリオとの夫婦関係は猜疑心に満ちていたし
6人の子供も王太子以外は早く亡くなりました。
アンナ・マリーアはあまり幸せな王妃ではなかったみたいです。
1728年に亡くなりました。

ところで一時期アンナ・マリーアはジャコバイトによって
イングランド僭称王の後継者に指名されていました。
イングランド王家はハノーヴァー家になってジョージ1世が即位していましたが
スチュワート家のジェイムズ・フランシスがジェイムズ3世を名乗っていて
次に継承権があるのがアンナ・マリーアだったのです。
1720年にチャールズ・エドワードが生まれたので後継者からは外されました。

      



王が初めて相談した相手
ヴィットーリオ・アメデーオ2世妃 アンナ・テレーザ
                    ディ・クミアーナ


生没年不詳/在位せず

アンナ・マリーアの死後2年でヴィットーリオは貴賤結婚をしました。
ヴィットーリオは彼女のことを信頼していたようで
彼女には悩みを打ち明けたことがあったそうです。

ヴィットーリオは再婚した年に突然退位してサヴォイアに隠退しましたが
1年ほどで表舞台に返り咲きたくなりトリノに向かいました。

息子のカルロ・エマヌエーレ3世は従おうとしましたが宰相たちが阻止したため
復位は失敗、失意で老け込み翌年亡くなりました。

(参考文献 藤沢道郎氏『物語イタリアの歴史』 Wikipedia英語版)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする