ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

48歳シングルマザーが貧困に苦しむ深刻事情

2017年10月19日 02時54分36秒 | 障害者の自立
バス代もなく面接に行けない状態
 
障害を持つ息子は1人で留守番すらできない

「もう手持ちのおカネが1892円しかありません。これからどうなるんだろう……みたいな不安だらけ」

関東地方の田舎町、最寄り駅までバスで30分以上かかった。晴天の下、癒やされる田園風景が広がる。しかし、待ち合わせ場所にやってきた佐藤雅美さん(仮名、48歳)の表情は、どんよりと曇る。表情が緩むことはなかった。バツ2のシングルマザー、26歳の知的障害者の息子と2人暮らし。息子は療育手帳Aをもつ重度障害者である。

「2カ月前まで派遣で介護職をしていました。介助でカラダを壊したのと、職場の環境がヒドかったので辞めました。先月から収入は息子の障害年金だけになってしまって、まったくおカネがなくなって、家にある漫画とかゲームを売った。何千円かになって、なんとか10日間くらいはしのげました。でも、もう売れるものは何もないです。バス代もないので、次の息子の障害年金が入るまで、アルバイトの面接にも行けない状態です」

車は車検代が支払えず、使えない。最寄りの駅にすら行けない状態だ。夕方には息子がデイサービスから帰る。お迎え時間には、必ず立ち会わなければならない。息子は食事や入浴、着替えに見守りが必要だ。1人で留守番はできない。在宅介護が始まってから自由はなくなり、働く時間も限られるようになった。

2人暮らしが始まったのは、2年前。息子は小学校2年生のときに在宅は無理と施設に預け、17年間は施設で暮らした。24歳で卒園。受け入れてくれる施設は見つからず、在宅介護が始まった。つねに見守りが必要な状態で、働けるのはデイサービスに行っている時間だけ。事情を話すとコンビニやスーパーには断られ、介護はやっと見つかった仕事だった。

現在、居住する田舎町には6年前に引っ越した。6年前の2度目の離婚のとき、慰謝料としてマンションをもらう。800万円で売却し、現居住地に中古戸建てを購入した。住宅購入した理由は正社員の仕事に就いたことがなく、保証人が誰もいないから。信用がなく、誰も住居を簡単には貸してくれない。人口3万人を切る小さな町、仕事は少ない。

「現状無職なので、収入は息子の障害年金だけ。働こうにも、短い時間しか働けないので月7万円程度が限界です。光熱費とか携帯などの通信費、あと車の維持費とか毎月支払いがある。息子がよく食べるので食費はかかるし、ギリギリというか明らかにおカネが足りないです。パートは面接に行っても、まず断られます。時間的な事情と年齢でしょう。もう、どう生きていけばいいのかわからない。そんな状態です」

現在の年収は障害年金の96万円だけ。これから在宅介護する佐藤さんが働いても、年収90万円程度が限界だ。このままだと世帯年収は96万円のみ、働けても186万円にしかならない。かなり苦しい生活だ。

母親は奔放な女性だった

佐藤さんは非嫡出子だった。自身もシングル家庭で育つ。ホステスだった母親は奔放な女性で、次々と恋人が代わった。佐藤さんは英語が得意だった。高校卒業後は外国人モデルのマネジャーをしたり、通訳の仕事をした。21歳のときにマスコミ関係の男性と同棲して、妊娠をキッカケに結婚した。22歳のとき、長男が生まれた。

父親が違う姉妹がいる。高校を卒業して実家を出てからは、姉妹とは誰とも交流はない。30歳を過ぎてからは母親とも連絡が途絶えた。

「結婚したばかりの若い頃は、本当に平穏で普通の生活でした。おかしくなったのは息子が3歳のとき、障害が判明してから。息子の父親が障害を認めることができなくて、虐待が止まらなかった。父親は精神的にもおかしくなって働かなくなった。とても一緒にいられるような状態じゃなくなりました。どうしたいの?って聞いたら、『別れて1人になりたい』って」

