◇遠い福祉、凶行防げず 知的障害、更生施設にも限界 茨城県で5年前、女性2人を相次いで殺害したとして死刑を言い渡された男の最高裁判決が12月1日、確定した。知的障害を抱えていたが支援の網から抜け落ち、盗みなどで刑務所と社会を行き来した末の犯行だった。判決は犯罪を重ねた点も重視し、「犯罪性向は深刻かつ強固。知能の低さや成育歴の劣悪さを過度に評価することは相当でない」と極刑を選択した。再犯を防ぐ手だてはなかったのか。男の歩みをたどった。
「お金に困って」「被害者に申し訳ない」。10~12月、東京拘置所で藤崎宗司(そうじ)死刑囚(49)と3度面会した。記者は発生当時、この事件を取材していた。
藤崎死刑囚はスナックなどの飲食代の支払いに困り、強盗殺人を計画。05年1月18日、茨城県鉾田町(現鉾田市)で1人暮らしの女性(当時75歳)方に侵入し、絞殺して現金7万円余を奪い、10日後にも同町内の1人暮らしの女性(同79歳)方に侵入し、絞殺するなどした。
事件からもうすぐ6年。アクリル板越しに見える藤崎死刑囚はぼんやりとした表情で、声は消え入りそうだ。再犯の理由を問うと、口ごもった後、唐突に「酒やめます」。死刑には「がっかり。借金返せなくなるから」と答えた。
藤崎死刑囚は畑が広がる鉾田町で生まれ育った。中学もほとんど行っていない。卒業後、実家の農作業手伝いなどをしていたが、20歳から8度、刑務所に入った。他人の軽トラックを乗り回し、燃料が切れると放置する。近所の60代の男性は「宗司の姿を見ないと『今度は何で(刑務所)入ったんだ』とうわさになった。気は小さい男だった」と言う。
逮捕時の簡易鑑定で中程度の知的障害とされ、20代のころの裁判では、刑事責任が減軽される心神耗弱と認められたこともあった。刑務所の知能テストでも小2以下の知的障害と診断された。だが、障害者福祉制度へつなぐ療育手帳を取得させた人はいない。両親は死別し、兄弟も障害のハンディを抱え、とても支援できる状況ではなかった。
99年に刑務所を仮出所した際、自立・就労のため一時的に受け入れる関西の更生保護施設に入った。だが、すぐに罪を犯して刑務所へ逆戻り。この施設の現在の責任者は「障害への配慮はするが、専門施設ではないから限界がある」と語る。
つながりかけた更生保護との縁も切れ、02年に満期出所した時は、何の支えもないまま実家に戻った。近所の紹介で草刈り作業のほか、漬物工場の住み込み従業員として大根抜きをした。動作は鈍く、日当2000円程度。それでも刑務所で字を覚え、他人に頼らず暮らした。
そのうち、スナック通いの楽しみを覚える。焼酎を飲み、カラオケで因幡晃の「わかって下さい」を歌う。乾燥芋を手土産に持ってきたこともあった。行きつけの店のママは「寂しくて、構ってほしいんだな」と思ったという。飲み代のつけが重なり来店を断った。ほどなく凶行に走る。事件直後、明け方にもかかわらずママの自宅を訪ね、奪った金でつけを払った。
藤崎死刑囚の存在は民生委員の間でも知られていた。だが、ある元委員は「おとなしいし、泥棒程度だったので、福祉施設へのあっせんなどは考えなかった」と明かす。
死刑囚が20代のころ、保護司としてかかわった男性(82)がいた。「無力感がすごくある」とうなだれ、「更生保護施設はIQ(知能指数)が低い再犯者はなかなか受けないし、保護司は担当期間が過ぎるとタッチできない。彼のような人間は刑務所しか受け入れられない。それでいいのだろうか」と語った。
被害者の弟(76)に会った。「2人もやったのだから命で償うのはやむを得ない」と言いつつも、「藤崎という人は生活するのもやっとの状態。親身に面倒見る人がいれば、とも思う」。
あるじを失った死刑囚の家は今、竹やぶの中で雑草に覆われ、廃屋になっている。
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◆死刑判決が確定するまでの経過(取材に基づく)◆
1961年 8月 茨城県鉾田町(現鉾田市)で生まれる
中学卒業後 地元で土木作業員や農業手伝い
80年 自動車盗(窃盗)で中等少年院送致
82年 8月 自動車盗と強姦(ごうかん)致傷で懲役2年
公判で心神耗弱認定
85年 3月 自動車盗に問われ、公判で心神耗弱認定
86~87年ごろ 同罪で服役
88~89年ごろ 同罪で服役
90年 同罪で服役
94年 3月 自動車盗の常習累犯窃盗で懲役2年2月
96年 4月 刑期終了
12月 同罪で懲役2年6月
99年 3月 仮釈放後、関西の更生保護施設へ
4月 自動車盗の常習累犯窃盗で仮釈放取り消し
8月 同罪で懲役3年