知的障害を含む広汎性発達障害は、自閉症スペクトラムと呼ばれる。特徴や症状がわかるのは、3歳前後と言われている。

「いつまでも言葉が理解できなかったり、じっとしていることができなかったり、何かおかしいなって。そうしたら知的障害があるって。父親は『なんでうちの子だけが』って泣いていました。初めて授かった子で、男の子で障害が見つかって相当ショックだったんじゃないかな。息子は父親に全然懐かなくて、最終的には首を絞めたりみたいなことになった。もう、ダメだなって思いました」

26歳、離婚した。夫は離婚届にハンコを捺して部屋を出ていった。養育費5万円を子どもが成人するまで支払うという約束で離婚したが、支払われたのは半年だけ。請求しても払うことはなかった。それっきりである。

子育ては本当に手がかかった。誰も助けてくれる人はいない、養育費も振り込まれなくなった。貯金は尽きて家賃も払えない。相談できる人はいない。どんなに不安でも、1人で頑張らなければならない。不穏になって暴れる子どもを眺めながら、もうとてもこのまま生活はできないと思った。

「おカネが尽きちゃったんです。ご飯が食べられなくなったりして、どうにもならなくなって児童相談所に相談した。生活保護を受けたらどうでしょうって提案されて、いろいろ動いた。でも、その過程でもう私が疲れてしまって。ワーカーさんたちとのやり取りで疲れ切りました。無理やり調停して『養育費を払わせるように』みたいな流れになったり。母親に無理やり連絡をとったり。もうエネルギーがなくなってしまって、生活保護は諦めたんです」

福祉に助けてもらいたかったが、慰謝料をもらうことは再び子どもと父親がつながることになる。会わせなければならない。それは避けたかった。

生活保護は諦めた。しばらく児童手当と障害手当、それと深刻な窮状を知った母親からのお小遣い程度の仕送りで生活した。毎月のように電気が止まり、たまに水道も止まった。たびたび食べ物にも困る状況になり、最後の望みとして勧められた母子寮に面接に行った。子どもの重篤な症状を理由に断られた。子どもが7歳のとき、どうにもならなくなって施設に預けることを決めた。

出会い系で自営業の人と知り合い、再婚

29歳。仕事を再開した。英会話学校の非常勤講師をして、月15万円程度の収入で細々と暮らした。子どもが生まれて在宅介護が始まってから、友達はいない、さらに一切遊びにも行けなかった。30代になってから誰かとの出会いを求め、出会い系サイトを頻繁に使うようになった。

「出会い系で、電気関係の自営業の人と知り合って、付き合い始めました。2度目の結婚をして、相手の家に入りました。32歳のときです。相手もバツイチ。仕事をしながらの1人暮らしより、生活は楽になりました。久しぶりの普通の生活でした。しばらく平穏だったけど、旦那の娘がうつ病を患って実家に帰ってきた。連れ子と一緒に暮らすようになってから、おかしくなりました」

夫は妻と死別だった。死別までは本当に平穏な家庭だったようで、連れ子の娘からは憎しみがこもった対応が続いた。

「前の奥さんが亡くなってから、ガタガタと幸せな家庭が崩れたみたいでした。うつ病の娘はすごく不安定で、とにかく私に攻撃的でした。お葬式のとき、『絶対再婚しない』みたいなことを言ったらしくて、娘は裏切られたと、とにかく父親にあたり散らしていた。最終的には家族全員から私に『出ていけ!』みたいな感じになりました」

淋しさと貧困生活から抜け出すため、施設で暮らす子どものことを理解してもらいながら、一緒に暮らしていける人がいればいいなと望みを託した再婚だった。このまま普通の生活が送れればいいと思っていたが、10年間で破綻した。2度目の離婚のとき、42歳だった。

離婚の慰謝料として、所有していたマンションをもらった。家族だけでなく、家具や電化製品がなくなった閑散とした部屋を眺めて、別の土地でゼロからやり直そうと思った。

不動産屋に「前年度の収入がなく、保証人もいない」ことを伝えると、丁重に断られた。数軒まわってすべて同じ返答、賃貸住宅に居住することは無理と知った。マンションを売却して住宅購入することにした。現在の田舎町に引っ越した。

「10万円くらい働けば、息子の年金に頼らずに家計はまわる。田舎だし、年齢のこともあって、仕事はコンビニとかスーパーくらいしかない。しばらくはパートをしてやりくりしていましたが、息子が卒園してからはコンビニでも働けなくなりました」