02年10月 8回目の刑期終了。実家に戻る
05年 1月 女性強殺容疑などで逮捕
10年12月 最高裁で死刑判決確定
毎日新聞 2010年12月30日 東京朝刊
「お金に困って」「被害者に申し訳ない」。10~12月、東京拘置所で藤崎宗司(そうじ)死刑囚(49)と3度面会した。記者は発生当時、この事件を取材していた。
藤崎死刑囚はスナックなどの飲食代の支払いに困り、強盗殺人を計画。05年1月18日、茨城県鉾田町(現鉾田市)で1人暮らしの女性(当時75歳)方に侵入し、絞殺して現金7万円余を奪い、10日後にも同町内の1人暮らしの女性(同79歳)方に侵入し、絞殺するなどした。
事件からもうすぐ6年。アクリル板越しに見える藤崎死刑囚はぼんやりとした表情で、声は消え入りそうだ。再犯の理由を問うと、口ごもった後、唐突に「酒やめます」。死刑には「がっかり。借金返せなくなるから」と答えた。
藤崎死刑囚は畑が広がる鉾田町で生まれ育った。中学もほとんど行っていない。卒業後、実家の農作業手伝いなどをしていたが、20歳から8度、刑務所に入った。他人の軽トラックを乗り回し、燃料が切れると放置する。近所の60代の男性は「宗司の姿を見ないと『今度は何で(刑務所)入ったんだ』とうわさになった。気は小さい男だった」と言う。
逮捕時の簡易鑑定で中程度の知的障害とされ、20代のころの裁判では、刑事責任が減軽される心神耗弱と認められたこともあった。刑務所の知能テストでも小2以下の知的障害と診断された。だが、障害者福祉制度へつなぐ療育手帳を取得させた人はいない。両親は死別し、兄弟も障害のハンディを抱え、とても支援できる状況ではなかった。
99年に刑務所を仮出所した際、自立・就労のため一時的に受け入れる関西の更生保護施設に入った。だが、すぐに罪を犯して刑務所へ逆戻り。この施設の現在の責任者は「障害への配慮はするが、専門施設ではないから限界がある」と語る。
つながりかけた更生保護との縁も切れ、02年に満期出所した時は、何の支えもないまま実家に戻った。近所の紹介で草刈り作業のほか、漬物工場の住み込み従業員として大根抜きをした。動作は鈍く、日当2000円程度。それでも刑務所で字を覚え、他人に頼らず暮らした。
そのうち、スナック通いの楽しみを覚える。焼酎を飲み、カラオケで因幡晃の「わかって下さい」を歌う。乾燥芋を手土産に持ってきたこともあった。行きつけの店のママは「寂しくて、構ってほしいんだな」と思ったという。飲み代のつけが重なり来店を断った。ほどなく凶行に走る。事件直後、明け方にもかかわらずママの自宅を訪ね、奪った金でつけを払った。
藤崎死刑囚の存在は民生委員の間でも知られていた。だが、ある元委員は「おとなしいし、泥棒程度だったので、福祉施設へのあっせんなどは考えなかった」と明かす。
死刑囚が20代のころ、保護司としてかかわった男性(82)がいた。「無力感がすごくある」とうなだれ、「更生保護施設はIQ(知能指数)が低い再犯者はなかなか受けないし、保護司は担当期間が過ぎるとタッチできない。彼のような人間は刑務所しか受け入れられない。それでいいのだろうか」と語った。
被害者の弟(76)に会った。「2人もやったのだから命で償うのはやむを得ない」と言いつつも、「藤崎という人は生活するのもやっとの状態。親身に面倒見る人がいれば、とも思う」。
あるじを失った死刑囚の家は今、竹やぶの中で雑草に覆われ、廃屋になっている。
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◆死刑判決が確定するまでの経過(取材に基づく)◆
1961年 8月 茨城県鉾田町(現鉾田市)で生まれる
中学卒業後 地元で土木作業員や農業手伝い
80年 自動車盗(窃盗)で中等少年院送致
82年 8月 自動車盗と強姦(ごうかん)致傷で懲役2年
公判で心神耗弱認定
85年 3月 自動車盗に問われ、公判で心神耗弱認定
86~87年ごろ 同罪で服役
88~89年ごろ 同罪で服役
90年 同罪で服役
94年 3月 自動車盗の常習累犯窃盗で懲役2年2月
96年 4月 刑期終了
12月 同罪で懲役2年6月
99年 3月 仮釈放後、関西の更生保護施設へ
4月 自動車盗の常習累犯窃盗で仮釈放取り消し
8月 同罪で懲役3年
02年10月 8回目の刑期終了。実家に戻る
05年 1月 女性強殺容疑などで逮捕
10年12月 最高裁で死刑判決確定
毎日新聞 2010年12月30日 東京朝刊
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