やっと派遣の介護職を見つけたが…

おととし、卒園した息子が帰ってきた。17年ぶりに同居生活。週5日、デイサービスに通う。昼間10~16時までが働ける時間で、あらゆるパートの面接に行ったが「障害のある子どもがいる」ことを伝えると、どこにも断られる。やっと見つけた仕事が派遣の介護職だった。隣の市のグループホームに非常勤介護職として入職した。

「無資格未経験で高齢者介護を始めました。現場リーダーの方に虐待を強制されるというか、ひどい介護する施設でした。ケアマネの方が出勤しない土日は、本当に最低限のことすらしないというか。自力で立ち上がれない高齢者を寝たまま食事介助とか、トイレに行かせないでオムツのままで交換もしないとか。重度の方は完全に放置する。記録はうそも多く、いろいろサービス提供したと書かされました」

介護施設の人手不足は深刻である。第2次安倍政権以降、景気がよくなって求人倍率が上昇してから、誰も介護職をしたがらなくなった。全国的に圧倒的に人が足りず、最近は高齢者を殺してしまう虐待事件が後を絶たない。佐藤さんが勤めたグループホームは第三者的に確認するケアマネがいないとき、現場が一丸となって徹底的に手を抜く運営がされていた。

介護職は人手不足のうえに給与が安く、社会的な評価も低い。現場職員たちは不満を抱え、それが歪となっている。佐藤さんが強制された「食事は寝たままでいい」という介助は、死に直結する誤嚥事故を起こすのが時間の問題だ。介助をしながら恐ろしくなったという。

「夕飯を16時くらいに終わらせてしまって、本当に放置。私も家族の介護は経験があるので、これでは本当に危険と毎日思っていました。記録する表の仕事と、実際の裏の仕事が決まっていて、利用者さんが命を落とすことになったらどうしようって。不安で仕方なかった。だから、しばらく働いて別の施設に移りました」

昨年末、派遣会社に近隣の特養老人ホームを紹介してもらった。

「今度は男性介護職員のパワハラがすごくて、精神的におかしくなるほどやられました。立場的には下の中年男性ですが、まわりに誰もいなくなると、とにかく細かいことに口を出してきて怒鳴ったりする。現場リーダーとか上の人が来ると、なにも言わなくなる。いなくなると、怒鳴る」

先に入職した中年男性のイジメや横暴は、介護現場のパワハラの典型的なケースだ。数カ月早く入職したという理由で威張り散らす。介護職の離職率の高さは、社会問題になっている。最も多い離職理由は毎年「人間関係」で、イジメに近いパワハラに耐えに耐えたが、結局それが終わることはなかった。深刻な人手不足の中、施設側も問題ある介護職を辞めさせることはできないのだ。

「特養では精神的にもおかしくなったけど、さらにカラダも壊してしまいました。機能が低下された利用者さんが何人もいて、パーキンソン病の方の介助で腰を痛めた。坐骨神経痛って診断されて、腰から膝に痛みが走る。歩けなくなったり、起き上がれなくなったりするまで悪化して辞めました。それが2カ月前です。介護で働いて何もいいことなかった。地獄みたいな世界と思いました」

息子がおカネがないことを察する

「息子が私の不安とか、おカネがまったくないとか、そういうことを察するんです。それは、本当にツライです……」

諦め切った表情のまま、悔しそうにつぶやく。

「息子は食べることが好きな子で、おカネがなくて、いつもどおりに買い物ができないのがわかる。おコメが買えなかったりすると、パニック起こして、繰り返し『おコメ、おコメ』って奇声をあげたり、何度も叫んだり。最近は、そんな状態です」

本当にギリギリの生活だが、持ち家があるので福祉は頼れない。それに車がないと生活できないので、なんとか無職から抜けだしてこのままの生活を維持するしかない。

15時をまわった。もうすぐ、息子がデイサービスから帰る時間だ。佐藤さんは大きくため息をついて、立ち上がった。絶望感がただよう無表情のままあいさつをされて、彼女は自宅のほうへと歩いていった。後ろ姿に、何の希望も見えなかった。

10月19日(木)  東洋経済オンライン
 


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